三日目
部屋の中はとても静かで、時計の針の音がしっかりと聞こえてくる。
さずがにいつまでもこんな状態じゃダメだろ。
俺は意を決して優美子に話しかけた。
「なあ優美子、次に清隆の番がきた時、拓磨みたいに先に入られてたらまた行きづらいだろ。ちょっと先に行って清孝を待つようにするのはどうだ?」
「あっ、うん、そうだね。いつまでも宗くんの部屋いたら迷惑だもんね」
と優美子は眉をひそめながら笑顔で言った。もしかしてこれは…俺が優美子を追い出そうとしている雰囲気になっているのではないか!?
俺は慌てて訂正に入った。
「いや!優美子そういうことじゃなくてだな、せっかく宮下さんの様子見にきたのにいつまでも会えないのはどうかと思ってだな!別に俺んちでよければ全然いつまでもいてくれてかまわないんだぞ!」
ハッ!何を血迷ったことを口走ってるんだ俺は、これは完全に優美子に引かれてしまった…。
「そっか…じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」
まさかの展開キター!
「いやいや、さっきのは冗談ってわけでもないんだが、なんというかちょっと自分でも何言っちゃってんのって感じで、いてくれてもいいんだけどさすがにずっとはまずいんじゃないかなとか思ったりして…」
「ぷっ、ごめんごめん冗談だよ。宗くんがあまりにも困った顔で慌てるからちょっと面白くなっちゃった」
「なっ、なんだそうだったのか」
ただからかわれただけか。
優美子は俺の顔を見てまだ悪戯に笑っている。
俺はこの場にいるのが恥ずかくなり、裕美子に提案した。
「ちょっと早いけど宮下さんの部屋行くか。宮下さんも拓磨が話し相手じゃ退屈かもしれないし」
とにかくこの状況をどうにかしたくて、拓磨に助けを求める気持ちで立ち上がった。
「そうだね、もうそろそろ行ってみようか。あと三十分もないし、拓磨くんが女の子と二人きりなのも見てみたいし」
「まあ拓磨だったら会話なくても全然大丈夫そうだけどな」
「確かにねぇ」
よかった。ここにきて、ようやくいつも通りの会話ができた。
ホッと胸を撫で下ろし、玄関に向かう。
優美子と外へ出て、202号室のインターフォンを鳴らした。
すると数秒の間を置いてから玄関のドアがガチャっと開き、上下灰色のスウェット姿で宮下さんが登場した。
「あれ、優美子どうしたのこんな遅くに。それと、えっと…」
「村岡宗介くんだよ。愛梨が心配で様子見に来ちゃった」
「そうなんだ。わざわざありがとうね。村岡さんすみません、まだちょっとみなさんの名前覚えてなくて」
「いや、いいよ。まだ会うの二回目だし、これからよろしく」
「こちこそよろしくお願いします」
宮下さんと挨拶を交わした直後に、宮下さんの肩からヌーっと拓磨が顔をのぞかせた。
「…どうした?」
「おう拓磨。いや、優美子が来てたからちょっと様子見にな」
「…あぁ、優美子ちゃん本当に来たんだ。そっかぁ、ふーん、そういうことねぇ…」
何だこの慎也と同じようなリアクションは?こいつらはいったい何を納得しているんだ。
「…まぁせっかく来たんだし上がれば?」
いやいやそれは拓磨のセリフじゃないだろ、なに我が家のように招き入れてんの。
「そうだね、立ち話もなんだし上がっていって」
宮下さんもスルー!?そこはツッコまなくていいのか!?
