第一章:違和感の芽生え
最初の「違和感」を覚えたのは、幼稚園の終わり頃だった。暁は園庭の隅で、一人黙々と砂の城を築いていた。周りでは女の子たちがままごとに興じている。彼女たちの高い声と笑い声が、風に乗って耳に届く。
「暁ちゃん、一緒にお母さんごっこしない?」
クラスで一番人気のある美咲が、にこやかに声をかけてきた。暁は黙って首を振る。
「どうして? 暁ちゃん、最近全然私たちと遊んでくれないよ」
美咲の声には、本当の心配が混じっていた。
「だって……」
暁は砂の城の頂上を整えながら、小さな声で答えた。
「お母さんごっこは、僕には……」
「え? 僕?」
美咲が首を傾げる。暁は慌てて黙り込んだ。「僕」という言葉が自然に出てきてしまったことに、自分でも驚いていた。
その日の帰り道、母の咲子は五歳の娘の小さな手を握りながら、いつもより神妙な面持ちで歩いていた。
「暁、先生から聞いたわ。最近お友達と遊ばないんですって?」
咲子の声は優しく、けれど心配に満ちていた。
「だって……」
暁は空を見上げた。夕暮れ時の空は、どこか境界のないグラデーションを描いていた。
「みんなとは、違うの」
その言葉に、母は立ち止まった。
「違うって、どういうこと?」
「わからない。でも、違うの」
それ以上の説明はできなかった。どう言葉にすれば良いのかも分からなかった。ただ、自分の中にある「違和感」だけが、確かに存在していた。
家に着くと、弟の陽太が元気よく玄関から飛び出してきた。まだ三歳の陽太は、姉の暁が大好きだった。
「おねえちゃん!」
その呼びかけに、暁は微かに顔をしかめた。なぜだか分からないけれど、その呼び方が心地よくなかった。でも、そんな気持ちを口に出すことはできなかった。
その夜、暁は初めて「夢」を見た。夢の中で自分は、弟と同じように短い髪で、ズボンをはいていた。走り回っても誰も怒らない。「かわいい」とか「お行儀よく」とか言われることもない。ただ、自分らしく遊んでいられる。
目が覚めた時、枕が涙で濡れていた。なぜ泣いていたのかは分からなかった。でも胸の奥に、言葉にできない切なさが残っていた。
小学校に入学する前の健康診断の日。白衣を着た先生が、名簿を見ながら呼びかける。
「暁ちゃん、こっちの列に並んでね」
女の子たちの列を指差す先生の手が、暁には鎖のように感じられた。男の子たちの列を羨ましそうに見つめる暁を、誰も気にとめなかった。
入学式の日、暁は真新しい制服に袖を通した。濃紺のスカートが、重たく腰に引っかかる。
「暁、とってもかわいいわ!」
母が嬉しそうにカメラを向ける。暁は無理に笑顔を作った。写真の中の自分は、どこか仮面を被っているように見えた。
小学校生活が始まって間もなく、暁は「女の子らしさ」という言葉の重みを知ることになる。
「暁ちゃん、そんな風に座っちゃダメよ」
「女の子なんだから、もっと可愛く話しましょう」
「暁さん、スカートをもう少し丁寧に扱って」
先生たちの言葉は、どれも優しかった。でも暁には、その一つ一つが縛り付ける鎖のように感じられた。
体育の時間が特に辛かった。女子更衣室で制服からジャージに着替える時、暁は必死で目を伏せた。同級生たちは楽しそうにおしゃべりをしながら着替えるのに、暁だけが隅で背中を向けて、できるだけ早く着替えを済ませようとする。
「ねぇ、暁ちゃんって変わってるよね」
「うん、いつも一人で」
「なんか、男の子みたい」
囁き声は、次第に大きくなっていった。
そんな中で唯一の救いは、図書室だった。本の世界には「女の子らしさ」も「男の子らしさ」も存在しない。ただ物語があるだけ。暁は休み時間になるとよく図書室に通った。
特に好きだったのは、冒険物語だった。主人公の少年が困難に立ち向かい、自分の道を切り開いていく。その姿に、暁は強く心を惹かれた。時には自分が主人公になったような夢想に耽る。その時だけは、現実の「違和感」から解放された。
「暁、そんなに本ばかり読んでいないで、お友達と遊びなさい」
母の言葉には心配が滲んでいた。でも、暁には説明できなかった。本の中にいる時だけ、自分が本当の自分でいられるという感覚を。
二年生になる直前の春休み、暁は思い切って母にお願いした。
「お母さん、わたし、髪、切りたい」
長く伸ばしていた黒髪を指で掴みながら、暁は震える声で言った。
「でも、せっかく綺麗に伸びてきたのに」
母は暁の髪を優しく撫でながら言った。
「どうして急に?」
「なんとなく……」
本当の理由は言えなかった。自分でもよく分からない。ただ、鏡に映る長い髪を見るたびに、何かが違うと感じる。まるで、本当の自分が髪の奥に隠れてしまっているような。
結局、その願いは聞き入れられなかった。でも、その日を境に暁の中で何かが変わり始めた。自分の中の「違和感」に、少しずつ目を向けるようになった。それは怖かったけれど、同時に必要なことのように感じられた。