魔界③
落下しながら、慌てず落ち着いて姿勢を維持するように自分に言い聞かせる。
滝は相当な高さを誇っていたが、同時にこれぐらいの高さならば、垂直な姿勢を保った状態のまま入水すれば死ぬ事は無いと判断した上で跳び下りたのだ。
その判断は正しく、水の落下地点に形成されている滝つぼに狙い通り垂直の角度で着水し、おそらくは相当に派手な水飛沫を上げて水中に沈む。
「……ぶはっ!」
着水の衝撃の痛みを堪えながら、沈んですぐには浮上せずに水中を水の落下地点とは反対側に向けて泳いでから、水面から顔を出す。
さすがに疲弊してきた体に鞭を入れ、何とか川岸に上がりその場にうつ伏せで倒れる。
正直に言えばそのまま寝てしまいたい程に疲れていたが、その誘惑を振り払い、寝返りを打って仰向けになって自分が落ちて来た場所を見上げる。
そこには10を超える狼たちがこちらを睨みながら立ち尽くしていたが、やがて諦めたように森の中に戻って行くのが見えた。
「何とか、撒いた、か……」
広がっていたのが川ではなく滝だったのは想定外だったが、それでも臭いで追跡される事を嫌って川を目指して跳び込んだ選択は正しかったようで、ひとまずは安堵の息を吐く。
「……さすがに、濡れているか」
金属製のケースを取り出して中身を確認すると、浸水していた為に中に納まっていた物の殆どが駄目になっていたが、それでも下の方にあった物は無事だった為、取り出して口に咥えて火を付ける。
「ふぅ……」
肺を煙で満たすと、不思議と身体全体が落ち着いていくような気分となる。
勿論実際にはそれは錯覚でしかなく、むしろその行為には害悪しか無く、自分が陥っている状況を鑑みれば愚かしいとしか言いようがないが、今は肉体的よりも精神的な面の方が重要だと言い聞かせ、じっくりと味わう。
余り長くその場に留まっていれば、また別の魔獣に襲われるか、もしくは先程の狼たちが諦めていなければそいつらに襲われる可能性があったが、それでも少しの間ならば大丈夫だろうと気分と息を整える事に集中する。
「……冷静に考えれば、かなり危なかったな」
川に跳び込んだだけでは、泳いで追い掛けられた可能性もあった事に今更ながらに気付く。
あの狼たちが泳げたかどうかは知らないが、その事を踏まえると広がっていたのが川ではなく滝であった事は幸運だ。
こうして見上げていても圧倒される程の高低差があった為に、狼たちはそれ以上の追跡を断念し、結果おれはあいつらを振り切る事に成功した。
「……いや、本当にそうなのか?」
慌てて上体を起こす。
落ち着いて現状を客観的に見つめ直すと、いつの間にか自分が視野を狭めている事に気付いた。
本当はあの狼たちは、あれ程の高低差があっても追跡する事はできた上で追跡を断念したという可能性もある事に気付いた。
最初に遭遇した獣は、怪鳥が迫って来るのを察して逃亡した。
それと同様にあの狼たちもまた、自分たちよりも強大な捕食者を恐れて追跡を断念したのではないか。
「一難去ってまた一難か。陸海空敵だらけだな」
杞憂だと笑い飛ばす間もなく、推測を裏付けるように水面に波紋が生じ、巨大な水蛇が顔を出す。
体長は水面から出ている分だけで7、8メートルは超えており、胴体は人間を容易く丸呑みできる程に太く、水に濡れた鱗で覆われていた。
水蛇が口を開くと、そこには牙の代わりに細長い棘が何層にも渡ってビッシリと生えているのが見える。それらを剥き出しにした水蛇がシャーッ、という威嚇の声を上げる。
「あんなものが生息していたとは、よく落ちた時に喰われなかったな」
自分の表情が引き攣るのが、手に取るように分かった。
見た目こそただの蛇だが、その実態は蛇などという生易しい存在ではない。
魔獣という分類において最強を誇る、水竜と呼ばれる絶対的覇者である竜の1種だった。
