もう一つの湾岸
第4話 ──もう一つの湾岸
PAに戻ると、海風とオイルの匂いが混ざった空気が漂っていた。
街の眠った時間帯でも、ここだけはいつも醒めている。辰巳第一PA。
俺はまだこの場所の意味を知らなかったが、もう戻れなくなりつつあることだけは、なぜか直感していた。
「表に出ないレースって、どういう意味だ。」
俺が問いかけると、セイジはフェンダーにもたれたまま言った。
「首都高で走るやつは多い。でも大半は表面の世界だけで遊んでるだけだ。SNSにタイムを載せる馬鹿、煽り運転で捕まる奴、パワーだけで勝てると思ってる見栄っ張り──そういう連中が“表”だ。」
「じゃあ“裏”があるってことか。」
「ああ。」
セイジは煙草に火をつけなかった。代わりに無意識に指でフィルターを回している。迷いの仕草に近かった。
「裏のレースは、ネットにも雑誌にも出ない。動画も流れない。だが──確実に存在する。速い奴らだけの世界だ。」
「速さだけなら、チューニングカーが勝つんじゃないのか。」
「甘いな。裏の世界には“武器”だけを揃えた奴らが入れる世界じゃない。速さの意味を分かってる奴だけが入る。」
「どういうことだよ。」
セイジは言った。
「あいつの言葉を思い出せ。走る理由はあるか──ってな。」
脳裏にリョウの声が蘇る。
走る理由はあるか?
“なんとなく走ってる奴は消える”と、あのE46の男は言った。
あの言葉が、妙に胸の奥に残っていた。
「お前に“走る理由”があるなら、進め。なければ今ここで帰れ。二度と首都高に来るなとは言わないが──俺とは関わらない方がいい。」
「なんでそこまで言う。」
「……そのうち分かる。」
セイジが視線を湾岸の方へ向ける。
海の向こう、ベイブリッジをかすめる赤いランプが流星のように走っていた。
──そのときだ。
PAの入口に、静かに1台の車が入ってきた。
深い紺のツーリングワゴン。
BBS RI-A。抑えた車高。無駄が一切ない。
BMW E46 3シリーズ ツーリング。
リョウだった。
⸻
彼は車を停めると、俺たちを見る前に湾岸の夜景を一度見た。それから歩いてきて言った。
「来たか、カイ。」
「待ってたのか。」
「いや、来ると思っていた。」
リョウは俺のW124を見た。
「まだ完全に目覚めてはいないな。」
まるで機械じゃなく、“人間を見るような視線”だった。
「……走る理由を見つけた車は速くなる、だったか。」
「覚えていたか。」
「で、お前は何者なんだ?何が目的だ。」
リョウは少しだけ笑った。だけど目は笑っていなかった。
「いるんだよ。夜に取り残された人間ってのが。」
「は?」
「夢を諦めたやつ。行き場を失ったやつ。人生を見失ったやつ。未来なんて言葉を信じなくなったやつ。そして──それでも生きてるやつ。」
彼は静かに言い切った。
「そういうやつは、必ずどこかで“走り出す”。表か裏かは違うが、俺はそういう連中を何度も見てきた。だから分かる。お前もその一人だ。」
否定できなかった。
俺は、気づけば拳を握っていた。
走る理由──そんなもの、まだ分かっていない。だが、自分のどこかが静かに疼いているのを感じた。
「問うぞ、カイ。」
リョウが一歩近づく。
「お前はこの先へ進むか?」
夜風が吹いた。誰も喋らない。
湾岸線を走る車の音だけが遠くで鳴っている。
俺は答えた。
「──進む。」
そう言った瞬間、セイジの表情が僅かに緩んだのを見た。
リョウはうなずいた。そして言った。
「歓迎する。ここから先は軽い気持ちじゃいられない。いいか──湾岸の裏にはルールが一つだけある。」
そして、静かに告げた。
「命以外は賭けろ。」
その言葉が、深く突き刺さった。
第4話・終
次回――第5話「灰色の過去」
(セイジの過去、そして“走る理由”の意味が見え始める回)
続きが気になる〜!




