右翼な詩人の記憶
今の世の中、人にはあんまり気づかれていないかもしれないが(特に若い人には)、暮らしの至る所にアメリカ臭をかぎつけることができる。野球もジーンズもコーラもハンバーガーもアメリカ産だし、今あなたがこうして面と向かっているその機械、コンピュータというやつもそもそもアメリカ産だ。映画もテレビもアメリカ産。テレビから始終流れてくるノリのいい音楽だってほとんどがアメリカにルーツがあると思って間違いない。最近改憲だ何だとブッソウだが、そもそも日本国憲法という文章そのものがどうやらアメリカ産らしいし、よくはわからんが、経済の話をすれば、いまだに日本の最大の貿易相手はアメリカなんでしょう?(教えて、えらい人!)
そんなふうに考えていくと世の中にあるものすべてがアメリカ産に思えてくるから不思議だ。コップもメガネも机も椅子もネコも杓子も、ついでに着物もギョウザもマージャンもみそ汁も富士山もゲイシャも、あれもこれもそれも、ぜ〜んぶアメリカ製!?。こりゃ重症だ・・・。
阿川弘之先生の本は戦前の海軍を扱って有名だが、これ読んでいると戦前は日本が真の意味で独立国だったことがしのばれるね。その当時、当然アメリカという国はあったし、アメリカ製品がまったく日本になかったわけではないが、少なくとも今日のように人々の頭上に薄雲のようにモワっと覆いかかるあの「アメリカ」の雰囲気はなかった。アメリカ製品は日用品のワン・オブ・ゼム(なんというアメリカ的な言い回し!)にすぎなかったし、アメリカという国そのものの扱いにしてもまたこれと同等だったにちがいない。つまり、首相が変わったからといってアメリカの大統領にごあいさつに行くことはなかったろうし、アメリカの証券取引市場がクシャミをすれば日本が風邪を引く、なあんて自体もなかったはずだ。そう、戦前、日本は確かに主権を持った国家だった。
ところで、ハロウィーンって、今、日本でもパーティーか何かやってるのかな?
私がこの言葉を覚えたのは中学の英語の教科書でだ。確か例のカボチャをくりぬいたオバケの挿絵が描かれていた。秀才だった(?)私がハロウィーンを知らなかったのだから、同級生が知っているわけがない。でもその四、五年前から突然流行り出した聖バレンタインデーのことはすでによく知っていた。モテるやつは紙の手提げ袋いっぱいにチョコレートをもらっていた。大勢の女子からもらうのがうらやましいのは当然だが、大のチョコ好きな私としては、チョコレートそのものをもらえることがまことにうらめしかった。(負け惜しみではない・・・)中学時代すでに聖バレンタインデーが浸透していたように、ハロウェーンというのもすでに今の世の中に十分普及していて、私の知らないところでパーティーなんぞ開かれているのに違いない。
このように考えていくと、クリスマスという行事も怪しく思えてくる。そもそもクリスチャンでも何でもない日本人がキリスト様の誕生日を祝うようになったのが不思議だ。クリスマスがキリストの誕生日だってこと、いったいどれだけの日本人が知ってるんだろう。バレンタインデーというが、バレンタインって人の名前なんでしょ? いったい何をやった人なの?