体調が万全で、大剣を手に持った状態でようやく互角。確実に勝とうとするならば【促進剤】を併用する事が必須な存在だ。
即座に火が付いたままの煙草を揉み消して立ち上がり、踵を返して水辺に沿って走る。
同時に再び威嚇の声が聞こえたかと思えば足首に鋭い痛みが走り、その場に転倒してしまう。
慌てて起き上がって見てみれば、周囲の地面には無数の棘が刺さっており、そのうちの1本が右の足首を深々と貫いていた。
「しまった……!」
すぐに刺さった棘を摘まんで引っこ抜き、その上部を服を破いてきつく縛る。
これは水竜の牙であり、強力な神経毒を分泌する。水竜は狩りの際、この牙を獲物に向けて飛ばして毒で動きを止めた上で喰らうのだ。
起き上がって水竜と目を合わせたまま視線を逸らさず、ゆっくりと横へと移動していく。
本当は全力で駆け出したかったが、そうすれば背後からあの牙を飛ばされるのは確実だ。それが向けた背に刺さっては目も当てられない。
手足ならばその上部を縛ればまだ何とかなるが、胴体に刺さった場合毒は即座に全身に回り自由を奪うだろう。
そうして睨み合ったまま牛歩の歩みでゆっくりと移動していき、水場までの残りの距離を確認して脳内で素早く計算し、間に合うと判断して反転して一気に走り出して水中に跳び込む。
わざわざ水竜にとってのテリトリーである水中に逃げ込まずとも地上を逃げても良かったが、そうすると水竜は牙ではなく、圧縮した水を口から吐き出して来る。
そのブレスは人間の魔法によって引き起こされるものよりも遥かに速く、太く、強力で、まともに喰らえばひとたまりも無い。
その点水中ならば牙にしろ圧縮された水にしろ、水中では狙いが甘くなるだけでなく威力も大幅に減殺される為、万が一直撃したとしても耐えられない事はないだろう。
加えて水竜は水場の特定の範囲外には滅多に出る事は無いという奇妙な習性を持っており、それらを踏まえれば勝算は十分にあると判断した上での行動だった。
結果から言えば、賭けには再び勝った。
途中で何度か牙や圧縮された水が近くを掠めたりはしたものの、1度も直撃したりする事は無く水流に捉まり、急速に距離を取り始める。
それでも水竜は見ているこっちが肝を冷やすような速度で猛追してきたが、一定のラインを超えるとそれまでの勢いが嘘のように、興味が無いと言わんばかりに踵を返して戻っていった。
「ゲホッ……!」
それを確認して水面へと浮上し、顔を出して空気を貪ると共に、飲んでしまった水を吐き出す。
一通り咳き込んで水を吐き出すと、視界の先に見える川岸を目指して泳ぎ始めるが、そこでようやく体が思うように動かなくなり始めている事に気付く。
「思っていたよりも、回るのが、早いな……」
短時間の間とはいえ体に負担の掛かる激しい運動をしていた結果だが、予想していたよりも毒が速く全身に回り始めているという事に臍を噛む。
それでも体を動かし、何とか水から上がろうと対岸へ向けて泳ぐが、その成果は微々たるもので遅々として前に進まない。それどころか前に進む速度よりも遥かに速い水の流れに押されて、視界は横へと急速に流れていった。
そして途中で視界が今度は下へと流れる。
それが2つ目の滝を落下した結果だと理解したのは、着水の衝撃で全身を叩かれた直後の事だった。
上手く動かない体をこれ幸いと脱力させて水面に浮上したおれが見たのは、最初の滝と比べても大分規模の小さい滝だった。
川幅も落ちる前と比べて急激に狭くなっていたが、変わりに傾斜が酷くなっているのか、それとも近くにもう1つ滝があるのか、もしくはその両方なのか、水の流れは先ほど以上に速かった。
その流れに乗りながら、偶然にも途中で川岸からせり出していた木の根に腕を引っ掛けて、それ以上に流される事を防ぐ。
