第三章:自己との対話
高校入学を前に、暁は大きな決断をした。実家から離れた高校に進学することを選んだのだ。
「でも、どうして?」
母の問いかけに、暁は準備していた答えを返した。
「あの高校の方が、大学進学に有利だから」
それは表向きの理由。本当は、誰も自分を知らない場所で、少しでも自分らしく生きたかった。
新しい高校では、できるだけ中性的な印象を心がけた。制服のスカートは規定の長さより少しだけ長めに。ブレザーは少しゆとりのあるサイズを選んで、体のラインを隠す。化粧も最小限に。
「暁さんって、クール」
「カッコいいよね」
クラスメイトたちの評価に、暁は複雑な思いを抱いた。その言葉は嬉しかったけれど、同時に「女子として」見られていることへの苦しさも感じた。
高校一年の夏、暁は初めて「告白」を受けた。バスケ部のエース、佐々木から。
「暁さん、僕と付き合ってください!」
放課後の教室で、真っ直ぐな目で見つめられた時、暁は動揺を隠せなかった。
「ごめんなさい」
即答で断った。理由は説明できなかった。どう説明すれば良いのだろう。自分が女の子として見られることが耐えられない。男子からの好意が、自分の本質と真っ向から対立する。そんなことを、どう言葉にすれば良いのか。
その夜、暁は長い手紙を書いた。送ることのない手紙。本当の自分について、これまでの苦しみについて、これからの不安について。全てを言葉にした。
----------------
今から宛先のない手紙を書きます。
こんな形でしか、本当の気持ちを伝えられない自分が情けないけれど、今夜は全てを書き出してみようと思います。
私は……いいえ、僕は……。
この一行を書くだけでも、どれだけ勇気が必要だったことか。「私」という言葉を使うたび、まるで嘘をついているような気持ちになります。でも「僕」と書くのも、まだ怖い。この手紙の中でだけでも、本当の自分を表現してみようと思います。
僕は、きっと生まれた時から「違う」存在でした。幼稚園の頃から、なぜか女の子たちの輪に入れなかった。ままごとをするより、砂場で山を作ったり、木の下で一人本を読んだりする方が好きでした。それが異常だとは思いませんでした。ただ、自然とそうなっていただけ。
小学生になって、制服を着せられた時の違和感は今でも鮮明に覚えています。スカートのプリーツが腰に巻き付く感覚が耐えられなかった。でも、それを誰にも言えませんでした。「女の子なんだから」という言葉が、いつも僕の口を封じていました。
思春期になって、体が変化し始めた時の恐怖は、言葉では表現できません。胸が膨らみ始めた時、まるで自分の体が裏切り者になったような気がしました。月経が始まった時は、三日間ずっと泣いていました。なぜ僕の体はこんな風になっていくのだろう。なぜ僕は、自分の体を受け入れられないのだろう。
鏡を見るのが怖くなりました。映る姿が、どんどん「女性」になっていく。それは僕の中の何かが、少しずつ殺されていくようでした。長い髪、柔らかな輪郭、丸みを帯びた体つき??それら全てが、僕という存在を否定しているように感じられました。
母さんは、僕のことを心配してくれています。「最近元気がないわね」「お友達と遊ばないの?」そんな風に声をかけてくれる度に、心が痛みます。母さんの期待する「可愛い娘」には、絶対になれない。その罪悪感と、自分の本当の姿を受け入れてもらえないかもしれない恐怖で、胸が締め付けられます。
父さんは、あまり僕のことを気にかけていないように見えます。でも、たまに「女の子らしく」という言葉を投げかけてくる。その度に、心の中で叫びたくなります。「僕は女の子じゃない!」って。でも、その言葉は永遠に喉の奥に閉じ込められたまま。
弟の陽太は、無邪気に「おねえちゃん」と呼んでくる。その純粋な笑顔に、どう応えていいのか分からない。いつか僕が変わったら、陽太は僕のことを理解してくれるだろうか。それとも、怖がって離れていってしまうのだろうか。