クリスマスにしてもバレンタインデーにしてもハロウィーンにしても、日本人が生活の中に取り込んだのは行事または風俗としての在り方だ。いったん生活に馴染んでしまえば、中身はともかく、それを当たり前のように固定するのがホントの日本人というものだ。バレンタインが当たり前のようになったのが、私の記憶する限りでは三十数年前のはずだから、クリスマスだってそんなに古い行事だとは思えない。後でネットで調べてみるといい。
クリスマスが近い。
私の住む北区のマンション、近くにひなびた商店街があるが、よせばいいのにここでもクリスマス・ツリーが飾られ始めている。なんだか妙に似合わん。世の中のあらゆる商店はクリスマスにツリーを飾らなければならないという不文律があって、これを守らねば罰せられるとでもいうのか、世の中がそうだから仕方なく飾ってるのだといった雰囲気がありありと見える。この商店街、七夕祭りのパレードは結構派手で、それなりに賑わうのだが、クリスマス・ツリーだけはどうもしっくりこない。これが銀座M越やら横浜T島屋あたりのデパートだったりすると妙にキマっているから不思議なものだ。
クリスマス・ツリーで思い出すのが高校時代の知人、井沢のことだ。
東京の大学に入ってしばらくした頃、クリスマスイブに浮かれる夜の新宿歌舞伎町で、ばったり井沢に出会った。井沢は米軍払下品らしいカーキ色のジャンパーに迷彩ズボン、黒皮の編上靴という姿、私は大学の仲間達から「ドカジャン」と呼ばれる新聞配達専用の作業着に安手のジーンズ、泥まみれのスニーカーという格好で(当時私は新聞配達のアルバイトをしていたのだ)、私たちが歌舞伎町界隈をきらびやかに歩く女子大生に見向きもされなかったのは言うまでもない。
ここで起きた事件を記す前に、井沢との思い出をいくつか振り返ってみたい。
井沢は小柄な男だった。狭い額に黒い眉毛と垂れた目、上下まったく同じ形の真っ赤な唇が雪のような色白の逆三角形の顔に目立ち、真っ黒な髪は冬でも角刈りにしていた。初めて見たとき、ずいぶん妙チキリンな顔だと思ったが、妙だったのはそれだけではない。彼は両掌に「ますかけ」の手相を持っていた。
「ますかけ」という手相のことはご存知かな?
知らない人のためにここで簡単に紹介しておこう。
手のひらを開いたとき、まず目立つ太いシワは感情線と頭脳線と生命線の三本だ。このくらい皆さんでも知ってるでしょう? 手のひらの上部、指に最も近いのが感情線で主に気質を表すらしい。そのすぐ下が頭脳線。アタマの良し悪しを表すらしい。この頭脳線に沿うようにして手首まで垂れ下がっているのが生命線。長いほど長生きすると言われている。
「ますかけ」という手相はくだんの感情線と頭脳線が一本になって掌を真一文字に横切っている珍しい手相のことだ。ものの本によると徳川家康がこの手相だったらしい。あと仏像の手相は全部「ますかけ」だとのこと。この手相を持つものは天下を掌握するのだ、大物のみが持つありがたみのある手相なのだそうだ。ホントか? 井沢がいまそんな大それた人物になっていないのだから、所詮は迷信・たわごと・オマジナイの類なのだろう。そうそう、ちなみにその本によれば猿もまた全部「ますかけ」だそうだ。そういわれてみれば井沢の顔もどことなく猿に見えないこともない。
実は、私は彼に対して畏怖の念をもっていた。というのは初めて彼が私の家に遊びに来たときの印象があまりにも強烈だったからである。
彼はある事件があった日、突然私の家に押しかけてきた。私はいやいやながら彼を部屋に入れた。彼は部屋に入るなり学生服の内ポケットからハイライトを取り出し、一働きし終えた肉体労働者のように、それをいかにもうまそうにすい始めた。
「何だ、お前は吸わねんか? おれはまたお前もてっきり吸うもんだと思ってたが。お前、結構真面目なんだな、人は見かけによらんなあ、ほんとに。」
井沢の人を食ったような態度とこの言葉に私は打ちのめされてしまった。井沢に畏怖の念を抱き始めたのはそれからだ。何より不気味に思えたのは、私のことはすべてお見通しだ、といったような彼のヤブニラミの目つきだった。その目は、ひた隠しに隠していた私の傷つきやすい心、生まれたての赤ん坊の肌のような柔らかい部分を鋭く突き刺し、”プライド”という名のガラスの城を突き崩して、私のすべてをさらけ出すように思えた。
