第四話 聖女の祈りと獣の影
【霧に響く予感】
ヴェスタズ鉱山町の広場は、霧に薄絹をまとったように静かだった。
ガス灯が淡い光を揺らし、石畳に散った花びらがそよ風に舞う。
朝の清涼な空気の中、白髪を高く結い上げた女性が佇んでいた。
マーレ・ブライトモア・スペンサー、十九歳、男爵家の娘にして「ヴェスタズの聖女」と称される女性である。
青い瞳には弟への愛と穏やかな光が宿り、胸元の星型ペンダントが霧に映えてきらめく。
彼女は広場の中心、女神ヴィーナス像の前で静かに跪き、祈りをささげていた。
昨夜、女神ヴィーナスが夢に現れ、「獣人王の誕生」と「帝国の影」が試練となると告げたのだ。
マーレの心は、聖騎士団の秘められた情報と弟を守る決意で揺れていた。
ペンダントを握る手が一瞬震えたが、彼女は静かに息を吐き、霧のように穏やかな微笑みを浮かべた。
「ラディクス……どんな試練も、心の灯を絶やさなければ、きっと越えられるわ。」
その声は、春の泉のように清らかで、広場の静寂を優しく撫でた。
そこへ、軽やかな足音が響く。
細身の少年、ラディクス・ブライトモア・スペンサー、十五歳、マーレの弟にして男爵家の嫡男。
短く乱れた白髪が朝風に揺れ、黄金の瞳に鋭い決意と姉への信頼が宿る。
簡素な外套の胸元には、マーレとお揃いの星型ペンダントが光っていた。
「姉上、朝から祈りとは殊勝だな。だが、試練だの何だの、何か隠してるんじゃないか?」
ラディクスの声は軽妙だが、鋭い視線はマーレの手の震えを見逃さなかった。
世界を変える理想を抱く彼にとって、姉の曖昧な言葉は気になる種だった。
マーレは目を細め、柔らかく微笑んだ。
「ラディクス、女性の胸の内を急かすのは感心しないわ。
スペルビア帝国の動きが気になるなら、聖騎士団の情報網を信じて。
あなたが無闇に心配しないよう、私が見守るわ。」
言葉は霧のように真実を包み、弟への深い愛と安心させたい願いが滲む。
彼女の声は、まるで春の木漏れ日のように温かかった。
【慈愛の光】
その時、石畳に小さなつまずきの音が響いた。
「痛っ……膝、擦りむいちゃった……」
幼い少女が涙声で呟き、地面に座り込んだ。
マーレは祈りを中断し、少女のそばにそっと膝をついた。
青い瞳は穏やかで、まるで湖面のように少女の心を包み込んだ。
「大丈夫よ。少し痛むかもしれないけど、笑顔はどんな傷も癒す力があるわ。」
マーレは少女の手を取り、傷を優しく拭った。
指先は花びらを扱うように繊細だった。
彼女は静かに詠唱を始め、足元に聖なる光の円が広がる。
「癒しの祈り。」
光が少女の膝に収束し、一瞬輝いた。
傷は跡形もなく消え、少女は涙を拭い、はにかむように笑った。
マーレは自らのドレスから小さな花の髪飾りを外し、少女の髪にそっとつけた。
「これをあなたに。きっと、もっと素敵な笑顔になるわ。」
「ほんと? ありがとう、マーレ様! みんな、マーレ様が一番優しいって言ってるよ!」
少女は目を輝かせ、弾けるような笑顔で駆け去った。
広場の霧が、彼女の笑顔で一瞬晴れたようだった。
ラディクスは胸に温かな熱を感じ、呟いた。
「姉上はいつもこうだ。誰にでも家族のように接する。まったく、敵わないよ。」
その声には尊敬と、弟らしい照れが混じる。
マーレは振り返り、柔らかな眼差しで弟を見つめた。
「優しさは、誰かを守る力なのよ。ラディクス、あなたの理想も、きっと誰かを想う心から生まれるわ。」
彼女の言葉は霧を貫く陽光のように温かく、自身の不安をそっと癒した。
だが、ラディクスの黄金の瞳は、姉の微笑みの裏に隠された憂いを捉えていた。
「姉上、聖騎士団はスペルビア帝国の何を掴んでいる? ただの噂じゃないだろう?」
彼の声は鋭いが、姉を気遣う柔らかさが底にあった。
マーレは一瞬目を伏せ、静かに微笑んだ。
「情報は霧のように曖昧なものよ。ラディクス、焦らずに。私がそばにいるわ。」
言葉は優しく、しかし真実を巧みに隠すマーレらしい知性があった。
【帝国の影と熱き心】
広場の空気が変わった。
深紅のライディング・ハビッドを翻し、黒髪に花飾りを揺らす少女が現れる。
フレイダ・セントクレア・ペンブルック、十五歳、騎士爵家の娘。
青い瞳に希望と微かな対抗心が宿り、彼女は胸を張って二人に近づいた。
「お茶会で聞いたわ! スペルビア帝国が奴隷に呪術の首輪をつけ、町で武器を急造してるって!
