第四話 リリカの決意
その後のことは確かではないが、黄昏橋で向日葵を持った少女は消えてしまった。俺は呆然としながら屋敷に帰る。
「――お帰りなさいませ、悠斗様」
相馬家には執事もメイドもいるが過剰な挨拶はしない。それがこの家の流儀だった。
「月城様は、現在冷蔵庫内にて紅茶を召し上がっています」
「そうか、ありがとう」
俺は制服のジャケットをメイドに預けそのまま自室へ向かう。一刻も早く会いたかった。
話したいことが山ほどあった。
――月城リリカ。
冷蔵庫の扉を開けるとひんやりとした空気が流れ出す。中には小さなテーブルと椅子。
リリカはその椅子に腰かけ、冷やした紅茶を優雅に口にしていた。
「ぶっ……御子さま。急に開けないでくださいと、何度言えば分かるのですか」
「ごめん。どうしても今日の出来事を、早く話したくて」
「……それで、どうされたのですか」
俺は一息ついてから話し始めた。
「まず坂口真福なんだけどさ。神霊部に誘われたんだ。でも活動内容もよく分からないし部活には入らないことにした。リリカとの時間のほうが大事だから」
一瞬、紅茶を飲んでいた彼女の手が止まる。
「坂口真福くん……ですか」
静かにしかしはっきりと告げる声。
「部活は学生生活の鏡ですわ。悠斗さま。私に構わずぜひ行くべきです。神霊部へ」
「いや、だるいしんどいめんどくさい」
リリカは黙った。聞いている、考えている――いや違う。もっと別の感情だ。
「それと、下校途中で向日葵を持った、不思議な少女がいたんだ。だけど俺には関係ないから帰ってきた」
それでも彼女は何も言わず、ただ俺を見つめ続けている。
「……リリカ?」
しばらくの沈黙のあと彼女は静かに口を開いた。
「悠斗さま。はっきり申し上げます」
胸の奥で嫌な音がした。
「学園生活を、私に会いたいからという理由で避けている悠斗さまが――私は、大嫌いです」
言葉が真っ直ぐ胸に突き刺さる。
「坂口真福くんの話も、今日の少女の話も……私はすべて聞きたいのです。悠斗さまの全てを」
唇を噛みしめながらリリカは続ける。
「あなたの学園生活がどれほど恵まれていて、どれほど羨ましいか……分かりますか?」
その視線は僕の目を逸らすなと離してくれない、逃げ場を与えない。
「もしその生活を大切にしないのなら――私は今からでも消えることができます」
喉が潰れる前に、無意識に唾を飲み込んだ。
「私はあなたの箱です。箱は主の人生を見守り最大限に応援する存在」
リリカは頬に涙を浮かべながら、それでも必死に言葉を紡ぐ。
「もし私が、あなたと同じように学園生活を楽しめるのなら……一緒に馬鹿で可笑しくて、悠斗さまとの時間をたくさん過ごしたいです」
そう言ってリリカは小さな体で正座し、深く頭を下げた。
「相馬悠斗さま。お願いがあります」
リリカが、震えている。
「私を……冷蔵庫から出してください」
「……できないよ、体調を崩す。命に関わる」
彼女は必死で、顔を上げる。
「それでもです。あなたのお嫁さんになるためにここから出てみたいのです。あなたの隣で、学園生活を送ってみたいのです」
俺は頷けなかった。
視界が滲み、頬を伝う水滴が止まらない。
「……リリカ、ごめん」
震える手で、冷蔵庫の扉に触れる。
「……ごめんね」
――――バタン。
扉が閉まる音がやけに大きく響いた。
はあ、はあ、と呼吸が乱れ俺はその場に崩れ落ちる。それは月城リリカの命を、確実に危険に晒す選択だったからだ。
――――扉が開いた。
ひんやりとした世界に、まぶしい光が差し込む。その向こうに立っていたのは、七歳くらいの男の子だった。
私の御子さま。相馬悠斗さま。
「おはよう、リリカ」
満面の笑顔で彼は言った。
「今日はね、真福くんとサッカーしてくるんだ」
「……はい、悠斗さま」
私は冷蔵庫の中で体育座りをしたまま首をかしげる。
「どこの公園に行かれるのですか?」
「うーん、近くの……たこ公園!」
「たこ……?」
聞き覚えのない、知らない言葉だった。
「たこって何ですか?」
「えっ。リリカ姫、たこ知らないの?」
「はい。もしそれが悠斗さまのお好きなものなら……どんなものか知りたいです」
悠斗は一瞬きょとんとして、それからぱっと笑った。
「わかった!じゃあ今日の夜本物を持ってくるね!」
「……本当に見られるのですか?」
思わず、身を乗り出してしまう。
「うん!いいよ、まかせて!」
悠斗は部屋の外に向かって声を張り上げた。
「メイドさん!すぐタコの手配を!サッカーが終わるまでに!」
「かしこまりました」
そう答えてメイドは廊下へと出ていく。
「では、真福さまがお見えのようです」
ぱたぱたと足音が遠ざかり、部屋には私と悠斗さまだけが残った。
悠斗は少しだけ曇った表情で、私を見る。
「……リリカも一緒に遊べたらいいのにね」
胸がきゅっと締めつけられる。
「私も、悠斗さまと、真福さまと一緒に遊びたいです」
その言葉を聞いた瞬間、悠斗の顔がぱっと明るくなった。悠斗さまは私のほうへ近づいてきた。
「じゃあさ。僕が一緒にいるから。こっちに来てみない?」
「……いいのですか、悠斗さま」
「うん!僕がついてるよ!」
そう言って悠斗は小さな手を差し出す。
私は、その手をぎゅっと、握った。
――そして冷蔵庫の外へ。
外の空気は重かった。
冷たくない温かい。
知らない匂いがする。
胸が、苦しい。
「はぁ……はぁ……」
息がうまく吸えない。
呼吸が追いつかない。
それでも私は悠斗さまと真福さまがボールを蹴る姿を見たくて、必死に立っていた。
けれど――
視界が、ぐらりと揺れる。
「……リリカ?」
次の瞬間、世界が暗くなった。
「リリカ!リリカ!!」
遠くで、悠斗の声が聞こえる。
「おい、メイド!誰か!早く救急室へ!!」
泣きそうな必死な声で私を呼んでいる。
「御子さま……月城さまを、外へ出されたのですか……」
その言葉を最後に、私の意識は途切れた。
――目を覚ましたのは、二週間後。
白い天井。カプセルのように密閉された、冷たい治療室。私はそのベッドの上で生きていた。
それから悠斗さまが私を「冷蔵庫」という箱から出すことはニ度となかった。
リリカを冷蔵庫から出すということは
この家を相馬家を裏切ることに等しい。
様々な医者にも相談したが研究が足りない。
それでも俺はずっと考えていた。
どうすれば月城リリカを安全に、身体に何の異常も残さず外へ出せるのか。
冷たくて狭くて小さな世界。彼女が生きるために必要な環境を。俺は何度も測り、調べ、書き留めた。温度湿度空気。
人として生きるにはあまりにも不自然な条件。
それでも――諦めきれなかった。




