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逸脱  作者: 丸隈
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悠多

 全身汗だくで目を覚ますと、時間は朝五時の少し手前だった。決まってこの夢を見た後は、二度寝をしないと決めているのでそのまま布団を抜け出す。小さな台所でコップに水をみ、飲み込むと……冷えた水が身体の中心軸を流れていく感覚と共に、一気に冷静さを取り戻す。そうしてその勢いのままに、朝食の準備を始めるが……別に大それた食事は作らない。食パンにスライスチーズを乗せたものをオーブントースターに入れるだけ。そして、牛乳をコップに注ぐだけ。そうやって今、俺は中央の隣県にあるアパートでひとり、小さく生活をしている。


 この小さな生活はずっと続いていたものではなく、ここ一週間くらいのものでしかなかった。十年前のあの日——父が惨殺ざんさつされ、俺が暴行されたあの日、かつてあった生活の形は終わった。ある意味では、とっくの昔に終わっていたのかもしれないけれど……明確に終わったのはあの日に違いなかった。後に知ったところによると、母は同じ日に父と同じように惨殺されていたそうだ。二駅ほど離れた街にあった、母が転がり込んでいた家の中で……その家の主と一緒に。


 そして、姉……あの家の中で逃げ場所も無く、俺と一緒に肩を寄せ合っていた九つ上の姉の、その行方は不明となっていた。父の残骸ざんがいが転がるあの家の床を満たしていた血液——その大部分が姉のものだったそうだが、身体は一切見つかっていない。()()()()()()。いずれにせよ、現場に遺された出血量からして生存している可能性はないだろう……というのが科学捜査上での見立てらしく、既に姉も戸籍上こせきじょうは死んだものとして扱われている。


 両親ともに実家と絶縁状態であり、引き取り手の居なかった俺は……かくして天涯孤独てんがいこどくの身として施設に預かられる事となり、そこで十年余りを過ごした後に勤め先を確保してから施設を退所し、アパートを契約して現在に至った。これが大まかな、楢原悠多ならはらゆうたの半生であった。


「勤務初日だってのに……」


 誰に話しかけるでもなく、トーストをかじりながらため息まじりに独りつぶやく。十年前の出来事とは言え、消化できるモノでもないだろう事はもう観念している。辛い記憶には違いないし、きっと一生、俺の人生に付きまとうストレスに違いないという確信があったが……楽しいことがない人生だった、だなんて悲観的な事を言うつもりは決してない。お世話になった施設の人々はみんな優しかったし、同じような境遇きょうぐうの子供が居たことも救いになった。転校した先の学校では友達もできたし、楽しい思い出はもちろん……甘酸あまずっぱい思い出も、多少なりともある。


 だから俺は、この人生にさして絶望はしていないはずなのだ。はずなのだけれど……この夢を見る度に、感じる()()があった。単純なストレスとも思えないような何か……自分の中から、欠けたモノが思い起こされるかのような、何かが。そのせいでどうしても、この夢を見た日は一日中、頭の中にモヤがかかったような気分になってしまう。それが勤務初日の勢いをいでしまわないかが、どうにも心配だった。そんな懸念けねんからふと我に返って、止まっていた咀嚼そしゃくを再開する……それら全てを牛乳で強引に流し込んでから、ひとり手を合わせる。少し早いが、出勤準備を始めることにした。


 身支度を手短てみじかに済ませ、玄関口に置いていた折り畳み傘をリュックに入れてから、靴を履く……この部屋に住み始めて一週間が経過するが、俺にとって未だに馴れない感覚の数々が玄関周辺だけでも多々あった。俺の靴しかない、狭いはずなのに広くがらんとした玄関。常に施錠せじょうされている玄関扉の鍵。築年数の浅いアパートの清潔さを感じさせる玄関。かつての家にも、施設にも無かった状況。開錠かいじょうし、玄関扉を開いて、出て……ちゃんと閉めたら、施錠する。


