瓦解
あの薄暗い公園から家へと続く、河川敷を走っている。あの日から何度も見ているこの夢は、いつも決まってここから始まる。そうして場面は脈絡も無く突然スキップして、あの日の幼い俺は息を切らせながら市営住宅の薄暗く狭い階段を駆け上がっている。その先に何があるのかを知っているから当然、この夢が始まった瞬間から目を醒まそうと俺は必死に抗っているけれど……未だかつて、この夢から抜け出せたためしは無い。そればかりか毎回決まって、夢の中の場面が移る度に映像ばかりでなく、あらゆる感覚までもが鮮明になっていくのだ。今やもう、荒れた呼吸を繰り返した小さな胸の内は、陽当たりの悪い階段に増殖した黴臭い空気で満たされている。一本しか刺さっていない踊り場の蛍光灯はもはや点滅すらせず、薄暗い仄かな光だけをその痩身の端っこに秘めている。汗をかいた身体に縒れた肌着が不愉快に張り付いている。
そうして最上階にある家の玄関扉の、ドアノブを小さな手でそっと静かに掴んだ。ひんやりとしたステンレス製の丸い形をしたそれは、捻る必要もなく引くだけで玄関扉を開いて……家の中と外の世界の境界を溶かした。ずっと煩く鳴り続けている心臓の音はあの頃の俺か、夢を見ている今の俺のものかはもはや解らない。身体を滑り込ませられる程度に玄関扉を開いてしばらく待つ……何も反応が無いことを確かめ、意を決して中へと入り込む。玄関扉は開けたまま、暗い玄関で静かに靴を脱いで、散らばった靴を踏みつけながら家に上がった。
家を飛び出した時に部屋中、あるいはこの市営住宅一棟に満ちていた音はすっかり鳴りを潜めていた。それは怒鳴り声であり、投げた何かが壁にぶつかる音や食器類が割れる音であり、あるいは平手打ちするような乾いた音だったり……鼓膜と心臓に響くような、人を殴りつけ、蹴り上げる鈍い音だった。いつの間にか平穏だったはずの我が家の日常と化してしまい、周囲に住む人々の興味を遠ざけて無関心の境地へと至らしめた音。世界から我が家を隔絶した原因である音が、今はぴたりと止んでいた。ただただ、蛇口の水が流れっぱなしになっているのか……ぴちゃ、ぴちゃ、と水滴の滴るような音だけが玄関からも聞こえていた。
その代わりに際立っていたのが、臭いだった。生活のあらゆる面が急速に腐り落ちるようにして崩れていってしまった我が家では、確かに……ゴミが散乱して、異臭を放つような事態もあるにはあった。それにしたって、これ程までの臭い——肉が腐ったような臭いと、排泄物のような臭いが入り混じったかのような強烈な悪臭。こんな臭いまでは嗅いだ事がなかったし、それと同じか、あるいはそれ以上に異質な臭いがした。たとえようのない臭いだが、少しだけ似たような感覚を知っている……ずっと前、ここに引っ越して来る前に友達と遊んでいた時に、ふざけて鉄棒を舐めた時のような味に似ている気がした。
そうやって玄関の闇に佇んでいると、目が慣れてきて辺りを見回せるようになってきたので、音を立てないよう、床に散らばる物を避けて静かに歩いて姉ちゃんと俺の部屋へと向かう……殴られたりした後は大体、俺も姉ちゃんもこの部屋で布団に包まって泣いていたから。
果たして、古い六畳間の片隅には丸まった布団があった。また静かに移動して、傍に近寄ってしゃがみ込む……泣き声は聞こえない。泣き疲れているのか、声を殺して気配を消しているのかは解らなかった。ゆっくり、音を立てない程度に布団の外側を撫でながら小声で囁いた。
「姉ちゃん……もう大丈夫やで。俺な、あのお姉さんにお願いしてきたんや……」
返事は無かったが、布団を撫でながらそのまま囁き続けた。
「姉ちゃんはあの人には近寄らん方がええ、って言っとったけど……あのお姉さん、俺の事も姉ちゃんの事も心配してくれとったから……それでな、本当に困った時は助けたるって言われとってん……だから俺、さっきな……お姉さんのところ行ってお願いしてきたんや……」
一向に顔を見せない姉が心配になり、布団の外側から身体を少し揺するようにして続ける。
「だから大丈夫やで、これでもう……親父に殴られたりせえへん……で……?」
そうして崩れた布団の塊を見てようやく、理解した……ここに、姉はいない。そう認識すると、途端に恐ろしくなった。この部屋に居ないという事は、姉は今、この家の中に居ないのではないか。とすると、あの父と自分二人だけが……この隔絶された世界に、二人きり?