井沢の「お前は見かけによらず真面目だ」という言葉がなぜかくも私を打ちのめしたのか。これはその日に起きたある事件抜きには語れない。
おかげさまで私は県下屈指の進学校に入学できたが、わが母校は田舎の進学校にありがちな制服のない予備校のような雰囲気にあふれ、上級生はみな大学生のように振舞っていた。新入生は遠慮して詰襟の学生服だった中、私は入学二日目からGジャンGパン姿で登校した。ナマイキだったのだ。私の中では、この天下の進学校に入学できたことすなわち天下を取ったことだった。しかしそれはあくまで気分だけのことであって、実際の学業は惨憺たるものだった。その頃授業中にある先生がこんなことを言った。
「ここにいるみなさんは大抵幼稚園の頃には神童と呼ばれ、小学校で天才、中学では秀才と呼ばれ、T高に来たらバカ、という人ではないかな?」
まこと失礼な話だが、真実である以上、文句を言えない。さすがに天下のT高の授業は難しかったのだ。特に数学。私には熾烈を極めた。
当時の数学の先生は”鬼”と呼ばれたT高の名物教師で、難しい問題を生徒に当て、納得のいく解答が出せない限り着席させない、そして次の生徒に当てる。その生徒がまた答えられなければ彼もまた着席できず、誰かがマトモな答を出さない限り、立たされた生徒はずっと立たされたままとなる。一時など、クラスの半分以上が立ちっぱなしで一時間授業したことさえある。
当時、天下を取った(と勘違いしていた)私は、「権力」に対して敏感だった。自分が権力を持っていると思っているものほど他の権力に反発しがちだ。正義感が強く、おのれの信念に忠実で純粋だった私は、勇気を持ってこの鬼の数学教師にタテついた。
「これどうしてこうなるか、わかるね?」
複雑怪奇な数式で埋められた黒板をプラスチック棒でビシリと叩き、嘗め回すようにクラスを見渡して鬼が聞く。チョークの粉が舞い、みんな俯いて黙りこむ。鬼が解説するその問題、なぜそれがそうなるか、実は私にはさっぱりわからなかった。中学時代秀才と呼ばれたこの私が授業がわからないなどということは、本来あってはならないことだった。わからないのは私の頭が悪いのではなく、この鬼教師の教え方に問題があるのだ。ある種怒りの感情とともに私はそんなふうに考えた。そして、他の連中、みんなわかってるんだろうかと思った。わかっているのだったらそれはそれでくやしい。わからないのはオレばかりということだから。しかしわからないのに鬼に当てられるのがイヤで黙っているというのだったら、これは卑怯だ。さすがエリートだなお前ら、わからないことはわからないと正直に言わなきゃダメだ。よおし、ここはひとつオレがみんなを代表して鬼に反発してやろう・・・。
怒りと正義感からそんな気持ちになった私は、腕組みして大声で鬼に言った。
「わかりませ〜ん!」
みんなが一斉にこちらを向いた。鬼の濃い眉毛がピクリと動いた。
「わからない? どこがわからないんだ?」
「はじめからおわりまで、なぜそうなるのかさっぱりわかりません。」
口をへの字に曲げ、いかにも反抗してるゾといった態度で言う私に、鬼は陰険な笑顔でこう答えた。
「おまえさぁ、わからないんだったらそんなにいばってないで、まあいいからちょっと立ちなさい。」不服そうに立ち上がると鬼は突然険しい顔になった。
「まったく育ちの悪い奴だな。おまえみたいな奴には高度な数学理論はわからないようだな。やっぱり育ちのいい素直な心がなきゃ学力はつかんな。まったく親はどういう育て方をしたんだ。」
その言葉を聞いて私はその場で泣き出したくなった。私服登校という上辺だけの小さなツッパリ、その化けの皮をクラスメートの目の前でものの見事にはがされ、天下を取ったというプライドをいとも簡単に崩されたのが恥かしく、自分がみじめに思えてならなかった。
一人だけその場に立たされながら、私は父母の顔を目に浮かべていた。親にすまない気持ちでいっぱいだった。決してわが親は悪い育て方をしたわけではないし、自分自身で不良だともツッパリだとも思っていない。その証拠に、私は鬼に立たされ説教されながらも、悲しい気持ちを表に出すまいと必死で作り笑いを浮かべていたではないか。先ほどの反抗的な態度はいったいどこへ行ったのやら・・・。