 窓のから差す光の加減でっすら解ってはいたが……玄関を出て見上げた空模様そらもようはどんよりとしたくもり空だった。どうも今朝の気分に繋がっているような気がして、ますます気が滅入めいる。空一面をおおっている濃い色味の雲はいかにも、いつでも雨を降らせることが出来そうな見た目をしていて……少しだけ迷ったけれど俺は観念して、昨日購入したばかりの自転車を使うことを諦めた。早くに目が醒めてしまったのだから、歩いて行こう。それに今日は()()()だから、モヤモヤした気持ちで自転車を運転するのは危険かもしれない。


 アパート前の細い道を少しばかり歩くと、大きな国道に出る。後はこの国道に沿ってずっと東の方へ行けば、今日なら一時間半もせずに着くし……これが自転車だったなら三十分とかからないだろう距離に、俺の職場はある。国道まで出た俺は黙々(もくもく)と足を進めながらも、頭の中では自然とあの夢——つまりはあの日の出来事について、ボンヤリと想いを巡らせていた。夢を見させられる度に、どうしても毎回考えてしまうこと……それは、他ならぬ姉のことだった。喪失感から来る夢想むそうなのかもしれないが、生きているのではないか……と考えてしまうのだ。


 優しい姉だった。いつかの友達が語った世の姉の姿とそれが異なっていたのは、姉と俺との歳が離れていたせいもあったのかもしれない。姉は慈愛じあいに満ちてかしこく、公正こうせいだった。そんな姉に俺はよくなついたし、頼りにもしていた。姉もよく俺の面倒を見てくれていたし、時には真剣に俺のあやまちを正してくれて……最後にはいつも、優しく包み込むような愛情をくれた姉だった。


「ゆうちゃん、男の子は簡単に泣いたらアカンで……姉ちゃんやから、許したるけどな……」


 そう言ってよく、泣きべそをかいた俺の頭を優しくでてくれた事を思い出した……どうせ夢を見るのなら姉の夢を見たいと何度も願ったが、いまだに夢に出てきてくれたためしはない。姉が今も生きていたのなら、二五歳になっている。あの時の姉は背丈せたけが伸び悩んでいたので、ひょっとすると背格好は変わっていないのかもしれない。姉ちゃん……姉ちゃんにえんうちに、俺の背の方がずっと高くなってしもたわ……


 やがて行き当たった踏切のカン、カン、カンという遮断機しゃだんきの音と赤灯によって、歩みと思考を止められる。立ち止まった横目には貨物ターミナル駅の広大な敷地が広がっていて、色とりどりのコンテナが集積されて……敷地内を行き交う数台のフォークリフトの動きは、せかせかと獲物を運ぶ働きありのようにも見えた。ボンヤリと蟻が大きな角砂糖を運ぶ情景じょうけいながめていると、急に視線を感じた。その気配に従って、正面を向くと……踏切の遮断機の向こう。女性。ややうつむいていて、鎖骨まで伸びた黒髪。背丈。立ち姿。雰囲気。鼻と口元。その、全てが……


「……姉ちゃん……!?」


 認識した瞬間、ゴウッと轟音ごうおんを立てて横行おうこうする列車が、その間をへだててしまった……走り抜ける車体が視界をさえぎり、車輪がガガン、ガガン、と規則的に音を立てる中で、俺の心の平静はすっかりうばわれていた。一分とない車両通過時間がひどく長い時間に感じられて、もどかしい。早く、早く……よ、開けや……! 姉ちゃん、姉ちゃん……!!