「じゃあちょっとお邪魔しようか宗くん」
「あぁ、そうだな、どうせもう少ししたら清孝も来るだろうし」
もう誰も気にしていないなら触れずにおこう。
一人暮らしの女の子の部屋に入るなんて初めてだ。やはり同じアパートなだけあって、部屋の作りは一緒みたいだな。しかし、俺の部屋と比べて何故こんなにも広く感じるのだろう。
「…それは宗介の部屋が異常なほど汚いからだ」
「勝手に人の心の中を読むな」
「えぇ、でも宗くんの部屋もそんなに汚れてはなかったよ」
そうだな優美子、真実はクローゼットの中に隠されているのだから。
「そんで、拓磨が見張ってる間は何か変わったことあったのか?」
「…いや、特に変わったことはなかったよね」
「はい、岩佐さんが来てからの間は特に変わったことはありませんでした」
「そうか…」
やはり相手は俺らが見張りをしていることを知っているのか。それともたまたま今日は何も無いだけなのか。
「そういや、慎也がこのアパートの外で怪しい人見たっていってたぞ。宮下さんの部屋をずっと見つめてらしいんだけど、慎也といた時は何かなかった?」
「そういえば、何度か携帯の方に無言電話が掛かってきました」
「マジで!?本当にそういうのあるんだな…それは知ってる番号だった?」
「いえ、公衆電話からだったので…」
「…ストーカーの仕業だろうね」
慎也め、そんな大事なことを話さずにいらんことばっかり話しやがって。
「愛梨大丈夫?そんなことが毎日続くなんて…宗くん、なんとか助けてあげれないかな」
そりゃなんとかしてあげたいんだが、犯人の手がかりも何にも無いんだよなぁ。
「とりあえず、清孝が来てからもう一度どうするか考えよう」
「……。」
「どうした拓磨?」
「…あんなに文句言ってたのに、急に張り切りだした」
「お前、そういうこと…」
普通本人の前で言わないだろ!何?拓磨の新種の嫌がらせ?
「えっと、岩佐さんさっき何て言ったんですか?」
「いやいや、たいしたこと言ってないから気にしないで!」
拓磨、すっとぼけた顔して残酷なことしやがる。
「そういえば、清くんって何時からなの?」
不意に優美子が言った発言で俺は時計に目をやった。
「清孝は一時だからもうすぐのはず…あれ?もう一時過ぎてんじゃん」
「…本当だね。また遅刻」
しまった、清孝が時間を守らないことなんて分かりきっていたことなのに、優美子のことで頭が回らなかった。
「拓磨、清孝に電話してみてくれ」
「…わかった」
拓磨が携帯を取り出し、清孝に電話をしている間、宮下さんと優美子は楽しそうに会話をしていた。
どうやらサークルのことについて話をしているようだが、知らない名前がどんどん出てきて、会話についていけなさそうだったので、拓磨の携帯に視線を戻す。
「…出ない」
「もしかして寝てんのか?あいつなら十分可能性はあるな」
とため息を混じらせながら話していると、拓磨の携帯が鳴り始めた。
「…清孝から」
「ちょっと貸してくれ、俺が一発言ってやんねぇと来ないからな」
俺は拓磨から携帯を取り上げ、少し声を荒げて言った。
「おい!今どこだ!さすがに初日から遅刻とはどういうことだ!」
「おぉ宗介か、そんなに怒んなって。ていうかちょっと声のボリューム抑えろ、今何時だと思ってんだ」
それはこっちのセリフだろ重森くん。なんで逆に怒られてんの俺。
「それと、悪いんだけど今日ちょっと行けそうにないわ。宗介俺の分も頼む」
「はぁ?お前なぁ…」
清孝に文句を言ってやろうと思ったその時、電話の向こうからサイレンの音が聞こえてきた。
何だ?この音は…救急車!?
「清孝、お前今どこにいるんだ?」
「いやそれがよ、ちょっと事故っちゃってさぁ、なんか救急車まで来て大変なんだよ」
「事故ったってお前、大丈夫なのか!?」
「あぁ、怪我はたいしたことないんだけど、いろいろと面倒なことになったから今日はちょっと行けそうにないわ。すまん」
「いや、まぁそれならいいんだ、落ち着いたらまた連絡くれ」
「わかった、んじゃまた後でな」
電話を切り拓磨に携帯を返すと同時に、清孝のことをみんなに説明した。
「えっ!清くん大丈夫かな」
「まぁ本人はたいしたこないって言ってるから、とりあえずは心配ないと思うけど」
部屋の中に清孝を心配する重たい空気が流れる。
「私のせいで重森さんが…」
「いや宮下さんのせいじゃないよ。たまたま事故っただけだって」
「そうだよ。愛梨のせいじゃないから」
「うん…」
とは言いつつもやはり少し心配だな。
「拓磨、多分もうすぐ清孝から連絡くるはずだから、慎也たたき起こして様子見に行ってもらえないか」
「…言われなくてもそのつもり」
「あっそうかい…」
今日の拓磨は何故か強気。宮下さんの前だからか?
