「綾瀬の言葉」後編2
第8話・後編《後編》
「綾瀬の言葉」
東扇島の倉庫地帯。
エンジンを止めると、鼓膜に残っていた回転音がゆっくり消えていく。
静寂が戻ると、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえた。
ヘッドライトの先、綾瀬のFDがゆっくり戻ってくる。
ドアを閉める音すら、夜の空気に吸い込まれていった。
「言っとくが、今のは勝負じゃない。」
綾瀬が歩きながら言った。
声はいつもみたいに冷静で、でもどこか熱い。
「お前はまだ、“怖さ”で走ってる。
恐怖をごまかしてアクセル踏んでるだけじゃ、湾岸じゃ死ぬ。」
俺は言い返せなかった。
さっきのスリップは偶然じゃない。
腕でも車でもなく、“覚悟”が足りなかった。
綾瀬は続ける。
「走る奴には三種類いる。
逃げるために走る奴。
証明するために走る奴。
そして――辿り着くために走る奴。」
「お前はまだ、一番上だ。」
逃げるために走る奴。
言葉が刺さる。
頭では否定したいのに、心が否定してくれない。
綾瀬はFDのボンネットに手を置いた。
「俺はさ、昔――事故で全部なくした。
仲間も、車も、走る意味も。
でもそれでも走るのをやめなかった。
……じゃなきゃ“生きてる実感”が消えたままだったからだ。」
湾岸の風が吹き抜けた。
綾瀬の声は、どこか遠くの出来事を語るようだった。
「お前のW124。
あれはまだ“老いぼれのベンツ”じゃない。
――あれは走る理由を待ってる車だ。
俺はそういう車が好きなんだよ。」
そう言って、綾瀬はキーを取り出して俺に投げてきた。
手に吸い付くように落ちてきた金属の重み。
「次に走るときは、理由を持って来い。
“勝ちたい”でも、“負けたくない”でも、“誰かを思い出すため”でもいい。
理由のないアクセルは、ただの暴走だ。」
そして最後に、静かに笑った。
「……お前、まだ伸びる。
湾岸で『ベンツで来た奴がいる』って噂になったら、それは多分お前だ。」
FDのエンジンが再び火を噴く。
ロータリー特有の脈動が、夜を切り裂くように響く。
「次は“走りたい側”として来い。」
それだけ言って、綾瀬は走り去った。
残されたのは、冷え始めたW124と、まだ震えている自分の指先。
でも、さっきまでとは違った。
(……走りたい。)
初めて、自分の中でその言葉が自然に浮かんだ。
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