授業が終わったとき、私はクラスの中でそれなりに英雄視された。しかし心の傷は鈍い痛みとなって胸のどこかにうずいていた。
井沢が初めて私の家へ来たのはその日だった。ようやく学校が終わり、早く家に帰って傷ついた心を癒したいと思っている私に、なぜかずっとついて来る。こげ茶色の薄汚い自転車を引っ張りながら、妙になれなれしい口をきいてくる。どうやら彼は鬼の数学教師にタテついた私を同士か何かのようにみなしていたらしい。
「お前、家、帰らないの?」
と聞くと、
「これからお前ん家遊びに行く。」
と答える。
冗談じゃない。こんな合って間もない見ず知らずの妙チキリンな奴を、どうしてわが聖域に入れるものか、そんなふうに思いつつも、人のいい私は断れなかった。いやいやながらも、私は彼を家に上げざるを得なかった。
私の部屋でさも気持ちよさげにハイライトをふかす井沢に対して、私は徐々に憎しみの気持ちがわいてきた。お前みたいな奴とおれは違うんだ、おれは本来真面目で育ちのいい秀才なんだ、そんなふうに主張したかったのか、私は井沢に言った。
「お前さ、おれん家へ来てタバコやるのはやめてくれねえかな。困るんだ。」
ヤブニラミの目がピクリと動き、意外なことを言うなといった表情で私を見つめて、井沢は言った。
「タバコくれえいいじゃねえか。みんなやってるぜ。」
「だめだ。おれのまわりにゃそんな奴いねえよ。お前が初めてだ。」
「ホントに真面目なんだな、お前。いやあ意外だったわ。」
その言葉に腹が立つ。元来小心者で人のいい私は、小刻みに震えながら勇気を持って言った。
「これ以上タバコ吸うんだったら、もう帰ってくれ。」
すると井沢は大声出して笑った。
「アハハハハハ・・・、わかったわかった、お前が真面目なのはよ〜くわかったわ。お前もやっぱ俺らとは別の世界の人間だってことだな、ハハハ・・・。」
後でわかったことだが、井沢は私より一年上の人間だった。井沢の親は学校の教師で、T高に彼を入学させるために中学浪人させたらしい。その間に彼はいろいろと大人の遊びを覚えたらしい。タバコに始まりパチンコ、マージャン、ポルノ映画等々、山奥のド田舎から地方都市の予備校に一年通ううち、いつの間にやらその辺りの世界を垣間見てしまったらしい。
その後、彼は私を真面目人間の一人として遇し、私は私で彼への畏怖の念を忘れなかった。その年の冬、私は彼によって大人の世界に引き入れられた。われわれと同じクラスに井沢と同郷の佐川という男がいた。佐川は駅前の繁華街のそばにアパートを借りてそこから学校に通っていた。
期末テストが終わったときだったろうか、私は井沢に誘われるがまま、佐川のアパートに行った。その途中、井沢と佐川は酒屋により、ビールやらウイスキーやら乾き物やらを大量に買い込んだ。おいおい、まさかそれで部屋で一杯やるつもりじゃないだろうな、と思っていたら、やっぱりそうだった。
われわれは酒をあおり、酔った勢いで佐川の部屋を二度と見られぬほど目茶目茶にした。そしてアパートの窓からやわらかい雪のクッションの上へとジャンプし、粉雪の中を転げまわった。粉雪のカーニバルの開催だ。井沢も佐川も私も雪にまみれた。まるで世の中の埃という埃すべてを全身にまぶしたように見えた。それから街へ繰り出した。街には雪が舞っていた。井沢は大笑いしながら市場に並べられたイチゴをわしづかみにして頬張った。野菜売りの薄汚いおばさんが「泥棒!あんたァ、泥棒だよ、泥棒!」と大声で叫んだ。私たちは一目散に逃げ去った。息を切らせてアパートに戻ると、三人ともすっかり疲れていた。私は炬燵でそのまま眠り込んだ。
薄ぼんやりした意識の中で「おきろ〜、長沢〜、目え覚ませえ、ホラ、コーラやるぞォ」という井沢の声とともに冷たいものが頭にかけられているのがわかった。井沢と佐川のゲラゲラ笑う声が聞こえた。目が覚めたとき、私の髪の毛は乾いたコーラでゴワゴワになっていた。窓の外はすっかり暗くなっていた。家に帰ったのは十一時をとうに過ぎた頃だった。親には酒を飲んで暴れてきたことは言わなかった。私はひとつ大人になったのだった。どこか誇らしい気持ちがあった。