怖気がした。心臓はもう、階段を駆け上がった時よりも高鳴っているし……先日、背中から床に投げ落とされた時のように胸が詰まって、息がし辛い。それでも、どうにか足音を殺して玄関へとゆっくり向かう。視界だけがどんどん闇に順応して明瞭になっていく中、どうにか玄関まで引き返したところで異変に気付いた。
滴るような水音が、止まっていた。その事実に当時の俺は、強い違和感を覚えたのだろう。あの時の父は水を漏らし続ける蛇口があったところで、自分でそれを閉めるような人間ではなかったから……だからきっと俺は姉か、あるいは家に寄り付かなくなった母がそこに居るのかもしれない、と思ってしまったのだろう。だからそっと、居間に続く扉を開けてしまった。
「……姉ちゃん?」
声を出してしまったが、返事はない。酔っ払って寝ているかも、と思っていた父の鼾や寝息も聞こえない。そっと足を居間に踏み入れると、靴下がジワッと濡れる感触があった……温い液体は、さっきまで水音を立てていた正体なのかもしれない。それでも足を止められず、繰り出した反対の足も濡れる……水というにはあまりに足に纏わりついた、粘度の高い液体。磨りガラスの嵌った扉からも漏れ出ていた僅かな光は、つい先日父が暴れた際に壊れて音が出なくなったテレビのものらしく、漏れ出る光の色形がパッ、パッと切り替わっては居間と繋がった台所の方を僅かに照らしていた。荒れ放題の暗い台所には、誰の姿も見えない。
やめてくれ……
だから俺は、更に足を進めて居間の方へと向かった。どこを踏んでも足が濡れるくらいに、居間から台所までが水浸しになっているようだ。ちゃぷ、ちゃぷ、と音が出てしまうくらい。
やめてくれ
そうして、居間全体が見える位置に立った。今でもこうして、鮮明に夢に出てくるから……何度でも俺は、正確にその時の状況を説明できる。そこに父は、居なかった。あれほど恐れていた、かつては優しかった父……いつしか家から出なくなり、暴力を振るうようになった父は、そこに居なかった。それに母も居なかったし、姉も居なかった……誰もそこには居なかった。
やめてくれ!
テレビの光で、居間に散らばった人の身体が照らされていた。いくつかの部分に分かれて、居間中に無造作に転がっている……その中でも、一番手前にある塊が……最初は認識出来なかったが、画面が切り替わって色味の変わった光により、それが父の首である事がわかった。
「……あっ……う、あっ、……」
無意味な声が喉から勝手に絞り出される。足は自然と後退りしている。その時やっと、自分の履いている白い靴下が赤黒い色に染まっている事に気付く。もう、周りが全然見えていないし、音も自分の心臓の音が煩くて何も聴けていない。慌てて振り返って、
「あっ……!」
そこに、いた。そいつはずっと静かに、俺の後ろに立っていた。背は父よりは小さかったが、その他の誰よりも大きかった。暗がりでも解ったのは、身体が獣のように毛で覆われている事と、大きな口……そう、絵本で見た赤ずきんちゃんに出てくる狼のような、大きな口。そこから覗く白く大きな牙が、テレビの光を受けて反射している。
やめてくれ!!
声が出そうになったその瞬間に、俺の首はそいつの大きな手の片方だけで絞められていた。ミシ、ミシと音を立てて首に食い込む異様に大きな手指と、僅かに刺さる鋭い爪の切先。息が出来ない苦しさと、訳のわからない恐怖で何も考えられない。そいつはそのまま、片手で俺の首を掴んで姉ちゃんと俺の部屋へと引き摺っていき……片隅に丸まっていた布団へと無造作に俺を投げつけた。もんどり打って布団に倒れ込んだ俺に、そいつがゆっくりと近づいてくる。
やめろ!!
それから、そいつは……俺を、散々に……一晩中、何度も、何度も痛めつけた。今でも思い出せる、十年前の確かな記憶で……今も俺が夢に見させられる、悍ましい出来事だった。
拙作である「除隊」の続編になります。
※ この続編は前作を読まなくてもお楽しみいただけます。
※ 作者ページのリンク先で前作の半分を試し読みいただけます。




