第五話 剣と糸の天秤
【公都アースガルズ、王宮殿ディルズ】
陽光が、高窓から柔らかく降り注ぎ、王宮の広間を冷たくも荘厳に彩っていた。
玉座に座す公王アンドリック・フェルディナンド・ヴァンロイは、深い沈黙を纏い、鋭い眼差しで家臣たちを見渡した。
その視線は、各人の心に潜む思惑を見透かすかのようであった。
玉座へと続く大理石の「王の道」を隔て、多くの当主が左右に整然と並ぶ。
一方はリーティル侯爵とその右腕ケイルトゥン伯爵を筆頭とする文官派――緋色の外套に身を包む彼らは、知謀を武器に国政を担う。
他方はミキルヴァルド公爵とその右腕トルガルム伯爵を中心とする武官派――鍛え抜かれた体躯は戦場の記憶を宿す。
両派の間に漂う緊張は、嵐の前の静けさのようだった。
剣聖と謳われるスペンサー男爵は、ミキルヴァルド派の最後列に静かに佇む。
かつて国境の戦で単身敵軍を退けた彼の姿は、剣を手にせずとも広間を圧する威厳を放ち、リーティル侯爵とケイルトゥン伯爵の長年の政敵であった。
国家の命運を懸けた議論のさなか、公王の声が静寂を切り裂いた。
「北の強国、スペルビア帝国の皇太子ラグナより書簡が届いた。スペンサー男爵の嫡男ラディクスを人質として差し出せば、ヴェスタズ鉱山への侵攻を控えるという。諸卿、意見を述べよ。」
その言葉は、凍てつく風が広間を駆け抜けたかのように、貴族たちの心をざわつかせた。
ざわめきがさざ波のように広がり、互いの視線が火花を散らす。
【知謀と怨念の火花】
リーティル侯爵が優雅に王の道を進み出た。
金色の髪が燭光を弾き、微笑には氷のような冷ややかさと炎のような野心が宿る。
「陛下、十年前の戦は国境を血で染め、民の嘆きを呼びました。一人の命で戦を回避できるなら、それは賢明な代償。ラディクス殿を差し出すことで、和平の時を稼ぎ、国の備えを固めるのが最善かと存じます。」
その声は滑らかで、底知れぬ計算を秘めていた。
リーティル派の文官たちが即座に賛同の声を上げた。
その中心に立つケイルトゥン伯爵は、病弱な体を緋色の外套で隠し、鋭い眼差しでスペンサー男爵を睨みつける。
かつて剣聖の気迫に圧され、議場で言葉を失い恐怖に震えた屈辱を、彼は今なお忘れていなかった。
「戦争は国を疲弊させます、陛下。ラディクス殿の家名は敵を牽制する盾となりましょう。名門の犠牲は、国の礎を固めるのです!」
ケイルトゥンの声には冷静さを装いつつ、スペンサー男爵への敵意が滲む。
彼にとって、剣聖の嫡子を差し出す提案は、国のためだけでなく、個人的な復讐の機会でもあった。
「血を流さず未来を守るのが知者の務め。剣に頼る者に、それが分かるとは思えませんが。」
ケイルトゥンの言葉は、スペンサー男爵を挑発する刃のように鋭く、広間に冷たい笑いを誘った。
その時、ミキルヴァルド公爵が重々しく進み出た。
戦場で鍛えられた巨躯は、広間の空気を一変させ、歴戦の気配が貴族たちの心を震わせた。
「陛下、断じて屈してはなりません! スペルビアの甘言は、毒を塗った刃に過ぎぬ! ラディクス殿は剣聖の嫡子、王国の武の要! 彼を差し出せば、国境を守る剣を自ら折るに等しい! 敵は我々の弱腰を見て、さらなる恫喝を重ねましょう!」
その声は雷鳴の如く響き、ミキルヴァルド派の将軍たちが力強く応じた。
「書斎の和平が国境を守った例など、歴史に存在せぬ!」
「剣を捨てた国に、民を守る力は残らぬ!」
彼らの体は鉄の如く鍛えられ、誇りは剣の刃のように鋭い。
ケイルトゥン伯爵が唇を歪め、声を上げた。