「宗くん、私もついて行こうか?」
「そうだな…いや、優美子は宮下さんのそばにいてやってくれ。代わりに直樹引っ張って行こう」
「直樹って?」
優美子は不思議そうに聞いてきた。宮下さんも首をかしげている。
「俺らの学科の後輩だよ。長谷部直樹っていってこの下に住んでんだ」
「そうなんだ、こんな時間に迷惑じゃないかな」
「大丈夫だろ」
直樹は俺の高校の時の後輩でもあり、年下の割に面倒みがよく、しっかり者の性格である。
慎也と拓磨だけじゃ何かと不安だが、直樹がいればなんとか大丈夫だろう。
「拓磨ちょっと直樹に電話を…」
って、もう掛けてるのか。
「…直樹?清孝事故った。病院行く」
くそ!何て説明が下手なんだ!
「いや、拓磨それじゃ…」
「…今から来るって」
あれで通じたのか!
そして拓磨が電話を切り終えてから一分も経つことなく、宮下さんの部屋のインターフォンが鳴った。
「よう直樹。悪いなこんな時間に」
「いえ、とんでもないです。それより清孝さん大丈夫なんですか?」
「…とりあえず行ってみる」
そう言うと拓磨と直樹は挨拶もすることなく、そそくさと出て行ってしまった。
「まっ、清孝の方はあいつらにまかせておけば大丈夫だろう」
「すみません、本当にこんなことになってしまって…」
「だから宮下さんのせいじゃないって。なぁ優美子」
「そうだよ!清くんも大丈夫そうだし、何で事故したのかまた理由聞いてみよ」
「うん…ありがとう」
しかし、本当に何で事故ったんだあいつ?まぁよそ見かなんかしてたんだろうな。
それよりも、これからどうすれば!よくあいつら宮下さんと二人きりでいれたな。俺は仲のいい優美子でさえあんな状態だったのに。
まぁさっきと違って三人だし、なんとかなるか…。
「んで、その後は俺と優美子と宮下さんの三人で朝までいたってわけ。途中で優美子と宮下さんは寝ちゃったけど、俺は結局一睡もできずにそのまま登校だよ。もう眠くてやばいね」
「やばいのはお前の頭ん中や!何で宗介だけ女の子二人と添い寝しとんねん!」
何でキレてんの?何で勝手に添い寝になってんの?
「こっちはな!気持ちよく寝とったのに、いきなり拓磨と直樹にたたき起こされて訳も分からず病院に行くわ、病院に行ったら行ったで、こんな遅い時間に来んなって清孝に怒られるわ、そんで寝て朝起きたら俺の部屋の周りを何故か野良猫が囲んでんねん。なんでやねん!」
その後も慎也は何かと文句をぐちぐちと喋っていたが、話が終わりそうになかったので拓磨に話し相手を移すことにした。
「それで清孝はどうだった?一晩病院に泊まって、今日はもう退院できるんだろ?」
「…今T館に向かってるって」
「そっか、つうか事故して無傷って…まぁ無事でなによりだな。じゃあ清孝くるまで待つか」
それから清孝が到着するまでの慎也は休むことなくひたすら喋り続け、拓磨はマンガの最新刊に夢中になっている。
そういや拓磨の好きなマンガってなんだっけ?確か一回、拓磨が寝ぼけて「海賊王になる」とかなんとか言いながら慎也に殴りかかったことがあったな。
そんなことを思い出していると、俺の向かいの椅子に、ドカっと腰掛け清孝が現れた。
「いやぁまいった、さすがに死んだと思ったね」
清孝は現れると同時に、笑いながらそんなことを言っていた。
「いやいやお前笑い事じゃないからね。こっちは本気で心配したんだぞ」
一瞬だけだが。
「すまんすまん、いやまた遅れそうだったから原付でぶっ飛ばして行ってたんだよ。そしたら急に人が飛び出してきてよお、マジで引きそうになって焦ったわ」
「そうだったのか。でもその人はどうしたんだよ?病院にはお前しかいなかっただろ?」
「それがよ、俺もこけた勢いでよくわかんなかったんだけど、なんかめっちゃ急いでたっぽくて、逃げるようにそのまま走ってどっか行っちまったんだよ。あの人大丈夫だったのかな」
事故ったのにそれを気にせず行った。よっぽど急ぎの用事か?でも普通事故起こしたらいくら急ぎでも止まるだろ。
「そうか、てかお前どこで事故ったんだよ?」
「大学の前のコンビニの前だよ。実は目の前まで来てたんだよな」
「そうだったのかよ!」
俺のアパートから大学前のコンビニなんてすぐの距離だ。こんな近くで事故を起こしてたなんて、全然気付かなかったな。
「それなら言ってくれればすぐ行ったのによ」
「いや、さすがにテンパって何もできなかったわ。救急車とかもコンビニの人が呼んでくれたし」
「それでもなぁ…」
「まぁまぁ、ええやん!清孝も無事やったんやし」
「…清孝のかわりは他にいないもの」
さすが、みんななんて楽天的な考えなんだ。
でもうちの近くで事故ってたのか、急に人が飛び出してきて、逃げるように走って行った…ん?
