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色欲王

 



「いやぁ、実にすまなかったねえ。まさか襲われるとは思っていなかったんだよ。あそこってキミが目を覚ます前まで亜竜が巣に使ってた穴でね、そいつには退去して貰ったんだけど、まさか亜種とはいえ竜の縄張りに足を踏み入れるような愚かものがすぐに現れるとは思って無くてさ。

 あれかな、念の為に他の個体が入って来れないようにきちんと安全を確保しておくべきだったかな?」

「知るか」

「まあまあ、そうつっけんどんとしないでくれたまえ。悪いと思っているのは本当の事さ。ご機嫌取りっていう訳じゃないけど、これでも食べて機嫌を直して欲しい」


 視界に手のひらに載せられた、瑞々しい緑色の果実が入って来る。


「要らん」

「好き嫌いは良くないな。いまのキミは内臓が酷く傷ついているから、食べる物には気を付けなければいけない。必然的に食べられる物は限られる訳だから、その分きっちりと食べないと治るものも治らないよ」

「そういう事を言っているんじゃない」


 的外れも良い所な意見で、さらに言えば大きなお世話だった。


「……そう警戒しないで欲しいな、毒など盛ってなんかいない。そもそも殺すつもりだったらキミが寝ている間にトドメを刺しているし、わざわざ手当てなんかもしないさ」


 一方的に捲くし立てながら、半ば無理やり手に押し付けて来る。

 一応腹が減っているのは確かなので受け取っておく。でなければ、視界に必要以上のものが入ってきそうだった。


「……オーケー、分かったよ。少なくともキミの怪我が治るまでの安全はこの場でボクが保障しよう。勿論、ボク自身の行動もそれに適応される。それが当然の礼儀とやらだろうからね。だからいい加減、ボクをちゃんと視界に入れてくれないかい?」

「種を知っていながら、そうするほど力も勇気もおれは持ち合わせていなくてね」

「それこそ杞憂というものだ。キミも知っての通り、ボクの権能は精神的に強い者に対しては効果が薄い。魔力抵抗力に干渉されないのは利点だが、同時に欠点でもあるね。ましてや、キミたち師弟はどうにもボクの権能がことさら効き辛いからね」

「あくまで効き辛い止まりだ」

「中々用心深い。本来ならば賞賛するべきなのだろうけども、警戒されている側としては素直に褒められないね。気持ちは理解できても少しばかり物悲しさを感じずにはいられない」


 相手の顔は見ていないが、それでもハッキリと、ニヤリと笑うのが分かった。


「でも、その行為に大して意味が無いのもまたキミは知っているだろう? 生憎、ボクの権能はその程度でどうにかなったりはしない」

「…………」


 愛情と愛欲の境界線は曖昧だと言う。

 おれの言葉ではない。エルンストが口にした事のある言葉であり、そして色欲の大罪を司る悪魔が口癖のように言っていた言葉だ。

 それは言い換えれば、色欲を司るという事は愛情を司るという事でもある。

 また同時に、愛情と好意との境界線も曖昧なものだ。

 そして仮に、対人関係において好感度ないし愛情度というものを数値化できるとするならば、友好的、好意的な間柄の者同士は互いに相手に対するその数値はプラスであり、反対に険悪な間柄の者同士の相手に対するその数値はマイナスとなる。

 当然その数値が大きいほどその度合いは大きく、恋人や夫婦同士ならばその数値はプラス側に大きく傾き、逆に仇敵怨敵同士ならばその数値はマイナス側に大きく傾く。


 アスモデウスは、その数値の概念を自由に操れる権能を持つ。

 所謂魅了や魅惑というのも、自分に対して他者が抱くその数値を大きくプラスに傾ける事によるものだし、反対に特定個人が他の者に対して抱く数値をマイナスに傾けて仲違いさせる事だって容易にできる。

