限界の入口 中編
第6話・中編 ── 限界の入口
全開にする──その決断は、静かに、しかし決定的に俺の体を貫いた。
メーターの針が右へ寄るたびに、心臓の鼓動がアクセルの振動と同調する。W124の内装は冷えた金属と擦れた革の匂いが混ざり、フルバケが俺の身体をぎゅっと抑えつける。座面が痛い。だがそれが、逆に怖さを抑える手助けになっていた。
「踏め。」
セイジの声は無線越しに低く、確かだった。
その一言で、俺はATのレバーに力をこめ、右足をさらに沈めた。
ATは迷った。
古い722.4の電子制御は現代のクイックシフトとは違い、アクセル開度と回転の変化に一拍遅れて反応する。キックダウンが入るとき、トルクコンバーターが唸りを上げ、駆動が腰に伝わる。加速の理不尽な“谷”がそこにあって、そこを乗り越えた瞬間だけ車は確かな前へ進みを取り戻す。
140、160、180。
数字は単なる針の位置に過ぎないが、体感は数字より重い。フロントタイヤが吸いつく感覚と、リアがふわっと軽くなる瞬間とが交互に襲う。ステアリングの遊びが増えているのに気づく。カントのせいか、ヘタったラックのせいか、それとも単に速度域が高すぎるのか。ハンドルが少し遅れて返る。恐怖が、寒気と一緒に背筋を伝う。
コーナーが近づくたび、俺は目線を遠くに置いた。視線の先で路面が細くなり、縁石やパイロンの影が伸びる。ブレーキを踏む。ローターに力が入り、ペダルに伝わる反力は海面のように揺れた。ローターが微かに振れ、ジャダーが出る。ハンドルに伝わる振動を受け取りながら、俺は“踏む”ことに怯まずに耐えた。
曲がり始めた瞬間、リアが一度だけ抜けた。
ふわっと、後ろが滑る。体が軽く持って行かれる。心臓が喉に浮く。だがフルバケが身体を押さえつけ、左手でハンドルを殺して、右足で微妙にアクセルを戻す。クラシックな後輪のスライドは、制御の仕方を間違えれば一発で終わる。だけど、うまく処理できれば速度を保てる。俺は手探りでその感覚を掴もうとした。
向こう側では、R35のラインが早い。あいつはラインを一本で抜ける。ブレーキングポイントは早く、その分スロットルに戻る時間が長い。無駄がない。直線での伸びは、車の差で片付けられるが、差が出る部分は“つなぎ”のところだ。R35はつなぎで時間を稼いでいた。
追いつきたい。
追いつきたくない自分もいた。追いつきたいという衝動が、どこか暴力的で、でも純粋で、胸に刺さる。その矛盾を抱えたまま、俺はただ前だけを見ていた。
ディアマンテが横に並ぶ。セイジは少しだけ笑っているように見えた。だが目は冷たい。彼の表情からは、若い頃の痛みが消え去ってはいない。彼は“見届ける”という言葉の意味を、俺に身体で学ばせようとしているのだろう。
後方ミラー――そこに一瞬、R35のライトが写る。光の塊が流れる。次の瞬間、アイコンタクトのように、あのGT-Rの運転席から“薄い影”がこちらを覗き込むのを見た。言葉はなかった。だがその視線だけで、あいつがこちらを「認識した」ことが分かった。冷たい、計算された視線。人の顔を見たのではない、対象を測った“機械の瞳”だった。
瞬間、背中に寒気が走る。だが恐怖と同時に、わかりやすい昂りが生まれる。俺は小さく笑っていたのかもしれない。笑いは震える。
新東名の長い直線に入ると、R35は一気にスピードを伸ばした。ディアマンテのV6の唸りが追う。W124は必死でついて行く。ATがパタパタと変速を繰り返し、M104の回転が上がるたびに車体が後ろへ押されるような感覚が来る。速度の数字が跳ねる。だがR35は別の次元で伸びていった。
並走していた時の感覚に、俺はまだ浸っていた。だが次の瞬間、R35が音もなく前へ放たれ、視界が一瞬で変わる。後方に置いていかれる景色が、まるで現実のスライスを奪い取っていくようだった。
「ここで無理するな、カイ。」
セイジの無線は、初めて心配そうに聞こえた。だが俺は引かなかった。ノーマルの重さ、古いATのもどかしさ、劣化した足回りの不安定さ――すべてが“言い訳”に思えた。言い訳を重ねている暇があるなら、少しでも前へ。少しでもラインを短く。少しでもスロットルを我慢して立ち上がりを稼ぐ。小さな勝ちを一個ずつ積むしかない。
コーナーでまたリアが滑った。今回は大きめだ。バックミラーに映る光が一瞬揺れた。指先でハンドルを切り直し、体重移動を微妙に変えて、アクセルを戻したり入れたりする。自分の感覚が少しずつ変わっていくのを感じた。恐怖が、少しだけ落ち着きに変わる。
だが結局、結果は変わらない。
R35ははるか先へ行った。追いかけても追いかけても、その背中は遠く、小さく、無表情に消えていく。
ゴールラインのような場所で、R35はほんの一瞬だけ減速し、そのテールランプが消えかけた――だがすぐにまた全開で消えた。あの瞬間、運転席の薄い影がこっちを向いた気がした。まるで、言葉にならない承認を送られたような、不思議な感覚だった。認められたわけではない。むしろ、これから始まる“問い”を突きつけられたような視線だった。
W124は前に進んでいた。エンジンは熱を帯び、ATは悲鳴のように唸る。だが俺の胸の中は、敗北感と、それ以上に燃える炎で満ちていた。負けた。だが負けたような気がしない。それはただ、地図の一部が書き変わった瞬間だった。どこを直さねばならないか、何を覚えねばならないかが、手に取るように見えた。
セイジがやっと言った。
「負けはな。恥じゃねぇ。何もしなかったら恥だ。学べ。次は違う。」
その言葉を聞いたとき、俺は初めて自分が“走る理由”を探す旅に出たのだと実感した。理由はまだ形を成していない。だが、確実にそこにある。少しずつ荒れていく夜が、俺の前に道を引いていく。
目の前を走るのはただの車かもしれない。だけど――その影は、これから俺の生き方を問いただす相手になる。
深夜の新東名は、ただの道路に戻り始めていた。だが俺の中では、何かが変わっていた。ペダルの感触、ブレーキのリターン、フルバケがくれる無言の支持。全部が、自分の中の欠けたピースを埋める手触りになっていった。
敗北は、地図の最初の印だ。そこから先に進むための道標。
W124のハンドルを握りしめ、暗いモニターのような夜空を見上げる。Minaの着信のことも、家族のことも、未来のことも、全部がぼんやりと遠くにある。だが、今はただ前だ。アクセルを戻さない限り、道は続く。
――終わりじゃない。始まりだ。
まだまだ序盤ですね。フルバケットシート以外純正なら仕方ないです。ですが今回の走りでカイはW124の挙動を正確に知ったことでしょう。この後どんなカスタムチューニングをしていくのかワクワクしますね。
それともしばらくは純正のままかな?