「清孝、その飛び出してきた人って男だったか?」
「あぁ、多分男だったと思う。顔はハッキリ見えなかったけど、どっかで見たことあるような顔だったんだよな」
「それってもしかして、慎也が追いかけてた奴じゃないか?」
「アホか、時間が全然ちゃうわ。そいつ何時間走り回っとんねん」
確かに、慎也が追いかけたのは清孝が事故するずっと前だし関係ないか。
「とりあえず、今夜もう一度みんなで見張ろうぜ。外も見張って、昨日慎也が追いかけた奴がまた現れるかもしれないし、俺も今夜はちゃんと行くぞ」
「お前行けんのか?さすがに今夜は大人しくしといたほうがいいだろ」
「何言ってんだ、目の前で泣いてる女の子がいるのに放っておけるわけないだろ」
清孝ってそんなキャラだったっけ。
「とにかく、今夜は順番とかじゃなくて、みんなで集まるぞ」
清孝がそう言うと、始業のチャイムと同時に清孝と拓磨はT館をあとにした。俺と慎也は今日の講義は全て終了したので、そのままT館に残り雑談することにした。
とは言いつつも、さっきから慎也が一人で一方的に話し、俺はなんとなく相槌を打っているだけだ。
そんな時に後ろから声がかかった。
「慎也さん、宗介さん」
後ろを振り返ると直樹がこちらに近寄りながら、手を上げている。
「よう直樹、昨日は急に悪かったな」
「いえ、清孝さん無事でよかったです」
「ホンマにありがとうな、また今度飯でもご馳走するから、宗介が」
「なんで俺なんだよ、自分でおごってやれよ」
「何言うとんねん、お前が急に直樹呼んだんやろ。宗介がおごるべきや」
「それはお前らだけじゃ心配だったから、お前らのために呼んでやったんだぞ」
「アホか、なんで俺らが後輩に御守りしてもらわなあかんねん」
「だからお前らじゃ…」
「もう分かりましたから!別におごってもらわなくてもいいんで、また皆さんで飯行きましょうよ!ね?」
「せやな、まぁ直樹がそう言うなら、みんなで行こか」
「ありがとうございます」
直樹になだめられている慎也の姿を見て、俺も含めやはり誰よりも直樹が一番しっかりしてるなと改めて思った。
直樹と慎也がいつ飲みに行くのか話し合っているのを横で聞いていると、正面の入口から二人の女性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
一人は小柄で長い髪の毛に軽いパーマを当てている。ハッキリとした顔立ちで、笑顔を見せる度に八重歯をチラリと覗かせる。世の男性はこういう女性を守ってあげたいと感じるのではないかと思った。
もう一方の女性は小柄の女性とは全くの対照的で、一目見ただけでなんというか、女性フェロモンというやつを撒き散らしているように思えた。なんというか…セクシーだ。
「直樹くん、こんなところにいたの」
セクシーな方の女性が、歩きながらこちらに話かてくる。
「あれ?二人ともどうしたの」
「どうしたのじゃないでしょ。今日はみんなでレポートする約束だっじゃない」
小柄な方の女性が少し呆れた口調で言った。
「そうだった、ごめんすっかり忘れてたわ」
と、こんな美しい女性を二人も目の当たりにしてあの男が黙っているはずがなかった。
「直樹こちらの人たちは?紹介してくれるかな」
なんで標準語?いつものやかましい関西弁はどうしてここにきて封印した?
「あっ、すいません。えっと、まずこっちの小さい方が大澤由香里で、そっちの長身の方が富永真希です」
「ちょっと直樹くんそんな雑な説明はないでしょ」
「えっ、あ、ごめんなさい…」
二人の女性から猛抗議が入った。どうやら直樹は、女性の扱いまでは完璧ではないようだ。
そして直樹の紹介を聞き終えると、俺の隣に座る男は立ち上がった。
「こんにちは、教育学部二年の小野寺慎也と言います。趣味は人助けです!よろしく!」
それ、ボケたの?マジなの?
