動乱の始まり
「お兄様、どちらに行くつもりですの?」
「げっ……」
「何がげっ、ですの? 記憶が正しければお兄様はこの後、アルフォリア家が新当主を迎える為の会合に出なければならない筈でしたが?」
灰褐色の髪を持った妹が、兄に――オーヴィレヌ家現当主であるテオルードに対して詰問する。
それに対してテオルードは、目を合わせる事ができずに冷や汗を掻きながら答える。
「オレの勘がな、それに出るなって言ってるんだよ」
「そんないい加減な理由で、他の方々を納得させられるのでしたらそれで構いませんが?」
「無茶言うな。無理だってオレの勘が言っている」
「でしたら――」
「だけどなぁ、こう言っちゃあれだが、オレから離れてた方がいいぞ? どうにもさっきから色々と動いてんだが、嫌な予感が消えないんだよ」
「全否定する訳ではありませんが、もう少し相手に対して納得させようという意図を感じさせる信憑性のある言葉を出せませんの?」
会話の内容はさて置き、傍から見れば言葉を交し合う2人は仲睦まじい兄妹にしか見えない。
「と言っても、別に予知って訳でも未来視って訳でもないからなぁ。何となく嫌な予感はするんだが、それが何なのかは分からないし、どうすればそれを無くせるのかも今回のは分からん」
「使えないですわね。お兄様からその勘を取り除いてしまえば、一体何が残ると言うのですの?」
「何も残らんよ? だからオレなんかさっさと当主の座から引き摺り下ろして、他の適当な奴を据えるべきだって」
「そこは思ってなくとも良いので、何か残ると反論してくださいまし。お兄様は気付いていなくとも、周りの方々はお兄様の長所をきちんと理解しておりますので」
「最高の矛盾だよな。能力があればあるほど、自由からは程遠くなるのって」
往来する人々も疎らな、しかし確かな活気に満ちた商店街を2人は歩く。
左右に立ち並ぶ露店は組み立て式の屋台のものも少なくなく、次の日には無くなっているという事も珍しくない。
だがそれでも、その露店を経営する店主の顔にも利用する顧客の顔にも、憂いやその類の色は一切存在しない。
かつて大陸統一を果たした大国であるティステアの正の部分だけを切り抜いた、理想的だと誰もが言えるような光景だった。
だが、理想が理想のままあり続けるのは困難極まりない。
ほんの軽い弾みで、その理想の光景というのは脆く崩れ去る。
その儚さは、組み立てるのと同様に簡単に解体される屋台に非常に良く似ていた。
「あんた、テオルード? オーヴィレヌ家当主の」
「人違いだ」
喧嘩と言うほどでもなく、軽い押し問答を繰り広げる兄妹の前に立ち塞がる少年が1人。
黒髪黒目で表情にはあどけなさを残し、体つきも平凡かそれ以下の、どこにでも居るような誰もが無害と断じる外見の少年。
そんな少年が唐突に2人の前に現れ、自分よりも頭1つ分は背の高いテオルードを見上げて発した問いに対して、テオルードは息を吐くように嘘をついてやり過ごそうとする。
だが他でもない少年が、そうは問屋が卸さないと静止する。
「……まあ、別にあんたが認めようが認めまいが、俺のやる事は変わらないんだけどね。もし本当に人違いだったらごめんなさい、だ」
「……何の用だよ? つか、お前一体誰だよ?」
やり過ごせないと分かったテオルードも足を止めて少年と対峙する。必然的に、彼の妹もそれに習う。
大通りのど真ん中で唐突に足を止めたその3人を、しかし周囲の者たちは特に気にしたりはしない。人口密度の高い時間帯ならばいざ知らず、まだまだ人通りの疎らなこの時間帯で道中で立ち止まっても、然程周囲に迷惑が掛かる訳でもない為に、周囲の者たちも気にする理由が無いのだ。
精々が、たまたま知り合いと遭遇して立ち話を始めたのかなと思うぐらいだった。
「俺は【レギオン】団員ナンバー6のザグバ・バグドールだ。あんたと殺し合いをする為に――」
「ここは逃げろとオレの勘が囁いている!」
「お兄さ――きゃあっ!?」
少年の――ザグバの前口上を最後まで聞かずに、テオルードは言うが早いか妹を問答無用で担ぎ上げ、ウサギもかくやという勢いで逃走を開始。
たった1度の跳躍で屋台は勿論の事、建物をも跳び越えて屋上に着地。そのまま人を1人肩に担いでいるとは思えない身のこなしで、次々と建物に跳び移っては疾駆するという行為を繰り返す。
「……すっげえ逃げ足。何か団長に追い掛け回されているミズキアを髣髴させるな」
