処置
「何かあるかと思っていたけれど……今のところはまだ、何にもないね……」
地方の小規模演習場よりも広い練兵場では、仮設スタンドの建設が既に始まっている。資材を搬入するトラックが頻繁に出入りしては、集まった兵たちがまるで蟻の群れのように資材に取り付いて卸下し、散らばっていく……その光景を見ていると自然、短かった陸軍での二年間が思い返された。かつては私も、あちら側で額に汗して日々を過ごしていたのだ……除隊してたった二年が経過しただけで、それが遠い昔の出来事のように感じられる。
当初こそ体力面で不安のあった軍での生活も、飛び込んでしまえば……その上で弛まず必死に取り組んでいれば、もはや住めば都と言っても良かった。たまに降りかかる苦難や理不尽も、同期や同僚みんなで共有できたし、それらを乗り越えただけ精神的にも強くなれた気がした。階級等こそあれど、実家のような気色悪い上下関係は無かったし、それぞれ階級や役職に見合った悲哀があるのを、短い軍生活の中でも理解できた。みんな等しく、それぞれの地獄が用意されている……そんな軍隊での日々が、私はきっと嫌いではなかった。そうやって浸っていると、
「相馬クン、跳躍台の近辺は駄目だね。まだ何の気配も、仕込みも……あれ、聞いてる?」
「聞いていますよ、室長……」
今日の午前中に組み上がったばかりという、件の跳躍台の前に私と大佐は立っている。鋼製のそれは構造上、剛性も踏切台の傾斜の処置も十分であり技術的な問題は何も確認できない。
大臣官房広報課別室という、公式な偽装身分を用いて背広に身を包んで現場入りした、私と大佐——今ここでは室長は、練兵場における構造物設営を担当している軍属の案内を受けて、ここまで来ている。しかしどうも、頼りの大佐が言うには現時点では何も感じられないらしい。
「……まさか室長、お疲れな訳ではないですよね?」
一応、念の為にそう確認してみる。
「昨日の今日で、そうなる訳がないじゃないか……あぁ、相馬クンがいつになく意地悪だ……ボクは悲しい。悲しいけど……そんな相馬クンも、素敵だな……」
「はいはい、ありがとうございます。室長、一応ですが着地側の斜面も見ておきましょうか。それで何も確認できなければ、もう一つの案を検討しましょう。さ、行きますよ……」
大佐の演技じみた、わざとらしい言動を受け流して歩き出すと……ふふふ、と小さな笑い声の後に、軽やかな足音が続いた。そうしてそのまま、盛土により造成して作られた着地側斜面を確認したものの……やはりこちらも跳躍台と変わらず、何らの不審点も発見できなかった。
「うーん、やっぱり何もないね。よし、相馬クン……次に行こうか。面倒だけどね……」
「わかりました、少々お待ちを……」
そう断ってから、離れてもらっていた担当の軍属の元へ向かう……動きを察知して、向こうからもこちらへと近付いてきた。女性の割に長身の、快活そうな担当に声を掛けつつ近寄る。
「水澤班長、急な調整にも関わらず対応ありがとうございました。無事に確認できました。」
「もう大丈夫ですか? お役に立てたんなら、良かったです……また何かあったら、いつでも内線に掛けたって下さい。設営も目処立ってきたら、私も大概は事務所に居りますんで……」
なかなかに特徴的な方言で……それが妙な親近感と、人の良さを感じさせた。
「えぇ、おかげさまで良い画が撮れそうです。本当にありがとうございます……また本番までに確認することもあるかもしれませんが、その時はよろしくお願いしますね。」
そう言って、互いに礼をしてその場で別れると、水澤班長は設営中の仮設スタンドの方へと向かっていく。その後ろ姿を少し見送ってから、大佐と共に練兵場を後にした。
◇ ◇ ◇
「……それで、この一区画に入れてある車両が全部でいいのかな? 」
駐屯地内に所在する、武装偵察中隊が保有する装備品の整備を一手に担う整備工場……その一角に、私たちは移動していた。然るべき手順で事前に調整した通りに人払いがされてあり、その上で閉め切られた整備工場内に隊が保有するオートバイの全てが整列されてある。
「全てです。不可動の車両一台を除き、装備されている全てを並べております。」
「不可動のオートバイは、今現在どこに? 式典までに復帰する可能性はありそうかな?」
「整備工場で処置できない上位段階整備の為、補給処へ後送中です。式典までの復帰はあり得ません。」