「こちらこそよろしくお願いします。すみません先輩の前で急にこんな」
大澤さんが申し訳なさそうに謝る。
「いやいや気にしなくていいんだよ。それよりこんな可愛い後輩がいたなんて知らなか…」
「どうかしましたか?」
「君ってもしかして、三日前くらい駅前の『武蔵』っていう居酒屋に男と二人で来なかった?」
「えっ、あぁ、はいまぁ、行きましたけど…」
「やっぱりそうやんなぁ!そんでカウンターとこで飲んどってんな!」
「はい、でもなんで知ってるんですか?」
大澤さんのその質問は慎也の耳に入っていないようで、それよりも興奮しながら俺の方に向かい、
「宗介!この間バイト先で見つけた可愛いって言ってた子、この子や!」
「マジで?」
あん時は眠くて適当に聞いてたけど…世の中って狭いもんだな。てか興奮しすぎて関西弁に戻ってるし。
「俺そんときバイトしとってん。そんで由香里ちゃんのテーブルに料理とか運んでてん」
「あっ、そうだったんですか。すごい偶然ですね」
「いや、俺可愛いと思った子の顔は絶対忘れへんからな、由香里ちゃんの顔見た瞬間にピーンときてんな…」
その後は慎也の独壇場で、ここぞとばかりに喋り尽くし誰も話に入っていけず、そのまま直樹と女の子たちはレポートをすると言っていたみんなの元へと向かう流れになった。慎也のお喋りと共に。
取り残された俺は、結局自己紹介できなかったなと少し虚しい気持ちになったが、慎也の荷物だけ置いて先に帰ることにした。
部屋に帰ると慎也からメールがきていた、『なんで先に帰ってんねん!まぁええけど、今夜は愛梨ちゃんバイトらしいから、集合は十時に愛梨ちゃん家な。遅れんなよ!』って、遅刻の心配は清孝にしてやれよ。と文句を叩きながら携帯と自分の体をベッドの上に放り投げた。
なんか最近いろんなことがいっぺんに起こりすぎて、頭の中が整理できてないな。
ストーカー撃退の話から始まって、優美子がこの部屋に来て…優美子はどんな気持ちだったのだろうか。
俺は優美子のことをどう思っているのだろうか。
見上げた天井は煙草のヤニで少し黄ばんでいた。そういえば煙草を吸い始めたのっていつからだっけ。高校の時は結構真面目で、煙草なんて吸おうとも思わなかった。気づいたときには吸い始めてたな。
学校の教師目指してこの大学に入って、教育学部であいつらと出会って毎日一緒に過ごして、笑ったり怒ったり、恋をしたり?人って毎日何のために生きてんだろうな。
つうか俺って何で教師になりたかったんだろうなぁ。
俺は小学校の頃、いつも一緒にいる松下尚吾という友達がいた。とにかく仲が良く、何をするにもいつも一緒だった。親同士も仲が良く、お互いの家を泊まりに行ったり来たりとしていたのを覚えている。朝から晩まで遊び、虫取りに行ったり、川で泳いで魚を取ってその場で焼いて食うという、小学生にしてはサバイバルな遊びをして毎日を楽しんだ。
時にはしょうもないことで喧嘩なんかもしたが、いつも尚吾が途中で折れて謝ってきた。あの頃からあいつは大人びた性格だったなと思う。
尚吾はみんなからの注目の的だった。勉強はそこそこだったが、運動神経は抜群で、グループ活動や話し合いの場でもいつも中心にいて、クラスのリーダー的存在だった。
先生からの信頼も厚く、先生たちも困ったことがあったらなにかと尚吾にお願いしていた。
尚吾は俺にとって自慢の友達だった。仲間想いで、正義感の強い優しい心の持ち主だった。上級生も下級生も関係なく、誰かが喧嘩していたら必ず仲裁に入るような奴で、少しお節介な部分もあった。
そんな尚吾を嫌いな奴なんていなかっただろう。
だけど…省吾はあの日以来変わってしまった。
六年生の終わり頃、卒業式が近くなってきたある日、学校に行くとクラスの女の子の上靴が無くなり、机には彫刻刀かなにかで彫ったと思われる『死ね』の二文字。なんともベタな嫌がらせ、いや…いじめだと思った。
それを受けた女の子は、河村美沙という普段からとてもおとなしい子で、人から恨まれるようなことをする子ではなかったと思う。