 だが、アスモデウスのその権能の本領はそんなちんけなものではない。


 仮の話だが、その数値が0の時はどうなるのだろうか。

 人の感情など状況次第で容易に変化する曖昧なもので、どんな相手に対してもその数値が0というのはあり得ないと言っても過言ではない。

 顔見知りでしかない間柄でも、顔が気に入らなかったり好みであったりで数値は変動するし、もっと言えば名前を聞いただけでも何かしらの印象を抱き、数値を変動させる。

 顔も名前も知らなくとも、特定の国に所属している不特定多数に対してすら先入観によって印象を抱き数値は変動するし、極端な話人間種だからというだけで数値も変動する。

 それほどまでに人の感情というものは信が置けないのだ。理屈の上では。


 そんな余りにも簡単に変動する数値が0の相手とは、即ち正真正銘の赤の他人に他ならない。

 その個人に対する印象を抱く要素を何も知らず、また相手もその要素を持たない。故に印象を抱く事もできず、ましてやその個人に対して印象を抱く以前に何かしらを思う事もない。

 それは言い換えれば、存在しない者と同じだ。

 人が日常生活において、自分とは無関係の相手に対して何も思わないのと同じ。それをとことん突き詰めた存在だ。

 関わる事は一切無く、話題に上る事も一切無い。この世界には紛れも無く存在しているのに、その個人に対しては存在しないに等しい。

 それが数値が0の者だ。


 そして存在しない者に対して、干渉をする事は何者にも不可能だ。

 好意や嫌悪感を抱こうにも、そんな相手は最初から存在しない。

 殴ろうとも、殴る相手など最初から存在しない。

 殺そうにも、殺す相手など最初から存在しない。

 もっと言えば、地面がその者を上に立たせようにもそんな者など最初から存在しないし、世界がその者を認識しようにも認識するべきが最初から存在しない。


 アスモデウスの権能は、そうやって用いられる。

 やろうと思えば、確かに認識されているのに誰からも認識されなくなる。

 何者からも干渉される事もなくなるし、逆に干渉する事もできなくなる。

 応用すればどこにでも存在する事ができるし、どこにも存在しなくなる。次元や地理といった概念など、存在しない者には適用されない。

 故に無敵だ。

 敵が居ない程に強いのではなく、最初から敵が存在しない。敵となり得る事ができないのだ。

 アスモデウス自身の実力はそう高くは無い。

 勿論大罪王になれるほどの力はあるが、大罪王の中で序列を付けるならばかつては最下位を争うレベルであったし、今ではベルがあんな状態になければ完全に最下位に位置している。

 だがそれも意味が無い。害そうとしても、アスモデウスがそれを良しとしなければ害する事は不可能なのだから。


「…………」


 視線を持ち上げてアスモデウスの姿を視界に納める。


「やあ、やっとボクの事を見てくれたね。それじゃあ早速催眠でも……って、嘘だから。冗談だから落ち着いてくれたまえ。生憎ボクは殴り合いは得手じゃないんだ」


 悪びれた様子のない、実に楽しそうな笑顔を浮かべて胡坐をかいて座る赤髪の悪魔を睨む。


「それでアスモデウス――」

「ノン、ボクの事は名前ではなくシュマと呼んでくれと言っているだろう?」


 指を顔の前で左右に振って、そんな事を抜かす。

 無駄に様になっているのに腹が立った。


「まったく、巷ではアスモデウスは女であるという認識が広がっているそうじゃないか。困るんだよね、そういうのは。権能を使うには事前の先入観もできる限り無い方が望ましい。なのに名前で呼ばれれば、それを聞いた者はボクを女だと思うじゃないか」


 鮮烈な赤いショートヘアに、中性的で彫刻に生を宿したかのような、だが不自然さを一切感じないぐらいに整った顔の造詣。

 背丈はおれよりも少し低い程度で、手足はスラリと長く、万人受けは間違いないと誰もが断言しそうな外見をした悪魔に、おれは言ってやる。


「いや、思うも何も、あんたは女だろう」

「違うね、ボクの性別はシュマさ。性別は不明の方がミステリアスかつ権能に掛けやすい」

「シュマでも不明でもなくて、正真正銘の女だろう」

「何を根拠に――」

「ベルの奴に売女呼ばわりされてたろう」


 確かに人称は勿論、一見しただけでは男女の区別も付き辛く両性から好意的に見られそうな容姿ではあるし、アスモデウスもそれを努めて維持しているのだろう。

 おれだって、つい最近までどっちかは知らなかった。

 だが、さすがにかつて同じ立場にいたベルがそれを知らない筈が無い。

 

