傷跡と名を持たぬ影 後編
第6話・後編「傷跡と名を持たぬ影」
⸻
エンジンを止めた瞬間、やっと呼吸が戻った。
静岡サービスエリアの外れ、誰もいないトラック用スペースにW124を停める。
ヘッドライトを落とすと、闇が急に近づいてきた。
ボンネットから微かに焼けたオイルと鉄の匂いが上がっている。
フロントローターは真っ赤に焼け、冷えた夜気に「チチチチ…」と音を立てた。
負けた。
でも、ただの負けじゃない。
走りの世界に、正式に踏み込んだ最初の夜だった。
⸻
セイジのディアマンテが隣に止まる。
少し遅れて、BMW E46ツーリング――リョウが降りてくる。
「おいおい、ブレーキ終わってんぞそれ。」
リョウはフロントを覗き込み、苦笑した。
俺は答えない。呼吸は落ち着いてるのに、まだ胸の奥が熱い。
セイジはライターを鳴らし、タバコに火を付けた。
そして、灰を落としもしないまま言った。
「――怖かったろ。」
俺は少し黙ってから、正直に答えた。
「あぁ。怖かった。でも……楽しかった。」
セイジは初めて、満足そうな顔をした。
「それなら続けられる。」
「まだ何もできてねぇよ。クソみてぇに置いていかれた。」
「置いていかれただけなら上等だ。」
そう言って、セイジは続けた。
「本当にダメな走りは――何も掴めずに戻ってくる走りのことだ。」
その言葉に返すものが見つからなかった。
胸の奥に、静かに落ちていくものがあった。
⸻
二人でW124の前に立ち、エンジンルームを開ける。
オイルにじみ。劣化したホース。抜けかけたエンジンマウント。
ブローバイは多く、ATの冷却ラインは色が変色していた。
「このままじゃ次は持たねぇ。」
セイジが呟く。
だがその言い方には、どこか“先”を見据えた響きがあった。
「カイ。……本気で走る気があるなら聞く。」
セイジはタバコを見つめながら言った。
「――お前、なんで走る?」
簡単な問いだと思った。でも答えは出てこなかった。
金のためじゃない。承認が欲しいわけでもない。
ただ、走る理由が欲しい気持ちは確かにある。
だけど言語化できない。
言葉にすると、嘘になる。
俺は正直に答えた。
「――まだわからねぇ。でも知りたい。走ってるうちに、見つかる気がする。」
セイジは一度だけ笑った。
「なら十分だ。」
⸻
その瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。
Mina の名前。
画面を見た瞬間、現実が急に戻ってきた気がした。
夜の走りの熱とはまるで違う、日常の気配。
でも同時に、この世界とあの世界は――もう切り離せないことがわかる。
メッセージは短かった。
Mina: まだ起きてる? なんか今、眠れなくて。
ただそれだけなのに、胸のどこかが微かに揺れた。
俺は返信しようとして、指を止めた。
――油と鉄の匂いがついたこの手で、何を書けばいい?
悩んでいると、横からセイジが言った。
「お前の走りは、誰のためにあるんだ?」
「……まだわからねぇ。」
「じゃあ、それも走りながら探せ。」
俺は画面を見つめ、シンプルに返した。
俺: 大丈夫。俺も寝れねぇ。今はそれだけ。
送信。
夜はまだ終わらない。
⸻
そのとき、遠くでGT-Rのエンジン音が響いた気がして、振り返る。
しかし、そこには何もいない。
ただ、夜が深くなるだけだった。
――だが確信していた。
あの “影” はまた現れる。
そして次は、もっと深いところまで踏み込むことになる。
俺はW124のボンネットを静かに閉じた。
物語はもう止まらない。
第6話・後編 終
次回――
第7話「首都高リターン」
W124、最初の整備。
首都高湾岸――再会する“あの男”。
そして、走りの世界の“階段”を登っていく。
敗北の余韻ってなんか痺れますよね。それも成長できた敗北ならなおさら。正しく笑顔の敗北ですね!カイの顔が想像できますよ。きっとめっちゃニヤニヤしてます笑。