先生たちはすぐに犯人探しとなり、各クラスでも緊急の学級集会が開かれた。俺の通っていた小学校は田舎の小さな学校だったが、いじめだけは決してない学校だったのでみんな困惑していたのを覚えている。
そんな中、教員も含めみんなが頼りにしたのはやはり尚吾だった。
しかし、尚吾はいつものように正義感を振りかざすことはなく、我関せずといった感じで何も行動に移そうとしなかった。
他の人間だったら面倒ごとに巻き込まれるのが嫌で、しょうがないのかもしれないが、尚吾がそういう態度を取ったことにみんなは戸惑いを隠せなかった。
その時から尚吾は全くの別人格と思えるほど変わってしまった。
何をするにも中心にくることはなく、いつもつまらなさそうに遠くから見ているだけだった。
それでも俺といる時だけは笑顔で接してくれて、今までとほとんど変わることない関係でいた。
変わったのは尚吾に対する周りの目と、先生たちからの信頼が無くなったということだ。
確かに尚吾の変わりようは目に見えて分かったが、今まで何度も尚吾に助けてもらって、先生たちだってあんなに尚吾を頼ってたのに、それだけで何でそんな扱いが変わるのか分からなかった。
俺は口には出さなかったが、みんなの尚吾に対する態度が気に食わなかった。特に先生たちも一緒になっていたのが一番許せなかった。この頃から俺は、教師という存在があまり好きではなくなったはずだ。
尚吾自身はそんなことなんとも思っていない様子だったが、実際のとこどう思っていたのかは分からなかった。
そして、その状態のまま卒業式を迎えることになった。
結局嫌がらせがあったのはあの時の一回きりで、あれ以降は何事もなく日々が過ぎていった。嫌がらせを受けた美沙も元気を取り戻し、笑顔で卒業式を迎えることができた。
ただ、最後まで犯人が誰だったのかは分からないままだった。
卒業式が終わり、俺は尚吾と記念写真を取ろうと尚吾を探していた。
尚吾より先に尚吾の母親を発見し、尚吾は何処に行ったのか尋ねると、中庭の方へ歩いて行ったらしい。
俺は使い捨てのインスタントカメラを握り締めながら中庭の方へと走った。
うちの小学校の中庭には、大きなイチョウの木が守り神のように生えていた。その不自然に生えたイチョウの木は、授業や町のお祭りなどで扱われ、大切に手入れされていた。
尚吾はそのイチョウの木の前で一人立っていた。
俺は尚吾のもとに駆け寄り写真を取ろうと提案し、二人ともとびきりの笑顔で写真を取った。
その後は、小学校の思いでやらなにやら話した。何を話したか内容までは覚えていないが、二人ともずっと笑っていたのは覚えている。
どれくらい話していたのか分からないが、そろそろ帰ろうかと俺が言うと、尚吾は黙り込みその場から動こうとしなかった。
そして、
「俺、宗介とは違う中学に行くことにしたから。家も引っ越すことになった」
俺は一瞬尚吾が何を言っているのか訳が分からなかった。中学だってもう一緒な中学が決まってるし、引越しなんて話親からも何も聞かされていない。
「あ、それとな…美沙の靴隠したり『死ね』って彫ったの、俺なんだ」
俺は尚吾のその言葉で完全に動きが止まってしまい、その場に立ち尽くしていた。
「じゃ、元気でな」
そう言うと、尚吾は笑っているようにも泣いているようにも見える顔で、手を振りながら俺の前から消えるように歩きだした。
俺は立ち尽くしたまま、何か言わなければいけないと思い、頭の中で必死に言葉を探すが見つからなかった。
言いたいことは山ほどあるはずなのに、声が出ない。
ちょっと待てよ。なんだよこれ、何で尚吾が美沙に…
尚吾の後ろ姿を見つめていると、なぜか溢れるほどの涙がこぼれてきた。
そしてそのまま、尚吾の姿が完全に見えなくなるまで、俺はただただ泣き続けた。
心の中では冗談だろうと思っていたのかもしれない。
あんなに仲がよかったのに、こんなにあっさり離れるわけがないと…
そして、その日を最後に尚吾とは二度と会うことはなかった。