なんて野蛮な連中かしら、まったく!」
フレイダの声は明るいが、底に不安とマーレへの対抗心が揺れる。
彼女は弓を手に、高らかに宣言した。
「ラディクス、あたし、その闇をこの弓で射抜いてみせるわ!
帝国も獣人王も、まとめて始末してやる!」
マーレは穏やかに微笑み、フレイダを見つめた。
「フレイダ、あなたの情熱は素晴らしいわ。
でも、弓を射る前に、敵の心を知ることが大切よ。
帝国の行動には、きっと深い理由があるわ。」
言葉はフレイダの無鉄砲さを諭しつつ、彼女の努力を認める温かさに満ちていた。
マーレの思慮深い共感が、声に宿る。
ラディクスはペンダントを握り、皮肉な笑みを浮かべた。
「フレイダ、君の弓が帝国を射抜くなら、俺の剣は世界を切り開くさ。
だが、呪術の首輪に武器の急造……帝国にいる獣人王が何かを始めようとしているのだろうか?
姉上、聖騎士団の記録に何かあるか?」
彼の言葉は軽快だが、鋭い知性が帝国の動きを分析する。
フレイダは髪飾りを弄び、頬を桜色に染めた。
「ふん、帝国の野蛮人がヴェスタズに何をしようと
あたしの弓で華麗に成敗してやる!」
彼女の高飛車な物言いに、マーレは微笑み、ラディクスは肩をすくめた。
マーレはペンダントをなぞり、静かに頷いた。
「聖騎士団の古い書物に、呪術の首輪の記述があるわ。
スペルビア帝国が奴隷を操る魔術……それは、獣人王の魔力と似た波動を持つもの。
最近の霧の濃さや森のざわつきも、その影響かもしれないわね。」
彼女の声は穏やかだが、思慮深い考察が聖女の知性を光らせる。
内心、スペルビア帝国とエンドヴァル公王の繋がりに不安を抱きつつ、それを二人に悟らせまいと微笑んだ。
【試練の幕開け】
そのような話を三人でしていると、穏やかな雰囲気を破壊するように、
女性兵が広場に駆け込んできた。
「ラディクス様、マーレ様! 鉱山町の外れに不審な影を目撃いたしました。奴隷の首輪を装着した、狐と狼の兵士たちでございます!」
切迫した声に、エンドヴァルに獣人の軍属が存在しない事実が不気味な重みを添える。
「聖騎士団詰所に報告してまいります!」
彼女はそう言い残し、駆け去った。
ラディクスは大剣の柄に手をかけた。
「スペルビアの刺客か。動き出したな。」
マーレは唇を引き結び、小さく頷いた。
「早すぎるわ。こちらの布陣を察しているなら、警戒が必要ね。」
フレイダは弓を握り、一歩前に出た。
瞳に怒りの色が宿る。
「絶対あいつらよね!あたしも行く。あの狐の薄ら寒い笑い声……許せないわ。」
三人が町外れの森へ向かうと、霧の奥からくぐもった笑い声が聞こえた。
狐の獣人、リーフが姿を現す。
乱れた金髪に貴族の残り香を宿す立ち居振る舞い。
緑の瞳には野心と哀愁が交錯し、首の呪術の首輪が奴隷の過去を物語る。
指には黒い紋章の指輪が光る。
「チッ、見つかっちまったか。女神の使いども……また貴様らか。まるで悪縁だな」
リーフは舞台役者じみた調子で笑った。
その背後に、狼の獣人ゲヴァが現れる。
逞しい体に灰色の髪、氷のような青い瞳。
牙の首飾りが揺れ、戦士の誇りと過去への諦めが漂う。
「動くな、人間。俺はゲヴァ。……今度は、そう簡単に引かねぇ。」
低く唸る声に、森の空気が緊迫した。
リーフが手を上げると、茂みから二十人の斥候が現れ、刃を抜いて三人を取り囲む。
フレイダは弓を構え、ラディクスの隣に立つ。
目は敵に向いているが、声は彼に投げかけた。
「あたしは前とは違う。今度は逃がさない――絶対に許さないんだからね!」
ラディクスは大剣を構え、名乗りを上げた。
「我が名はラディクス・ブライトモア・スペンサー、剣聖シグルズの子。
奴隷であろうと、剣を取るなら堂々と立て!」
星型ペンダントが光を反射し、声は霧の森に響く。
リーフは口元を歪めた。
「剣聖のガキとはな。なるほど、名を上げる好機だな。」
ゲヴァは首飾りに手をかけ、低く呟く。
「剣聖の息子か。どうりで異様に強かったわけだ。」
霧が濃くなり、遠くのガス灯が揺れて見えた。
だがその瞬間、リーフが口角を上げ、木の陰から何かを取り出し、フレイダに向かって投げつけた。
「ほらよ、お嬢ちゃん!」
それは、漆黒の蛇だった。
【剣と心の試練】
「――きゃあっ!」
フレイダの悲鳴が森に響き、蛇の鱗が陽光にきらめく。
裂けた舌が空を舐めるように蠢いた。
フレイダは弓を握りしめ、後方へ跳んだ。
