第二章:閉ざされた心
小学校高学年になると、「違和感」はより鮮明になっていった。
十一歳の誕生日を迎えた春、暁の体に最初の変化が訪れた。朝、目覚めた時に感じた胸の違和感。鏡の前で、おずおずとシャツの襟元を開けてみる。かすかに膨らみ始めた胸が、他人の体のように感じられた。
「ねぇ、お母さん」
その日の夜、暁は勇気を振り絞って母に話しかけた。
「胸が……痛いの」
咲子は優しく微笑んだ。
「そうね。暁ももう大きくなってきたのね。明日、一緒に下着を買いに行きましょう」
その言葉に、暁は強い拒否感を覚えた。でも、それを言葉にすることはできなかった。
翌日、母と二人で百貨店に向かった。下着売り場の蛍光灯の下で、暁は震える手でブラジャーを手に取る。ピンク色のレースと可愛らしいリボン。それは暁には拷問具のように見えた。
「これ、可愛いわね」
母は明るく言う。暁は黙って頷くことしかできなかった。
家に帰って、初めてそれを着けた時の感覚を、暁は一生忘れることができなかった。締め付けられる感覚は、単に肉体的なものではなかった。まるで自分の本質が、そのレースとリボンの下に押し込められていくような感覚。
その夜、暁は長い間浴室で泣いた。シャワーの音で誰にも聞こえないように、声を殺して。なぜ泣いているのかは、自分でもよく分からなかった。ただ、何かが永遠に失われていくような感覚だけが、強く心を締め付けた。
学校生活も、徐々に困難になっていった。体育の着替えの時間は、特に耐え難かった。
「暁ちゃん、もう付けてるの?」
「私もそろそろかなぁ」
「ねぇ、見せてよ」
クラスメイトたちの興味津々な視線と言葉が、暁を追い詰めた。
次第に、暁は人との接触を避けるようになっていった。休み時間は図書室で過ごし、放課後はまっすぐ帰宅する。友達との会話も最小限に抑えた。
そんな暁を、特に心配したのは担任の山下先生だった。
「暁さん、最近元気がないようだけど、何か悩み事でもある?」
放課後、職員室に呼ばれた暁に、山下先生は優しく声をかけた。
「別に……」
暁は俯いたまま答えた。目の前のお茶が冷めていくのを、じっと見つめる。
「友達関係で困ってることとか……」
「ありません」
きっぱりとした口調に、山下先生は少し驚いたような表情を見せた。
「でも、女の子同士なら、もっと仲良く……」
「女の子同士」という言葉に、暁は思わず体を強張らせた。その反応を、山下先生は見逃さなかった。
「暁さん……」
その後に続く言葉を、暁は聞かなかった。ただ、できるだけ早くその場を去りたいという思いだけが強くなった。
家でも、暁の変化は目立つようになっていた。
「暁、最近スカートばかりじゃなくて、ズボンも持ってた方がいいんじゃない?」
ある日、母がそう提案してきた。暁は一瞬、期待に目を輝かせた。
「でも、あまり男の子っぽくならない程度にね」
その一言で、暁の心は再び閉ざされた。
小学校を卒業する頃には、暁の心は完全に殻に閉じこもっていた。卒業式の日、クラスメイトたちが泣きながら抱き合う中、暁は一人、端っこで静かに立っていた。
中学校への進学。新しい制服。そして、より一層強まる「女性らしさ」への期待。暁は全てを受け入れているふりをした。でも心の中では、確実に何かが壊れていっているのを感じていた。
中学一年の夏、暁は初めて「その言葉」を知った。図書館のパソコンで何気なく検索した「性別 違和感」という言葉が、暁の人生を大きく変えることになる。
「性別違和」「トランスジェンダー」「FTM」
画面に並ぶ言葉の一つ一つが、これまでの暁の人生に急速に意味を与えていった。今まで漠然と感じていた「違和感」が、突然はっきりとした形を持ち始めた。
それは解放感と恐怖が入り混じった感覚だった。自分は一人じゃない。同じような思いを抱える人がいる。でも同時に、これが意味することの重大さに、暁は震えた。
その日から、暁は必死でインターネットで情報を集め始めた。放課後の図書館で、誰にも気付かれないように、少しずつ知識を得ていった。
同時に、体の変化はより顕著になっていった。月経が始まった時、暁は三日間学校を休んだ。母には体調不良だと嘘をついた。
真実を誰にも言えない日々が続いた。特に辛かったのは、母との入浴だった。
「暁、最近一緒にお風呂入ってくれないのね」
母の声には寂しさが混じっていた。
「もう、大きくなったから……」
それは嘘ではなかった。でも本当の理由は、自分の体を見ることができないから。誰かに見られることは、もっと耐えられない。
中学二年になる春、暁は思い切って髪を切った。首元で揃えた短めのボブヘア。これが精一杯の妥協だった。
「せっかくの綺麗な髪なのに」
母は残念そうに言った。でも暁には、それでも重い鎖が一つ外れたような気がした。