高校三年になって、私は突然文学に目覚めた。ロクに書けもしない小説を大学ノートに書きつけ、文化祭で同人雑誌まで出した。恥ずかしげもなく、よくもあれだけヘタクソな小説を人目にさらしたものだと今となっては冷や汗ものだが(いや、今でもそうか・・・)、自分のミミズのような文字が活字になるのは、何しろ現代のようにワープロもパソコンもない時代のことであったから、大いに感動的であった。文学は読んでおもしろく、また人を感動させるものでなければならないなどという理想に燃え、一生懸命話のスジを拵えながら、印刷屋からもらった藁半紙の原稿用紙に一文字一文字彫るように鉛筆で書き付けた。書いては消し書いては消しを繰り返した挙句、机の下は消しゴムのカスだらけ、紙はボロボロに擦り切れて粉が舞うほど変形した。そんな執筆時の苦労を考えると、やっぱりパソコンはいいよね。
ようやく完成した小説に絵のうまい友人が挿絵を入れてくれた。小説はともかく挿絵はやたらうまいとよく人からほめられた。
その頃何をトチ狂ったのか、井沢もまた文学を志していた。井沢が小説家を自負する私に向かって「おれは詩人だ」などと豪語したとき、私は思わず吹き出してしまった。詩という言葉のイメージから井沢の風貌があまりにかけ離れていたからだ。井沢がギャグをかましているのではないかと疑いさえした。それほど井沢と詩との取り合わせは妙だった。井沢が私に見せてくれた詩の一篇をちょっと引用してみよう。
塔
ぼくが登る塔は暗く寒く
内側をめぐる歪んだらせん階段
湿った壁は胎児の標本の肌
ホルマリンから取り出された胎児の肌
窓から見渡すは一面の墨絵の雪景色
白と黒の雪景色
清潔で冷酷で単純な死の世界
雪が降る
ぼくらの肌を焼け爛らせる
ドライアイスの雪が降る
塔に済むのは痩せた幽鬼の者
愛欲のメフィストフェレスか
霊魂を求めさすらう死神か
激しい苦悩と苛立ちと畏れを満面に湛え
ぼくらの世界を高みから見下ろす
猫の瞳を持つきみは
ぼくを塔に閉じ込めた
塔に登ること以外
ぼくに何ができるのか
塔に登ること
それがぼくの唯一の存在理由
幽鬼の者が案内する塔の頂に
春は待っているのかい
淡い光射し仄かな温みのショールを身にまとい
甘い薔薇の香りを漂わせ
蜜の麻薬を滴らせる
とろけるような悦楽
悪魔のフェロモン
春は待っているのかい
ぼくを待っているのかい
きみよ、夢を抱いていいのかい
目覚めよ、自分自身を
ぼくが登る塔は暗く寒く
らせん階段の湿った壁から血が滲む
ホルマリン漬け胎児の柔肌から
真紅の血潮が滲み出す
滴り落ちた赤い血は雪に染み
春の大地の餌となる
「なんだいこりゃあ、何が言いたいのかさっぱりわからんよ。」
私がそんなふうに批評すると、井沢はちょっとムッとし、
「お前にゃ難解すぎてわからんがろうな。」
一方、詩人の井沢は私の小説をこんなふうに批評した。
「最初は面白えと思ったけど、途中から急に書き方が変わっちまってるな。変な小説だ。気持ちはわかるろもな。」
そのとおりだった。私は反論しなかった。井沢の詩がいいのか悪いのか、私にはわかりようもない。しかし仮にいいものであったとしても、井沢が作ったというだけで私は心のどこかでバカにしていたのに違いない。
その後、私は受験で頭がいっぱいになり、井沢と話す機会は極端に減っていった。廊下で顔を合わせても、彼のほうから私に話しかけてくることはなかったし、私もまたあえて話しかけようとしなかった。クラスも変わってお互いにすむ世界が微妙に違ってきているのが察せられた。受験勉強のおそるべき孤独と懸命に戦いながら、私がようやく勝ち得たものは、東京都下のごくフツウの私大への入学だった。風の噂に井沢が東京都内の右翼系の私立大学に入ったことを聞いたのはその年の春休みだった。環境が私の頭の中から井沢の記憶を薄れさせていった。
お待たせしました。
歌舞伎町で井沢に会ったクリスマスの夜に起きた事件を記そう。
井沢に会ったのは高校卒業後三年ぶりだったが角刈りも色白の小顔も雰囲気も全然変わっていなかった。