ずっと私たちより年嵩の高級将校が、質問に対して即答していく。この閉鎖された空間の中には今現在、この三名しか居ない。それは当然、これから実施する行為を誰にも見られてはならないからに他ならない。私たちの為している任務は間違いなく超自然的なものに違いないが、それは偏に通常の軍隊をそれらから切り離す為に存在しているのだ。
故にその業務の何たるかを、知るべき者以外に知られてはならない……それは最終的に窓口となった者が目の前にいる高級将校——この駐屯地で上から三番目に偉い、軍司令部の参謀長である安芸田少将となってしまった理由でもあった。隷下部隊にどのような理由を付けて、この状況を生み出したのかは私には知る由も無いが……兎にも角にも、任務を遂行する為の状況はこうして作為された。
「それじゃ、三時間後にまた来てもらってもいいかな? いや本当、忙しいのに悪いね……」
「はっ、わかりました。失礼します……」
機敏な動作で敬礼をして、足早に整備工場の裏口から出て行った少将……聞かれた事にのみ短節に答え、無駄に聞かず、語らず、接触を最小限に抑える……なるほど、これまで目にした者達と同様だ。知るべき者たちの間では、特務との関わり方は徹底されているようであった。すっかり二人きりになった整備工場で整列されたオートバイを眺めていると、
「さぁ、出番だね相馬クン……君の得意分野だ、よろしくお願いするよ……」
「仕上げた端から、点検をお願いしますね……出来てるか、私には解らないんですから……」
そうして始まった仕事は……当初の見積り通り、三時間足らずで完了した。
◇ ◇ ◇
それから、指定した時間に整備工場へと戻ってきた少将に撤収する事を告げると、そそくさと駐屯地から離脱した。そうして今は帰りの車内だったのだが、どうも先ほどから進みが遅い……タイミング悪くちょうど退勤ラッシュと重なり、渋滞に捕まってしまっていた。このままでは、この後の報告に差し支えるかもしれないな……と考えていたところで、後部座席で休んでもらっていた大佐が小さな欠伸を漏らした。
「大佐、到着予定時間ですが……」
目を覚ましたらしい大佐に、次の予定に遅れそうである事実を告げようとするも、
「いや、大丈夫だよ。今日行くから、とは言ってあるんだから待たせておけばいいのさ……とはいえ、相馬クンの面子もあるからね。彼には今メッセージを送っておくから、安全運転で構わないよ。ね、それより鮫上クン達はどうかな……何か、連絡は来ているかい?」
まるで私の実家には興味が無いようであり、新しく所属した部下の動向の方がよっぽど気になる様子で……ようやく手に入った玩具を、何かと構いたくなるような無邪気さにも見えた。
「先ほど、事務所に帰り着いたところだそうです。狙撃銃の慣熟訓練、異状無し。問題なく、良く当たっているそうですよ。射撃場の制限上、超長距離は撃てなかったらしいですが……」
「そうか、そうか……とても良いね……ふふふ……」
心底嬉しそうに、窓の外を見つめながら頬を緩ませて……その表情に思わず、
「……本当に、嬉しそうですね。」
そう言った。特に他意はない……だなんて、頭の中では言い訳していたけれど。本当は少し、寂しい気持ちがあったのかもしれない。実家から掬い上げてくれたのも大佐であれば、ここに居る今の私を作り上げてくれたのも大佐だった。特務二班に来たばかりの頃は、私自身が慣れていない事もあって多忙を極めていたし、本当に誘いに乗った事を後悔した時もあったけれど……どんな時でも大佐が根気強く私を鍛えてくれたおかげで、どうにか形になったのだ。
人が居ない辛さは本当に身に染みているし、班員がいきなり二人も増えたのはとても嬉しい。それも新兵教育隊の同期で、当時から応援していた二人なら尚更だ。だから本当に、良い事でしかないのだけれど……その大佐の優しさや興味が私以外に向いている事実に、少し寂しさを感じてしまったのか。ひょっとしてこれは世に言うような、弟か妹が生まれた長子の気持ちと似たようなものか……そこまで思い至ると、遅れて恥ずかしさがやってきた。バックミラーにはきょとんとした表情が映っているが、その顔がだんだんニヤ……と崩れてくる。不味い。
「違いますからね、大佐……今のは別に、」
「いやいや、解ってるよ……本当に、可愛いなぁ……ボクの相馬クンは……」
まるで取り合って貰えなかった私は、対抗措置としてコンソールを操作し、全席と後席の間のスモークガラスを閉じるも……楽しげに、歌うように笑う声は防ぎ損なった。




