念願
振り絞った力でその細い両肩を突き飛ばして、そのまま踵を返して玄関へ走る。身体が壁にぶつかるような音がしたけれど、絶対に振り向かない。靴も履かずに玄関扉に取り付き、鍵を開錠する……カチャン、という確かな感触を感じてドアノブを捻って押すと、ガンッ! と、玄関扉とその枠が鈍い振動を立てた。馬鹿、さっき入った時にきっと閉めてなかったんだ……解錠するつもりで施錠していた。そう思ってもう一度、震える指で内鍵を捻ってカチャン、という感触を確かめる……それでも内鍵の向きがおかしい気がする。違和感に構わずドアノブを捻って押すと、玄関扉は先ほどと同じようにガンッ! と音を立てて振動するばかりだった。
「開かへんよ……」
後ろから投げかけられた、じっとりとした声に振り向く……もう、すぐそこに立っていた。もはや鍵にも構わずドアをガンガン押したり引いたりしているが、そんな行為で事態が好転する訳もなかったし、俺にもそれは理解出来ていたが……それでも何か、この状況に抗う行動を取らなければ、先に俺の気が狂いそうな気がしていた。
「ふふ、開かへんて……姉ちゃんはちゃんと、ゆうちゃんにお招きされてこの部屋に入ったんやし……ずっと一緒や、てさっき約束したやろ? せやからな、そん時に……部屋の主権が、格の高い姉ちゃんの方に移っとるんや……だから、出るも入るも姉ちゃん次第やねんで……」
全く意味のわからない説明を滔々と述べている化け物に、どうにか向き直って吠えた。
「うっさいボケ! 姉ちゃんの格好に化けやがって! 俺の姉ちゃんを返せや!」
途端に、シン……と部屋に静寂が戻った。姉ちゃんの造形をした裸体で、かつ禍々しい陰茎を携えた化け物は、しばらくキョトンとした表情で俺を見ていたが……そのうち、クスクスと可笑しそうに笑い出した。その笑いの意味がわからずに佇んでいると、
「もー、お姉ちゃんやって言うとるやん……何回言わせるん……?」
その言葉の意味が、解らなかった……いや、解りたくなかった。だから続けて、
「お前が、親父と母親と姉ちゃん……みんな殺したんやろが! それで、姉ちゃんに化けとるんや!」
そうであって欲しい、という仮説を叩きつけた。それでも、一度脳裏を過った悪い予感も、言葉を発した端からその陳腐な仮説を否定している。それでもそうやって、みっともなく喚いていないと……真実を告げられた時に俺は、耐えられない気がしていた。すると、
「確かに親父と母親は殺したな……でも私は、姉ちゃんやで? 化けるとか、そういうんやのうて……」
頭がおかしくなりそうで……俺はもう、これ以上この化け物の話を聞きたくはなかったが、話が尽きた時こそ全てが終わりそうな気がしていたので、間髪入れずに反論した。
「嘘つけ! 姉ちゃんにあんな、無茶苦茶な人の殺し方が出来る訳ないやろ! 運動だって、そんな得意やなかったのに……無駄にガタイのいい親父を、殺してバラせる訳ないやろ!」
「ふふ……出来るように頑張ってくれたんは、ゆうちゃんなんやろ?」
返された言葉の意味がわからずに詰まった。不味い。何か、言葉を返さなければいけない。
「俺があん時、何をしたって言うねん! 俺は……俺……お、れは……」
自分で啖呵を切って、自分の言葉を記憶でなぞって……そして思い出した、俺の特異な行動。その入り口が脳内に浮かんだだけで、言葉が詰まり、何も言えなくなってしまった。そこに、
「なぁ、姉ちゃんにも教えてや……あの時、ゆうちゃんはどうしたん? 姉ちゃんが、居間へ引き摺られてった後……どこへ何しに行ったんか、教えて……?」
ずっともう、変な汗が身体中から吹き出している……季節は春で、それも今は夜だというのに汗の止まる気配はまるで無かった。あくまで質問であるかのように問われたけれど、決して逆らう事のできない尋問のように感じられ……突き動かされるようにして、
「……あの時、俺は……家を飛び出して、河川敷の小さい方の公園に行って……」
「そこで、誰に会うたん?」
「前に、姉ちゃんが関わらん方がええ、って言うてたお姉さん……留依さんって名前の……」
「何で、そのお姉さんに会いにいったん?」
「お姉さんが本当に困った時は助けたる、言うてて……それで、必要な物を持って……」
「必要な物って、何やったん?」
「……姉ちゃんの、髪の毛と、爪と、血が必要や言われてて……落ちてた長い髪と、爪切りん中の欠片と、姉ちゃんの捨てた絆創膏を持っとって……」
「それを持ってって、どうしたん?」