「我々は血を避けよと申している! 武官の方々は、戦がなければ国が成り立たぬとでも? 剣聖の名に溺れる者に、民の苦しみなど分かるまい!」
その言葉に、スペンサー男爵の目が一瞬鋭く光った。
ケイルトゥンの怨念は、かつての屈辱を呼び起こし、彼の声を震わせていた。
ミキルヴァルド派の若き将軍トルガルム伯爵が低く笑う。
「剣を恐れ、膝を屈した国が、いかにして民を守るのか、その術を伺いたいだけだ!」
言葉の応酬は、刃が交錯するように広間を切り裂いた。
両派の視線は火花を散らし、信念と怨念が空気を灼いた。
そのただ中、動かず立つ者がいた。スペンサー男爵だ。
その眼差しは剣よりも鋭く、沈黙そのものが刃と化していた。
ケイルトゥンの挑発にも、彼は一言も発せず、ただ静かに広間を見据えた。
【剣聖の静かな刃】
公王は玉座に身を預けたまま、静かに身じろぎし、重々しく沈黙を鎮めるように口を開かれた。
「スペンサー男爵は我が国の剣の柱。その嫡子となれば、敵にとって価値ある駒であろう。されど、彼を手放すことは、我が力を自ら削ぐに等しい。――男爵、当人の意見を伺おう。」
静寂の帳の中、スペンサー男爵は悠然と一歩を刻んだ。
三十代にして壮年の絶頂を迎えた彼の動きには、燃え盛る力と抑制された熱が漲っていた。
肉体は鍛錬の果てに磨かれ、精神は鋼のごとく揺るぎない。
老いの影など微塵も見えず、彼の威圧と気迫に、場の空気さえ凍りつく。
王国評議会の貴族たちは声を飲み、ただその一言を待ちわびた。
その間、ケイルトゥン伯爵の視線は憤怒と屈辱を滲ませ、鋭く男爵を刺し貫いていた。
「陛下。侯爵殿や伯爵殿の言葉は、耳に柔らかく響きます。和平は確かに民に安堵をもたらす道でしょう。ですが、スペルビアの真意は、書簡の裏に潜んでおります。
我が子ラディクスは未熟ながら剣を選んだ者。命を民の盾として捧げる覚悟は、彼にも、そして私にもございます。
しかし、その覚悟と、無分別に差し出すことは別物。敵の心を見極めず応じるのは、剣聖の名に泥を塗る所業。
陛下、まずは敵の意図を明かす策を講じるべきと存じます。」
その言葉は、静かな刃のように広間の空気を切り裂いた。
ケイルトゥン伯爵はわずかに顔を歪め、唇を噛んだ。
病の影を残す体が震え、かつての屈辱の記憶がよみがえる。
スペンサー男爵の口調は冷ややかで、伯爵の策略を見透かすようであった。
リーティル侯爵は細めた眼差しの奥で何かを測りつつ、言葉を控えた。
一方、ミキルヴァルド公爵は微かに頷き、その背後の将軍たちには低いうなり声が広がる。
「陛下、以前お伝えした計画が、いよいよ完成の間近でございます。」
スペンサー男爵はケイルトゥン伯爵を一瞥し、控えめな微笑を浮かべた。
伯爵の膝がかすかに震えている。
「……男爵、その計画とは何か。」
ケイルトゥン伯爵は堪えきれぬ声を上げた。
「――ヴェスタズの秘宝とでも、申し上げておきましょうか。」
スペンサー男爵は不敵な微笑を浮かべる。
「ヴェスタズの秘宝、とな。噂には聞いておりましたが、それが実在するのか? しかも、卿のご息女が大陸の若武者たちが集う『聖戦武門会』でその力を示したとでも?」
リーティル侯爵は、昨年の出来事を引き合いに出した。
それは、大陸の七国家と四傭兵国、そして特別招待の武人たちが一堂に会し、トーナメントで最強を決める祭典だ。
昨年、二十歳以下の部で、スペンサー男爵の令嬢マーレが圧倒的な剣技で優勝。
獣人や傭兵たちを打ち倒し、ヴェスタズの神聖な力を宿すとされる「聖女」の名を大陸に轟かせた。