「……さすがに、冷えるな」
相当な時間を川に浸かっていた為当然といえば当然だが、このまま浸かり続けて低体温症になったらさすがに洒落にならない。
その為すぐにでも川から上がる事が望ましかったが、川岸と水面との間にはそれなりの高低差があり、毒の回り始めた今の状態では体を引き上げる事は無理そうだった。
一応あの水竜の毒に対する抗体は持っている――というよりも強制的に作らされているので、症状もそこまで深刻な事になることもないだろうし、毒が抜け切るのも通常よりも早いだろう。
しかしだからと言って、今すぐにでも毒が抜け切る訳ではない。それまでにはそれなりに時間が掛かり、その間ずっと水に浸かっていて大丈夫かどうかは判断がつきかねた。
かと言って、向こう岸までは泳ごうにも流れが激しすぎて、上手く体が動かない今の状態で無事に辿り着けるかどうかも怪しい。
「……執念深いにも、程がある」
そこで向こう岸に、嫌なものが見えて苦笑いが浮かぶのが分かった。
狼たちは、決して諦めた訳ではなかった。
確かに一端踵を返し、木々の中へと姿は消した。だがそれは、自分たちよりも強大な捕食者を恐れての行動ではなかった。
単純に高低差を降りる術を持たなかっただけであり、それでも諦めずに追い掛ける為に、無事に下まで降りられる道を探す為の行動だった。
「グルルルル……」
狼たちの中でもリーダー格らしき個体が1歩前に出て、木の根にしがみ付いているおれへと低い唸り声を上げてくる。
それは飢餓感や怨恨などから来るものではなく、純粋な闘争心から来るものであった。
仮に争ったところで、勝敗は火を見るよりも明らかだ。
だがこのままジッとしているのも論外だし、逃げるにしても毒が回り始めたこの体では逃げ切る事は限りなく不可能に近い。
そうでなくとも、毒が抜け切った状態であっても逃げ切る事は難しいのだ。
「…………」
そうしておれが出した結論は、木の根から腕を放して流れに身を任せる事だった。
運が良ければ川の流れに乗るだけで振り切れるし、そうでなくとも体から毒が抜けるまでの時間を稼ぐ事ができる。
何にせよ、このままジッとしているよりも遥かに合理的な判断だった。
激しい流れに揉まれながら水面上と水中とを行き来するおれの視界に移るのは、流されるおれを追いかけて川岸を併走する狼の群れの姿。
川の流れはかなり速く、ただ身を任せているだけでも相当な速度が出ている筈だが、狼たちは一糸乱れぬ動きでペースを落とす事無く走り続けている。
さすがにこのまま振り切るのは無理があったかと、自分の楽観的な予測を自嘲した瞬間、何者かに背後から襟首を掴まれて川から引き上げられる。
と同時に、対岸側に居た狼たちの頭部が爆ぜる。
それも特定の個体ではなく、群れの個体全てが同時に、内側から爆ぜたのだ。
「やれやれ、キミは一体こんなところで何をしているんだい? 折角人が、もとい悪魔が、安全な場所に置いてあげたというのに」
無造作とも言える動作で地面に放り出されたおれに降り掛かって来たのは、そんな言葉。
「それともあれかい、もしかしてボクに対する当て付けかい? だとしても、ボクにはそんな事をされる理由に心当たりは無いのだけどね。むしろ弱った君でも安全に食べられる食料を、遠出してまで探しているボクは褒められて良いと自負しているのだけどね」
「アスモ、デウス……」
顔に付着していた鬱陶しい水を拭い取って見上げ、思わずその名を口にする。
そこに立っていたのは大罪王の1柱である悪魔であり、またあのエルンストを持ってして無敵と言わしめた権能を持つ、色欲を司る悪魔【色欲王】だった。
前の話を投稿する際に誤って書き途中のこの話を投稿してしまいました。
それを修正する前にそちらを閲覧してしまった方には申し訳ありませんでした。