「……これは1本取られたねえ」


 芝居の掛かった大仰な仕草で額を手で打つ。

 正直、付き合ってられない。


「……一体、何が目的でおれをここにつれて来たんだ?」

「おいおい、いきなり勝手に決め付けるのは良くないな。確かにボクはキミを拾って手当てをしたが、別にキミを魔界に拉致したとは一言も言ってないよ?」

「あんな芸当ができるのは、あんたの権能ぐらいだ」

「だから勝手に決め付けるのは……いや、不毛だしやめようか。余り楽しくないし、キミの機嫌が悪くなる事を考えると合理的じゃない。

 確かにキミを拉致して、魔界にまで連れて来たのはこのボクだ」

「何のためにだ」

「理由はいくつかあるさ。正確な数は見方によって変わるのだけれどもね」

「……ッ!?」


 煙に巻くような言動の後に、唐突に至近距離まで顔を寄せて来る。

 何が殴り合いは得手じゃないだ。胡坐の姿勢から眼前に迫り来るまでの一連の動作の、起こりから終わりまでが見えなかった。


「……ベルゼブブの匂いがする。これは心臓かな。彼女の心臓を埋め込んだのかい?」

「…………」

「実に興味深いねえ。取り除いたら彼女は一体どんな顔をするのかな?」

「まさかとは思うが、拉致した目的はあいつに対する嫌がらせか?」

「それもあるね……だから落ち着いてくれたまえ、理由の1つであって全てじゃない。他にもちゃんとした理由はあるし、むしろ嫌がらせはついでさ」


 聞いていて苛立つふざけた言動だったが、いざこいつがその言葉を実行に移した場合、おれに抗う術は無い。

 その事が一層、苛立ちに拍車を掛ける。

 だがそれは押さえ込む。それを露わにしたところで、何も現状は改善しない。


「それにしても、キミが彼女の心臓を持っているって事は、やっぱり彼女は自由を得たって訳だね。気配を感じた時から薄々とは察していたし、実際にこの眼でもハッキリと見たけれど、まさか本当に元の姿にまで戻れるとはねえ」

「それに関してはおれは関与していない」

「おや、そうなのかい? まあ何にせよ、彼女が自由を得たという事実には変わりは無いのだけれどもね。

 キミの師に彼女が監禁された時は、しばらくは1日5食になるほど愉快だったのだけど、その頃が懐かしく思えるね」


 厳密に言えば監禁ではなく封印だとエルンストの名誉の為に訂正するべきなのだろうが、その前に唐突にアスモデウスが表情を切り替えた事によってタイミングを逸する。


「大罪王という枠組みは、そして魔界や魔族という存在は、変革を迫られている」


 いきなり過ぎる話題の転換。

 それが本題に関係する事だと理解するのに、少し時間が掛かった。


「昔は良かったのだけどね。サタンとルシファーが結託してベルゼブブみたいな問題児を抑え込む事で、一応の平穏と均衡を保っていた。

 でも、今ではそれは形骸化しているに等しい。サタンとルシファーのその後はキミも知っての通りだ」


 ついでにベルフェゴールもねと、アスモデウスは続ける。


「で、彼らの代わりを務められる力を手に入れたマモンがあれだ。混乱を来たすのもある意味では必然であったという訳さ。

 お陰で色々コソコソとしている者が出るわ、神族からは舐められるわで、本当に散々な事だよ」


 前者はともかく、後者はアスモデウスの偏見に満ちた先入観が多分に混じっている事は想像に難くない。

 又聞きであり本人の口から直接的に聞いた訳ではないが、アスモデウスが大罪王の中でも最も神族を忌み嫌っているというのはおれも知っている。


「そこで本題に入るのだけどね――」


 とん、と指でおれの胸を――おそらくはその下に納まっているであろう心臓を叩く。


「キミ、ベルゼブブからボクに乗り換えるつもりはないかな?」












補足事項:大罪王の詳しい力関係(権能を除いた純粋な実力によるもの)


マモン(現在)>サタン=ベルゼブブ(旧)≧ルシファー>マモン(旧)≧ベルフェゴール>レヴィアタン(現在)>レヴィアタン(旧)=アスモデウス>ベルゼブブ(現在)

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