マーレの勝利と秘宝の存在を匂わせる男爵の言葉に、リーティル派の文官たちは一様に言葉を失った。
彼らの和平の策略が揺さぶられたのだ。
対して、ミキルヴァルド公爵の背後に控える武人たちは、彼女の偉業に触発され、静かな熱気を帯びて今にも飛び上がりそうだった。
――議場の空気は再び静まり返り、誰もが次の一手を測っている。
だが、決定的な言葉は放たれず、冷たい策謀の霧だけが濃く広がっていった。
【忍び寄る陰謀の影】
公王は玉座に身を預け、深い吐息をついた。
その眼差しは、国の未来を背負う重みを映していた。
「諸卿の言葉には、それぞれ理がある。リーティル侯爵とケイルトゥン伯爵は和平を、ミキルヴァルド公爵は誇りを、スペンサー卿は慎重を説いた。だが、国を導くのは時に理を超えるもの。三日後、再び集い、国の道を定めよう。誇りを取るか、和平を取るか、あるいは新たな道を切り開くか。」
その言葉で会議は閉じられた。
リーティル派とミキルヴァルド派は互いに鋭い視線を交わしたが、勝敗は決まらなかった。
ケイルトゥン伯爵は、スペンサー男爵を一瞥し、冷たく微笑んだまま広間を後にした。
高窓から吹き込む風が、ヴェスタズの雪嶺を思わせる冷たさで広間を満たした。
だが、その風の中に、誰も気づかぬ気配があった。
スペンサー男爵の外套の裾に絡まる一本の赤い糸――まるでスペルビア帝国の血の紋章を思わせる深紅の色は、来るべき嵐の前触れか、あるいは別の陰謀の兆しか。
広間の片隅で、リーティル侯爵の従者が一瞬だけ目を光らせた。
その視線は、赤い糸とスペンサー男爵に注がれ、すぐに消えた。
さらに、ケイルトゥン伯爵の影に寄り添う一人の侍女が、誰も気づかぬうちに小さな紙片を懐に隠した。
その紙片には、スペルビアの印章が薄く浮かんでいた――。
【あとがき】
初めて本作をお手に取ってくださった方、いつも応援してくださる方、ご一読ありがとうございます。
『剣と糸の天秤』――この物語の第一幕では、王宮の大広間を舞台に、剣聖スペンサー男爵の静かな威厳、リーティル侯爵の冷徹な知謀、ケイルトゥン伯爵の秘めた怨念、そしてマーレの鮮烈な活躍が交錯しました。
文官と武官の火花散る対立、スペルビア帝国の不穏な影、そしてヴェスタズの秘宝の謎――広間の静寂に響く言葉の一つひとつが、時代の歯車を動かし始めています。
この物語は、誇りと策略、信念と犠牲の間で揺れる人間たちの葛藤を描く試みです。スペンサー男爵の抑制された熱は、剣士としての矜持と父としての覚悟を映し、ケイルトゥン伯爵の震える視線には、過去の屈辱と知謀家の野心が宿ります。
そして、マーレの「ヴェスタズの聖女」という名は、単なる栄光ではなく、大きな運命の始まりを予感させます。赤い糸やスペルビアの印章が示す陰謀の気配は、これから広がる物語のほんの一端に過ぎません。
本作を通じて、読者の皆様に「誇りとは何か」「策略の先に何があるのか」を感じていただければ、作者としてこれ以上の喜びはありません。スペンサー男爵の静かな刃に心を奪われた方、ケイルトゥンの複雑な感情に共感した方、ぜひその思いを聞かせてください。
皆様の感想やご意見は、私の筆を進める大きな励みとなります。
次回は、ラディクスの運命を左右する大事件が起こります。ラディクスとマーレが、迫りくる嵐の中でどんな選択をするのか。フレイダは蛇を克服できるのか――どうぞご期待ください。
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