「公園行ったら、お姉さんがおって……姉ちゃんを助けて下さいって、お願いして……」
「それからゆうちゃんは、どうしたん?」
「お姉さんが、後は私がやっとくから、姉ちゃんのとこに行ったげて、って言われて……」
「それでゆうちゃんは儀式に参加せえへんかったから、家に帰って来たんやな……」
「……えっ、あっ……ぎっ、儀式……?」
「狗神の儀式や。ゆうちゃんが材料を用意して、お姉さん——累さんが儀式をして、姉ちゃんの身体に、造った狗神を降ろしたんや……せやから、親父なんか簡単に殺せたんやで……」
そう言いながら、おもむろに挙げた片手だけを……毛で覆われた、大きく長い手指と鋭い爪を持った手に変化させた。あの日、あの時、俺の首を絞め上げていた、大きな手……
「最高に面白かったわ……力は滅茶強なっとるし、爪もスパスパ斬れるしで……せやから斬り刻んで遊んでたら、許して下さい! 言うて震え上がっててな……傑作やったな……全部剥いだったら、陰茎も滅茶苦茶縮こまってて……親父、小便漏らしてたんやで? 面白いやろ?」
まるで休日の楽しい思い出を振り返って、噛み締めでもするかのように……目を爛々と輝かせて語っていた。
「……じゃあ、あの時……俺を……? 姉ちゃんが……? なんで……? なんで……?」
本当に目の前の化け物が姉であるという真実と……俺自身の行いが、姉をその化け物に変えてしまったという真実を突き付けられた俺は……譫言のようにぶつぶつと、残る疑問について呟いていた。そこに残された最後の真実を突き刺す為に、姉が語った。
「ゆうちゃんには怖い思いさせたけどな……しゃーないねん。ほんまは姉ちゃんの胤を注いで、すぐにゆうちゃんを眷属にしたかったんやけど……まだ顕現したばっかりで、力不足やったんやろなぁ……どんだけ頑張っても、気持ち良いばっかりで胤が出せんかったから……やからな、いっぱい愛したって、刻印したんや……すぐ現場を離れなアカンかったから、ゆうちゃんとは一回離れ離れになってまうやろ? そしたら保護されて、面倒臭い奴らの手で隠されるんは、教えて貰ってて解ってたから……何年経っても、何処に行っても……絶対、絶対に見つけられるように、ゆうちゃんに刻み込んだんや……」
何を言っているのか解らない事だらけだった。だが、それらが解らなくても、俺がこの後でどうなってしまうのか……それだけは、よく解ったし、解りたくもなかった。もうさっきからずっと、歯の根が合わないし、ドアノブをずっとガチャガチャと捻り続けている。この意味のない行為を続けられなくなったその瞬間、人間としての俺が終わってしまう確かな予感がある。
「な? 姉ちゃんやって解って安心したやろ? 心配せんでも、大丈夫やで……姉ちゃんはな、ほんまに嬉しかったんや……早よ死にたいってずっと思ってたのに、思っても見いへん選択肢が与えられて……しかも、ゆうちゃんがくれた選択肢やろ? そのおかげで死にたい気持ちが殺したる、に変わるなんて最高やんか……せやから、ゆうちゃん……あの日の続き、しよな。今から姉ちゃんの眷属にしたるから、これからはずっと一緒に、面白おかしく生きよ……?」
そう言って軽々と俺の身体を持ち上げた姉は、居間へと俺を連れていく……握っていたドアノブも難なく引き離され、手が宙を掴む……所在なく彷徨ったその手を、姉が片方の手で繋ぐ。これから悍ましい出来事が始まるに違いないのに、優しく俺を包もうとしている姉の行為……俺の頭の中はもう、とっくに処理の許容量を超えていて……これから姉自身が、俺に酷い事をするというのに、姉に向かって助けを請うていた。腕の中で縋って、泣きじゃくっていた。
「姉ちゃん、姉ちゃん……助けて……お願いやから、痛いことせんといて……」
「もー、大丈夫やって……姉ちゃんがちゃんとしたるから……」
「嫌や……姉ちゃん……俺、怖い……怖いねん……」
「ゆうちゃん、ほんまに泣き虫やなぁ……男の子はな、簡単に泣いたらアカンねんで……」
そう言って、姉はそっと……俺の額に口付けた。いつだったか幼い頃に……姉がしてくれた、おまじないだった。不思議と気持ちが落ち着き、感情の波が穏やかになりつつあった。
「姉ちゃんやから、許したるけどな……」
ひょっとしたらこの瞬間に、俺は姉を——姉とその眷属として生きる事を、受け入れられたのかもしれない。そうやって、姉に居間に連れてこられて……そして、
俺はこの夜、人間である事を——楢原悠多である事を、辞めた。




