由那
突き指しそうになりながら慌てる手で開け放った玄関扉の向こうは、つい先ほどまでと何ら変わらない夜が広がっている。その夜を背景に、強い昼光色のLEDが廊下を青白く照らし、どこか近隣から夕餉の匂いが漂っていて……その真ん中に、姉が立っていた。紛れもない現実の風景の中に、姉がいる。死んだものと思っていた、姉……優しかったあの、姉が……
「……うっ……あっ……」
驚きのせいか、まともに声も出せない……目の前に立っている姉があまりにも当時のままのように見えたから。背はあの時から伸びていないし、髪型もそのまま。そればかりか、記憶の中の姉のままで化粧っ気もない……いや、その必要がない幼さに見えた。それはまるで、あの時から時間が止まってしまったかのようで……だから、姿形や顔の造形までの全てが姉だったのに、俺はどうしても確かめざるを得なかった。
「ほんまに……姉ちゃん、なんか……?」
ようやっと捻り出した、震える声の問いかけに対してクスクスと笑いながら、
「せや、ほんまもんの由那姉ちゃんやで。十年ぶりやね、ゆうちゃん。大きなったねぇ……」
穏やかな声、その抑揚、名前、自ら語った別離の期間……あらゆる情報が、そうだと告げている。目の前の人物は間違いなく、本物の楢原由那——俺の姉だった。生きていたんだ、生きていてくれたんだ……もう涙は自然に溢れ出て、喉は狭まって嗚咽を止められない。すると、
「もー、ゆうちゃん……簡単に泣いたらアカン言うたやろ? こんな大きなったのに……」
呆れたような声でそう言いながら、一歩近づいた姉は俺を優しく抱きしめた。あの頃は本当に大きく感じられたのに、今はとても華奢で、繊細で……折れてしまいそうな、身体だった。それなのに、これ以上にないほど俺を優しく包み込むような抱擁力に満ち溢れていた。
「でも、今は許したるわ……姉ちゃんは、ゆうちゃんの姉ちゃんやからな……」
そう言って頭を撫でられた途端に俺は、タガが外れたように姉に縋りついて泣いてしまった。思えばあの日からずっと、泣いた覚えがなかった……これからひとりで生きていく中で誰にも弱みを見せられないと思ったし、泣いたら駄目だと言われていたから……俺が泣く事を許してくれる存在は、もう喪ってしまったものだと思っていたから。
「姉ちゃん……姉ちゃん……!」
「しゃーないな、ゆうちゃんは……いっぱい頑張ったんやな……偉い、偉い……」
そうやってぐずって、縋りついて泣く俺を、姉はずっと落ち着くまであやしてくれていた。十年の歳月を埋めるには短すぎたけれど、抱擁されていたその僅か数分間は……もしかしたら俺の人生の中で最も、幸せな時間だったのかもしれない。やがて呼吸が落ち着いた頃に、
「ほら、ご近所さんも吃驚してまうで……せやから、ゆうちゃん……お家、入ってもええ?」
姉は遠慮がちな声で、耳元でそう囁く。聞くまでもない、当然だろうと俺は思った……十年ぶりに再会できた姉弟なのだ、積もる話だってお互いにあり過ぎるほどあるだろう。だから、
「そんなん、当たり前や……入ってや、姉ちゃん……何もない部屋やけど……」
そう言った。そう言って、玄関扉を大きく開いて姉に入室を促すと姉はニッコリと笑った。歯を見せず、口を開かずに、唇の両端だけを上に引き上げるようにして笑って……その表情に、違和感があった。姉の笑い方ではない気がした。だが既に、姉は玄関に足を踏み入れている。
「ほな、ゆうちゃん……お邪魔します……」
姉の身体が完全に玄関に収まった瞬間に、妙な寒気を覚えた……まるでそれは、性質の悪い風邪を引いた時に背骨全体に感じる掻痒感に似ていて……けれども俺の意識は、その違和感に長く注目していられなかった。姉がそのまま、靴も脱がずに部屋に上がり始めていたから。
「あっ……えっ……?」
疑問の声を漏らすのがやっとで、何も言えない俺を尻目に、姉は居間の方へとゆっくり歩いていく……その足元のスニーカーを見て、思い出した。あの時と全く同じ物だ……別に珍しくもないメーカー品だけど、限定の柄だと言って姉が大事にしていたスニーカーだった。週末にベランダに並んで一緒に靴を洗ったから覚えている。だからそれは、目の前の人物が姉である証拠であるはずなのに……そのとっている行動が明らかに異質なものであるが故、この部屋に強烈な違和感を生み出していた。居間の真ん中で立ち止まった姉は、そのまま背を向けている。
「綺麗にしてるやん、ゆうちゃん……心配してたけど、ちゃんとしてて偉いなぁ……」
増幅していく違和感に抗えず……穏やかな声で呑気そうに話す姉に、問いかけてしまった。
「……おっ、お前……誰や……?」
そう問うた瞬間に、その身体がぴたりと静止したように見えた。呼吸、心拍、あるいは血流等の、あらゆる不随意的な身体の働きさえ止まってしまったように見えて……その不気味さのせいか、俺の目はその背中に釘付けになってしまった。目を逸らすことができない。無事にこの部屋を出られるイメージが湧かない。アイツが振り向いた瞬間に、捕えられてしまうような……この感覚に、明確な覚えがある。あの日、あの家で一晩中、俺を慰み者にした……
「……誰って……ゆうちゃんの、お姉ちゃんやんか……?」
静止した身体から姉の声が聞こえる……今や目の前の光景は実体を伴わない、スピーカーから流れる音声を合わせたような出来の悪い合成物のように見えた。怖い。そのまま振り向くな。近寄るな。誰だ。お前は誰だ。なんでそんな格好で、俺の前に現れたんだ……?