当時の新宿歌舞伎町って、今ほどブッソウでなかったように思えるのは、私の気のせいですかね。最近は歌舞伎町でコンパする大学生の姿など、ほとんどお目にかかれないが、私が学生の頃は大学野球で優勝でもしようものなら、コマ劇場前の噴水広場はまさにランチキ騒ぎになったものだ。素っ裸になるヤツもいれば、噴水池に飛び込んで膝までしかない水の中を泳ぎ回るヤツなんかもいた。風俗に目を向ければ、東京初のノーパン喫茶ができたのは、私が大学に入学したての頃。実は場所は歌舞伎町でなく東長崎だったんだよね。そのノーパン喫茶、すぐに歌舞伎町に広まり、覗き部屋なんぞもチラホラ目に付くようになってた。ボッタクリの店がマスコミに取り上げられるようになったのもこの頃だね。最近はホテルやら裏DVDの店なんかが多いようだが・・・。おおっと、また脱線しそうだ。話を戻そう。
夜の歌舞伎町のビル群は緑と赤と金銀のクリスマス色に染められていた。きらびやかなネオンサインは、何かに煽られているかのように点いては消え、どこからともなく賑やかなクリスマス・ソングが流れてくる。
ジングルベルジングルベル鈴が鳴る
今日は楽しいクリスマス
とか
真っ赤なお鼻のトナカイさんは
いつもみんなの笑い者
とか、メロディにつられそんな歌詞が頭に浮かぶ。
所々でクリスマスの合コンパーティに浮かれた大学生が輪になって騒いでいる。女子学生の黄色い笑い声が耳につく。女の子はほとんどみんな『聖子ちゃんカット』だし、男はやりもしないくせにサーファー姿。私は自分が住む世界がいかに彼らと異なるか、実感せずにはいられなかった。久しぶりに会った井沢にどこか懐かしさを感じるとともに、まだら迷彩の姿にいたく共感の念を覚えたのだった。
私たちはコマ劇場角の居酒屋ビルに入った。高校時代の思い出話に花が咲き、旧友たちの消息を確かめ合い、そしてお互い近況を語り合う。
私の大学は左翼系で、私が在籍していた頃キャンパスにはいまだに七十年代を偲ばせる雰囲気があった。白いタオルを顔に巻きヘルメットをかぶった学生がそれなりのスローガンを殴り書きしたプラカード片手に拡声器で演説する姿もしばしば見受けられた。さすがに井沢の行った右翼系大学ではそんな光景は見られないとのこと。井沢は右翼の街宣車の準備のアルバイトに狩り出されたことがあるという。
「すごういあ、それ。でも右翼って怖くないのか?」
そう聞くと、イメージ先行しすぎだ、みんな至って真面目なものだという。むしろ最近のチャラチャラした連中のほうがよほど不真面目だという。人を脅そうとして凄む必要はないが、少なくとも気合は必要で、サーファーの髪型にアロハシャツ、ビーチサンダルで街宣車に乗り込むヤツはまずいない。さらに井沢は言う。
「この間おれの大学の知り合いがカナダの友達を連れてきたんだ。外人って、やっぱでかいよ。お前よりずっと背が高くて、また顔がカッコよくてなあ。そいつ、おれんちのアパートへ来たとき皮ジャン着てたけど、その皮ジャンの胸のとこにカナダの国旗が縫い付けてあるわけだよ。これがまた妙に似合っててカッコいいんだなあ。そこでおれもマネして日本の国旗を付けようとして、フッと気がついた。あ、これじゃ外を歩けんわ、右翼だと思われるからってな。日本人としてこんな恥ずかしいことがあるか、お前どう思う?」
「どうっていわれてもな・・・。」
返答に詰まる。と、井沢は
「おれはでもハタ日には必ず自分の部屋に日の丸掲げるよ。日本人だもん、当たり前じゃないか。最低限の節度だと思ってる。」
私はその言葉を聞いて、なぜか井沢が書いた詩のことを思い浮かべた。まだら迷彩の服に身を包み、角刈りに童顔の小男・井沢が薄汚れたアパートの一室でタバコをふかしながら軍歌に聴き入る、壁には大きな日章旗が貼ってある。その光景があの井沢の詩のイメージとどこかしら重なる。そんな私の思いを見透かしたように井沢は、
「ところでお前、まだ小説書いてんのか?」
と聞いてきた。
私は入学した年、同人雑誌を出したメンバーが何度か集まって雑誌の第二号を出したこと、その雑誌に新聞配達の日常生活を下敷きにした小説を載せたこと、大学の先生に見せたところ出来自体は悪くないが女が書けていないと批評されたこと、雑誌を近所の本屋で売ってもらったことなどを話した。お前はどうか、まだ詩を書いてるのか、と私が聞くと、