学校では、完璧な仮面を被って生活しています。女子の制服を着て、女子として振る舞って、女子としての期待に応えて。でも、その全てが演技です。体育の着替えの時間は、毎回拷問のよう。プールの授業は、病気と嘘をついて休む。それでも、誰も気付いてくれない。気付いてくれたら怖いけど、気付いてほしいという矛盾した気持ち。
図書室が唯一の避難所です。本の中なら、性別なんて関係ない。物語の主人公になりきって、しばらくの間だけでも自分を忘れられる。特に好きなのは冒険物語。主人公の少年が、困難に立ち向かって成長していく。その姿に、僕は強く共感します。いつか僕も、自分の冒険を始められるだろうか。
今日、佐々木君から告白されました。彼は優しくて、誠実な人。女子たちの憧れの的で、きっと多くの人が羨むはず。でも、僕には受け入れられない。それは単に佐々木君が好きじゃないからじゃなく、「女子として」好かれることが、魂の奥底から耐えられないから。
インターネットで「性別違和」という言葉を見つけた時、初めて自分が一人じゃないことを知りました。同じように苦しんでいる人がいる。同じように戦っている人がいる。その事実は、僕に小さな希望をくれました。でも同時に、これから先の人生の困難さも突きつけられました。
これから先のことを考えると、不安で胸が潰れそうになります。家族に打ち明けられるだろうか。社会は僕を受け入れてくれるだろうか。働くことはできるだろうか。恋をすることは、許されるのだろうか。普通の人が当たり前のように歩む人生の道筋が、僕には遠い夢のように感じられます。
でも、もう決めました。これ以上、嘘の人生は送れない。たとえ誰も理解してくれなくても、たとえ全てを失うことになっても、本当の自分として生きていきたい。それは、とてつもなく困難な道のりになるでしょう。でも、それ以外の選択肢は、もう僕には残されていない。
この手紙は、誰にも届きません。でも、これを書いているこの瞬間だけは、僕は本当の自分でいられます。偽りのない、まっすぐな気持ちで、これからの人生と向き合えます。
いつか、この手紙に書いた気持ちを、大切な人たちに直接伝えられる日が来ることを願って。
今は、それだけを希望に変えて、生きていこうと思います。
暁より
----------------
夜明け前、暁手紙を細かく破いて全部捨てた。
でも、その行為は暁に一つの気付きをもたらした。自分の思いを言葉にすることの大切さを。たとえ誰にも読まれなくても、自分の中で整理することの重要性を。
それからは、毎晩日記をつけるようになった。表紙に「AKIRA」と英語で書いた黒いノート。そこには、これまで誰にも言えなかった本当の思いを綴った。
「今日も制服を着るのが辛かった」
「クラスの女子から、また化粧の話。逃げるように教室を出た」
「髪が伸びてきた。切りたい」
「いつか、本当の自分として生きられる日は来るのだろうか」
時には涙で紙が滲むこともあった。でも、書くことで少しずつ自分を理解していけた気がした。
高校二年の終わり頃、暁は初めて心療内科を訪れた。インターネットで見つけた、性同一性障害の診療実績のある病院。予約の電話をする時、手が震えて何度もかけ直した。
待合室で順番を待つ間、暁は何度も逃げ出したくなった。でも、ここまで来た自分を、必死で支えた。
「暮枝さん」
呼ばれた時、声が出なかった。やっとの思いで立ち上がり、診察室に向かう。白衣を着た中年の女医が、優しく微笑んで迎えてくれた。
「どうされましたか?」
その問いかけに、暁は長年溜めていた思いを、少しずつ話し始めた。幼い頃からの違和感。成長とともに強まる苦しみ。誰にも言えない本当の自分。
医師は黙って暁の話を聞いていた。時折メモを取りながら、でも急かすことなく。
「暮枝さん、あなたは一人じゃありませんよ」
診察の終わりに、医師はそう言った。その言葉に、暁は突然涙があふれ出た。ずっと、ずっと聞きたかった言葉。
その日から、暁は定期的にカウンセリングに通うようになった。両親には、「進路相談」という名目で通っていることにした。