恐怖でほとんど混乱状態のまま、頭の中を様々な疑問等が駆け巡りだしたその時……目の前のそいつは静かに動き出した。両の手を身体の前に上げて、何かをしている……かと思うと、着ていた淡いデニムのワンピースから両肩を抜いて、自分の足元に落とした。
「……えっ?」
間の抜けた疑問の声だけが部屋の中に小さく響いた後も、動きを止めずインナーをするすると脱いでは下に落とし、そのまま流れるような動作で、下着も靴も、脱ぎ落としてしまった。そうしてあっという間に、目の前に……姉の、生まれたままの後ろ姿が現れた。
「なっ……いきなり、何してんねん……!」
狼狽えて思わず、そう口にすると……その問いに応えるというよりももっと自由な調子で、目の前のそいつは静かに語り出した。
「……なぁ、ゆうちゃん……あん頃……姉ちゃんな……親父に犯されててん……」
頭を強くブン殴られたような、強い衝撃を受けた。殴られていたところは何度も見たから、知っていたけれど、まさか、そんな……親父がそんな外道までも働いていたとは……
「嫌や言うて、必死に抵抗したんやけどな……ゆうちゃんを……殺すぞ、って脅されて……」
その告白を聞くうち、頭の中が沸騰しそうになった。加害者も既に死んで、護るべきだった保護者さえも義務を果たすことなく死んでいる。やり場のない、どうしようもない、我慢ならない怒り。何も知らず、ただただ護られていただけの自分に対する憤り。ごちゃ混ぜの感情の渦の中に飲み込まれそうになったその瞬間に、その後ろ姿がゆっくりとこちらを振り向く。
「ゆうちゃん……姉ちゃん、汚れとる……? ほら、お腹もこんな痣だらけやねん……」
静かに涙を流しながら、俺の目を真っ直ぐに見つめる姉。さっきまでの違和感が嘘のように消えて、その姿は紛れもなく本物の姉だった。手が添えられた腹部には、まるで暴行を受けたばかりかのような青紫の痣が無数に点在して……それを認識する度、罪悪感が増幅していく。
「ゆうちゃんは、汚れた姉ちゃんは嫌い……? だからさっき、誰や、って言うたん……? ゆうちゃんは、もう……お姉ちゃんと、一緒に居りたない……?」
いつしか、俺の目からも止めどなく涙が溢れていた。きっとその涙と一緒に、疑う心は全て流されていってしまったのだと思った……だから俺は、姉に駆け寄って、部屋の真ん中で……正面から思い切り、その華奢な体躯を抱きしめた。そのままの勢いで、
「違う! 全然、違う! 姉ちゃんはなんも、汚れてへん! いっつも綺麗で、優しゅうて、俺の自慢なんや! 俺の一番大切な、俺のっ……俺のぉ……!」
姉ちゃんを否定したくなかった。傷付いて泣いている姉ちゃんを。まだ自分も護られる立場だったのに、精一杯俺を護ってくれた姉ちゃんを。今こうして、唯一の家族から拒絶されるかもしれないと悲しんでいる姉ちゃんを。安心させたくて、大事なんだって、大好きなんだって伝えたくて……それでも全然、途中から言葉にならなくて……しゃくり上げながらも精一杯、拙い言葉で伝え続けた。すると、姉の両の手が、ゆっくりと背中に回されて……
「もー、ほんまに泣き虫なんやから……ありがとうね、ゆうちゃん……」
そうやってまた、俺が気持ちを落ち着けるまで……姉は抱擁し続けてくれた。そうして、
「な、ゆうちゃん……姉ちゃん、今まで一人で頑張ってきたけど、やっぱりこうして会うと、寂しかったんやって実感したわ……せやから、ゆうちゃんが嫌じゃなかったらでええんやけど、一緒にならへん……?」
唐突に、そう同棲の提案をしてきた。そんな話を、俺が断る訳がなかったし、それにもう夜なのだ……今日も自分の家には帰らず、ここに泊まっていくよう言うつもりだった。だから、
「もちろんや、これからは一緒や……たった一人の、家族なんやから……」
そう応えると、これに被せるようにして
「ほんまに? ずっと一緒やで……? ゆうちゃん、約束してくれる……?」
心配そうに、怯えるような口調で言葉を重ねてくる姉……きっと姉もこの十年で苦労したに違いないのだ。だから今、こんなにも幸せを目前にして不安になってしまうのだろう……と、俺はこの時、思っていた。だから、もっと……姉を安心させたくて、
「そうや、約束する……これからはずっと一緒や……死んでも、離さへん……」
「言うたな」
その言葉を聞いた瞬間、俺は何かを明確に間違えた気がした。そして同時に、もはや手遅れで不可逆的なものであることに……この瞬間に、予感めいた閃きで解ってしまった。俺の身体が硬直して固まり、ぴくりとも動けなくなったのを知ってか、クスクスと耳元で笑いだし……やがて身動ぎひとつしていない、抱き合った二人の間に、何らかの異物が起き上がってきた。二人の身体を隔てるようにして、熱量を持った何かが現れている……遠い昔の、陰惨な記憶。
「……せやったら、今からしよっか、ゆうちゃん……十年ぶりやなぁ……」
かつて俺を痛めつけた暴虐の象徴が、時を越えて俺の部屋の真ん中で顕現していた。