「おれはおれの人生そのものを詩にしようとしている。」
などとヘンに格好つけた言い方をした。つまり、もう書いてないってことなんだろう。
「人生を詩にする?そりゃあどういうことだ?」
私が聞くと、
「お前はそもそも詩をわかってないからな。そんなやつにはおれの生き様なんてわからんだろうな。」
と、どこかで聞いたことのある言葉を返した。
居酒屋ビルのエレベータを降りると、酔った学生コンパの連中が入口を取り巻いていて、なかなか外に出れなかった。やっとの思いで騒がしい人の輪を抜けると、道路では罰ゲームは何かなのだろう、女の子の胴上げが始まっていた。胴上げされた女の子はスカートがめくれないよう必死に手で押さえるが、ちらりと白いものが除けたりする。まさに大騒ぎ、私には無縁の大学生の世界。
「あいつら合コンかあ。いいなあ。」
ポツリと私が漏らすと、
「やっぱ平和だな、日本は。」
と井沢は返した。そして
「おれ、ちっと小便して来る。待っててくれ。」
といい残して再び人の輪をかいくぐり居酒屋ビルに入っていった。井沢を待つ間、私は次の胴上げのターゲットとなった女の子が笑いながら拒むのを眺めていた。さっきのコよりちょっと可愛いナ、はやく上げてしまえ、今度は何色のパンツだ、などと思った。
そのときだった。背後の人の群れの中から絹を引き裂くような女の子の悲鳴と男達の怒号の入り混じった叫び声が上がったのは。
何事かと思って振り返ると、居酒屋ビル入口のすぐ脇に飾られた大きなクリスマスツリーがめらめらと真っ赤な炎を上げていた。
「おい、誰か、水、水!」
「110番しろ、いや、119番だ!」
「店の人誰か呼んで来い!」
「救急車だ!」
学生たちは叫んだ。先ほどまでの大学生のランチキ騒ぎは突然打ち切られた。みんなが慌てふためいていた。
そんな喧騒をよそに、井沢が何事もなかったように居酒屋ビルから出てきた。クリスマスツリーの出火にはちらりと横目をくれただけだった。私はそのときの井沢の表情を忘れることは出来ない。燃え盛る炎が色白の井沢の顔を照らし、歌舞伎役者のような橙色と黒の影を描き出していた。井沢は確かに微笑んでいたのだ、悪魔のように。
「おい、クリスマスツリーが燃えてるぞ。何かあったんか?」
戻ってきた井沢に私が聞くと、井沢は不敵な笑みを浮かべ、例の斜に構えた目で私を見、こう言った。
「誰かが火つけたらしいよ。さぞいいクリスマスになるさ。ま、気にするな。」
火をつけたのは井沢だと私は直感した。
「おい、お前が火つけたんじゃないだろうな」
そう聞くと、
「バカ、おれがそんなことするわけないだろうが。大学入ってつまらんことを言うようになったね、お前は。」
私を蔑むような目で見て、井沢はそう言った。
いつしか忘れていた井沢への畏怖の念が蘇ってきた。井沢という男への尊敬の念にも似た恐れの感情を、私は”大人の世界”に対するへの恐れと勘違いしていたのだろう。彼を恐れるのは、彼が私より大人だからだとごまかして来たのだろう。わけのわからないものへの畏怖の念は誰しもある。放っておくと何をやらかすかわからない人間はやはり怖い。どうやら井沢への畏怖の念はそのような感情に基づくものだったらしい。
あれから二十年以上経つ。その後井沢と会うことはもない。噂にも聞かない。生きているのやら死んでいるのやら。彼の名前を詩人としても右翼としても耳にしないことを考えれば、おそらくは私同様、一般人になっているのだろう。大学を卒業してどこかに就職して誰かと結婚し、子供も一人くらいはいるのだろう。もう家も持って、ローンにおわれる毎日を過ごしているかもしれない。会社では若いOLたちにちょっと変な人扱いされているかもしれない。当然詩なんて書いているはずがない。それでも井沢は私にこう言うだろう。
「おれの人生そのものが詩だ」
次に会ったとき、そんな彼に、私は果たして変わらぬ畏怖を抱いているだろうか。そして現在のこんな世の中を、現在の彼はどう感じ、どう見ているのだろうか。もし若き日の彼が現在の世の中にいたら、一体・・・。