湾岸初陣 – Ignition – 後編1
第8話・後編《前編》
湾岸初陣 – Ignition –
辰巳から東扇島までの短いストレート。
静まり返った夜の湾岸に、二台の車が並んだ。
ガードレールの向こうに光る東京湾の水面が、風で細かく揺れる。
FDのボンネットからは低く乾いた息のような排気が洩れ、
W124の直6は重く静かに脈を打っていた。
同じ“エンジンが生きている”音でも、質がまるで違う。
綾瀬は軽くハンドルを握り、ただ視線を前に固定する。
「湾岸は広く見えて、逃げ場がない。走る奴は皆、ここで自分の影を見る」
信号が青に変わる。
二台の車が、ほぼ同時に動いた。
一瞬、W124の後輪が滑り、ボディが震える。
トラクションが掴めた瞬間、重い車体が前へ飛び出した。
アクセルの下から感じる振動が、今までとはまるで違う。
シフトアップのたびに、鉄の塊が本気で怒っているような音を立てる。
サイドミラーの奥で、FDのヘッドライトが消えたり現れたりする。
ただの距離の問題じゃない。
綾瀬の車は“揺らいでいる”。
わずかなステアリング操作で、風を切る角度まで制御している。
湾岸線へ合流。
速度はすぐに三桁を超えた。
空気の抵抗が車体を押し潰し、
W124のフロントがわずかに上下に揺れる。
――サスが負けている。
頭では分かっていた欠点が、ここで現実として襲いかかる。
それでもアクセルを戻さない。
戻した瞬間、全てが終わると分かっているからだ。
次のコーナー、カーブの先にライトの軌跡。
綾瀬のFDがアウトから一瞬で並んだ。
すれ違う空気が震え、ロータリーの甲高い音が重なる。
「怖いか?」
無線の向こうで、綾瀬の声が一瞬だけ笑った。
その余裕に、俺は何かが切れたようにアクセルを踏み込む。
――次の瞬間、世界が傾いた。
湾岸の外壁が近づく。
タイヤが悲鳴を上げ、ステアリングが軽くなる。
車が滑り出した。
頭の中で、時間が一瞬止まった。
(終わるのか――)
でも、次の瞬間、身体が勝手に動いた。
カウンターを当て、アクセルを少しだけ抜く。
W124が、わずかに、角度を戻す。
鉄と空気の間でバランスを取り戻す。
滑走音が静まり、再び加速が始まった。
綾瀬のFDが、前方でスロットルを抜いた。
ライトが赤く点灯し、俺のW124の前に滑り込む。
まるで「ここまで」と合図するように。
東扇島のランプに入るとき、綾瀬のFDが並走した。
互いのヘッドライトが交わり、短い沈黙が流れた。
「……悪くないな。」
それだけ言って、FDは夜の海沿いに消えていった。
湾岸の風が、冷たく車内に流れ込んでくる。
汗が首筋を伝い、息が白く滲んだ。
(俺は、まだ生きてる。)
そして心の奥で小さく思った。
――この道の先に、自分の答えがある気がした。