その余りにも唐突かつ異常な行動に、周囲の誰もが唖然として見上げる。
それはザグバも例外ではなかったが、程なくして我に返ったようにそう呟き、右拳を握る。
「だけど、俺からその程度で逃げられると思ってんのか? それは随分と甘いな!」
そして握り締めた右拳を、その場で振り抜く。
その瞬間、その場の空気はおろか空間すら震える。
テオルードは、直前で自分の勘に従って急停止した。お陰で、危ういところで被害を免れた。
だが、そうでないもの――たまたまその場に居合わせていただけに過ぎない者たちは、そうはならなかった。
「……マジかよ」
ザグバによって振り抜かれた拳、その拳の軌道上にあったものは、万物を問わずに全てが抉り吹き飛ばされていた。
たまたまザグバの付近かつ前方に立っていた人間の上半身の一部や、屋台は勿論建物もまた、円形に穴が開いていた。
その穴の直径は、正確な数値は出せないにしろ優に10メートル近くはある。
少年の大人と比べれば劣る大きさの拳が、その華奢な腕によって振り抜かれてそんな事象を引き起こす。性質の悪い冗談よりも遥かに性質が悪く、そして悪夢よりも遥かに凶悪な悪夢だった。
これがザグバ・バグドール。
人の領域を超えし【超人】である彼のみが為せる、人智と道理を遥か彼方に置き去りにした技。
「逃げんなよ。逃げたきゃ、逃げないでここで俺と戦って勝て。それしかねえぞ?」
「…………」
ザグバの言葉に、冷や汗を浮かべた引き締めた表情のままテオルードは呟く。
「隙だ、隙を見つけて逃げよう。勝てる訳がねえ」
「お父様、どうかお願いします!」
「そうは言われてもなぁ、言っちゃ何だけど消えたのは所詮無能者だろう? そんな者をわざわざ骨を折ってまで探す必要性は、どこにも感じられないんだよ」
「ただの無能者ではありません!」
本当は本音をこの場でぶちまけてしまいたいのですが、それはグッと堪えて、父を説得できる建前を述べます。
「確かに無能者なのは事実ですが、一方でゾルバから推薦を受けた留学生であるという事は、お父様もご存知でしょう!?」
「それは勿論だが……」
「お父様の言う通り、あの無能者が消えたという事と先日の捕り物の因果関係を裏付けるような確たる証拠はございません! ですが、私の演算した限りでは確実に関係があります!
ましてや、捕り物の途中で何者かの領域干渉系の能力によって妨害が入ったのもまた事実でしょう!?」
「それはそうだとも。お陰でゼインの奴が重傷を負って未だ再起には時間が掛かる上に、あいつの部下も5人死んだのだからな」
「ならば、あの事案が既に私たちの管理下からは離れている事を自覚してください!」
本当のところは憎たらしいほどに事後処理も完璧に終えているのですが、ここは勢いです。勢いが重要なんです。勢い良くそれっぽい事を言って説き伏せるのです。
「いや、事後処理は滞りなく――」
「では、誰が何の目的で妨害して来たのか把握しているのですか!?」
「それは……だが、それを把握するのは我々の領分では――」
「それと無能者の失踪との因果関係がないと、何を根拠に言うんですか!?」
ベルさん曰く皆無なのですが、父がそれを知る筈はありませんしね。
「いいですか、私は最悪のケースを想定して言っているのです! もし杞憂だったのならば、それで良かったと笑い飛ばせば済む話なのです。
ですが最悪の場合、それを皮切りにゾルバが難癖をつけて外交問題に発展させる可能性も0ではないんですよ! それがひいては、秩序の乱れに繋がる事くらいは容易に想像がつくでしょう!」
ここで餌を撒きます。父もまたウフクスス家の者ですからね、秩序という言葉には食いつくでしょう。
「言われてみればそうだな、ミネアの言う通りだ。よしミネア、お父さんに任せなさい! お前の望みを叶えてみせよう!」
「……ありがとうございます」
「なーに、可愛いお前がわざわざ懇切丁寧に進言してくれたんだ、この程度はお安い御用だとも」
何でしょうね、この清々しいまでの手のひらの返しようは。
この人の娘であるという事実が、いま現在無性に恥ずかしくなっています。
ですがここはグッと堪えて、フォローも入れなくてはなりませんね。
「それでも言わせてください。お父様、本当にありがとうございます。私はお父様のことが大好きです」
「あっはっはっはっは! お父さんもミネアの事が好きだぞ!」
うっわ、怖気が走りますね! 本心から言っているという事が尚更それに拍車を掛けますよ。