ラディクスは大剣を構え、一歩前に出る。
「落ち着け、フレイダ! 敵は蛇ではない。」
リーフの哄笑が茂みから響く。
「ははっ、効いたな! 貴族のお嬢さん、蛇一匹で足がすくむとは。
雷でも落ちたかと思ったぜ!」
フレイダの頬が紅潮し、怒りに拳を握る。
だが、ラディクスは動じず、リーフを見据えた。
大剣が鈍い光を放つ。
「名を名乗ったな。リーフ、その舌、切り落とす前に覚えておけ。」
リーフは涼しい顔で背を向け、片手を振った。
「泣き虫一行、覚えときな。次に会うときは、まともな剣を用意しろよ?」
「……許さない。その嘲り、絶対後悔させてやる!」
フレイダが叫ぶが、ラディクスは彼女の肩を押さえた。
「フレイダ、怒りに飲まれるな。奴の狙いはそれだ。」
フレイダはラディクスの手を振り払い、弓を構え直す。
瞳には怒りと屈辱が燃える。
「触らないで! あたしは哀れまれるほど弱くないわ! あの狐の薄ら笑い、叩き潰す!」
マーレが静かに口を開いた。
「フレイダ、怒りは視野を狭くするわ。心を落ち着けて、敵の意図を見極めて。」
ラディクスは頷き、霧の奥へ視線を向けた。
「姉上の言う通りだ。俺が先に行く。」
彼は大剣を握り、動かぬ山のように佇む。
低く呟いた。
「貴族の誇りとは、剣で勝つことではない。己の激情に屈せぬことだ。」
だが、怒りで頰が真っ赤に染まったフレイダは言葉を聞かず、絶叫と共に霧の奥へ突進する。
「生きて帰れると思うなっ!」
「フレイダ、待ちなさい!」
マーレが叫ぶが、ラディクスは無言で大剣を構え、彼女を追った。
霧を裂く背中は揺るぎない決意を湛えていた。
マーレはペンダントを握り、静かに呟いた。
「女神ヴィーナスよ……彼らの心を導いて。」
霧深き森に、試練という名の鐘が静かに鳴り響いた。
【スペルビア帝国、黒曜宮殿】
スペルビア帝国、黒曜宮の北塔——
重病に臥せる皇帝の寝所を見下ろす控えの間で、銀盆の上に置かれた一匙の毒が冷たく光を反射していた。
「ヴェスタズ鉱山を制せば、我らは剣と銃を無尽に鍛え、大陸で戦の形を変えられる。
その価値は金銀よりも重い」
皇太子ルグナ・セバスティアン・ヴァルハイムは、部屋の冷気を友とするかのように、静かに呟いた。
「だが、あの鉱山の前には、スペンサー男爵が控えておりますな。忠誠よりも理念に生きる男です。実に厄介だ」
ドゥックル男爵が眼を細める。声は乾いた氷のように冷え切っていた。
「父を殺すよりも、人質を取る方が、帝国の名にふさわしい。
——ラディクス・ブライトモア・スペンサーを“保護”せよ。公的には名誉ある客人、実質は緩やかな檻に囚われた小鹿だ」
「かしこまりました。エンドヴァルの諸侯に睨みを利かせるには、彼の存在が最適ですな。父を揺さぶるには、子から落とす」
ルグナは微笑んだ。だがその目は、まるで既に死者を見ているかのようだった。
「始めよ。鉄は熱いうちに打て。今こそ帝国の血が脈打つ時だ。余が帝国を偉大な国にする第一歩だ」
【あとがき】
初めてお読みくださった方も、いつも応援くださる方も、ご訪問ありがとうございます。
『聖女の祈りと獣の影』第一章では、春の霧に包まれた辺境の鉱山村を舞台に、姉マーレの祈りと、弟ラディクスの静かな剣の矜持、そしてフレイダの眩しいまでの情熱が交錯いたしました。
ささやかな日常のなかにも、血脈の誇りと青春の葛藤が静かに脈打っていたことに、気づいていただけたなら幸いです。
しかし、その穏やかな霧の奥では、すでに時代の歯車が音を立てて動き出しております。
スペルビア帝国――その玉座の影に蠢くのは、病に臥す皇帝と、その不在の隙を突いて動く皇太子ルグナ。彼の手は冷たく、語る言葉は威厳に満ちていても、そこにあるのは揺るぎなき支配の意志です。
ラディクスの名も、既に帝都の書簡に記されております。若き志が、大国の策略とどう向き合うのか――。
本作は、志と愛、誇りと策略、そして何より〈深淵に立たされたとき人は何を選ぶのか〉という問いを、これから描いてゆく物語です。
今後も、感想やご意見をいただけますと、大変励みになります。
とりわけ、フレイダの真っ直ぐな情熱に共鳴してくださる方がいれば、作者としてこれ以上の喜びはございません。
それでは、次回も霧の向こうでお会いできますように。
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