 ——カン、カン、カン……


 車両が通過して静寂が戻り、間の抜けた音と共に遮断機が上がって……周りの人も、踏切向こうの人も歩き出したのに、俺はその場で立ち尽くしてしまった。後ろから人にぶつかられて、前に二、三歩と足を取られてしまった。邪魔なものを見るような目で見られる。いぶかしげな表情で人々が避けていく……それでも俺は、それらには何ひとつ反応できなかった。いないのだ。さっきまでいたはずの、踏切の向こうに立っていた姉らしき姿が、煙のように消えている。


「姉ちゃん!」


 はじ外聞がいぶんもなく大声を張り上げて、その衝動しょうどうに突き動かされるままに走る。俺を追い抜いて前を歩いていた人々が驚いて開けた道を、走り抜けていく。さっきまで踏切の向こうにおったんやから、遮断機が降りとる間にどっかへ行ったんや……せやったら、まだおるはずなんや、この近くに! 姉ちゃん、姉ちゃん、姉ちゃん……‼︎



◇ ◇ ◇



「遅刻して、本当に申し訳ありません……すべて、私の自己管理能力の欠如けつじょのせいです!」


 結局、姉らしき人を見つける事は叶わなかった。そればかりか時間に頓着とんちゃくしなさすぎて……危うく、勤務初日に遅刻するところであった。いや、正確には遅刻していると言ってもいい。始業時間には間に合っていたものの、初日なのでたっし事項があるから、この時間までには来ておいてくれ、と指定されていた時間を五分ばかり過ぎてしまっていた。勤務初日だと言うのに、もはや第一印象は最悪と言ってもいいだろう……部署ぶしょに飛び込んだ瞬間に謝罪して頭を下げたまま冷や汗を垂らしていると、部屋に居た人物の一人が、靴を鳴らして近寄るのを感じた。


 ——ゴッ、ゴッ、ゴッ……


 重量感のある安全靴が接近する音を聞きながら、頭を下げたまま歯を食いしばって構える。緊張してその瞬間を待ち構えているところに、頭に何かを掛けられた……タオル生地? ビクついた途端とたん、俺の頭がガシガシとタオル越しに凄い勢いでかれ、頭が揺れる。そのままに、


「な〜んでびしょれやねん! 朝からこんな降ってんねんから、かさ差さなアカンやろ!」


 ケラケラと笑う、底抜けに明るい声。しかも、聞き覚えのある方言……ほうけた表情でいると、


「どしたん、なぐられるおもたんか? せぇへんよ、そんな事……ここは駐屯地やけどな、私らは軍属ぐんぞくやから。軍人とはちゃうねん。ビビらんでええよ……ま、時間は守って欲しいけどな。」


 頭を拭かれながら聞いていると、頭をグイッと持ち上げられて目線が合った。女性だった。背格好は似ているけれど……姉には似ても似つかないタイプの。そのまま続けて、


「私がアンタの研修期間中の面倒を見る、水澤みずさわや……班長って呼んでエエで。頭はもうだいぶ乾いたやろし、ええやろ……ほら、自分もみんなに自己紹介しぃ。」


 そう促されて初めて気付いた……そうだった、遅刻にあせるあまりに名乗りもせずに、部屋に入るなりすぐに謝罪してしまっていた。何をやっているんだ、俺は……あわてて向き直って、


「うっ、あのっ、さきほどはホンマ……本当に、失礼しました……本日からお世話になります、楢原悠多ならはらゆうたと申します! 若輩者じゃくはいものですが、精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」


 精一杯の声で、周りの顔を見渡しながられない挨拶をすると……程なくして、暖かい拍手と声援で迎えられる。その中でも一際ひときわ、大きな反応を見せたのは水澤班長だった。


「さっきの、聞き逃さんかったで! ()()()()()同郷どうきょうやろ!? これから一緒に勤務すんの、楽しみやわ〜! ちゅうわけで皆さん、営繕課えいぜんか営繕班に楢原悠多君が入って来たんで、仲良うやってこ〜! ちなみにまだ一六歳やから、大事に育てよな! 変な遊びは教えんなよ!!」


 盛り上がる部屋の中で……頭を下げたままの俺だけがきっと、動揺の表情を浮かべていた。

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