生憎私の身も心もジンさんのものです。貴方の入る余地なんてありませんよ。
私にとっての貴方の価値は、ただ私を作る種を生み出したという点においてだけです。
「相変わらずですね」
「――ッ!?」
これはビックリです。
何がビックリって、いきなり声を掛けられた事もそうですが、父が声を掛けられるまでその声の主に気付いていた様子が無いという事ですよ。
曲がりなりにも、第6師団の団長を務めている父がですよ。
それで誰かと思って見てみれば、さらにビックリです。
「あの、お父様。気のせいかあの方は私の知り合いの気がするのですが。ここに居てはいけない類の」
「…………」
父は答えませんね。というよりも、私の声が聞こえているかどうかも怪しいです。
これでいよいよ確定ですね、最悪です。
「というわけで、すいませんが早々に失せてくれませんか? 私にとって貴方は今すぐ幻覚だと自分を納得させてベッドに潜り込まなくてはいけない存在なのですが」
「……盗み聞きしていた限りでは丸くなったかなと思ったのですが、どうやらそんな事はなかったようですね。相変わらずの捻くれ振りだ。さすがは我が姪と言ったところかな?」
「……何故貴様がここに居る、オーウェン!」
ようやく父が口を開きましたね。そしてやはりと言いますか、最初に出て来る言葉はそれでしょう。
私の父の弟であり、同時に私の叔父に当たるオーウェン=ラル・ウフクススという名であったあの人は、仲間殺しの罪を犯してティステアから追われた筈ですから。
「お久しぶりですね、兄上。そして訂正が1つ」
オーウェンさんが指を1本立てて、悪戯っ子のように笑って言います。
「いまの私はオーウェンではなく、ヴァイスと名乗っています。傭兵集団【レギオン】団員ナンバー41の【無刃帝ヴァイス】――それがいまの私の名だ」
そして立てた指を、そのまま父へと向けて来ます。
「ここまで言えば、もうお分かりでしょう? 生憎【ヌェダ】は使えない身分になってしまったのでこういう形になりましたが……兄上、貴方を殺しに来ました」
「これは……夢だね」
昼下がりにおけるのどかなあぜ道のど真ん中に立ったアキリアが、顎に指を当ててそう断じる。
気が付けばそこに居た彼女がそう結論を出したのは、直前までの記憶に僅かな空白がある事が根拠だった。
もし転移させられたのならば、その直前までの光景と眼前の光景との齟齬に即座に違和感を抱く筈。だが振り返ってみても、この光景を目の当たりにするまでの記憶の間に判然としない空白が存在し、それは即ち眠りに落ちる直前に意識が曖昧になっていたからであり――というようなまだるっこしい道筋を辿らずとも、彼女は少し前に自分が眠りについた記憶を確かに持っていた。
「幻覚は、多分あり得ないよね。いくら眠っていたって言っても、私に気付かれずに、術中に完璧に嵌められるような術者がそうそう居るとは考え辛いし。だけど――」
頬を抓ってみて、痛みを感じているという事実を確認する。
「痛みを感じる。つまりこれは余程精度の高い明晰夢か、そうじゃなければ夢に干渉されたかだね。夢のほうだったら私の抵抗は関係ない訳だし」
周囲の人の気配はおろか、生命の気配すらない、ただ牧歌的な雰囲気だけは上手く醸し出している景色を見渡す。
「問題は、これがどんな手段によって為されているかだよね。普通に考えれば精神感応系の能力ないしそれに準ずる能力っていうのが濃厚なんだけど――」
そこで目を閉じる。
目を閉じたまま精神を集中させて、自分の中に眠る力に呼び掛ける。
そして再び目を開くと、周囲の景色は劇的に変わって――
「ないね。一切変わってないね」
変わらず穏やかな風の吹くのどかな景色の真っ只中に居る事を確認し、若干げんなりした様な表情を浮かべる。
「そもそも不発したとか、そういうんじゃなくて弾かれたって感じだったよね、いまのは。
つまりは、そういう事なんだろうね。あまり当たって欲しくなかった予想だったけど、まさかこんな風に夢に対して干渉する能力まで存在するなんてねえ」
まいったなと、手で髪を掻き上げる。
それは傍から見れば随分と余裕を感じさせる姿だったが、その外面とは裏腹に、稀に見るレベルでアキリアは焦りを感じていた。
この現状に対してではなく、この現状を作り出した原因に対して。
「ほぼ間違いなく、これは領域干渉系の能力によるものだね」
レギオンが本格始動――するかどうかは不明です。