第6章:私たちの未来
「おめでとうございます。元気な女の子です」
産声が部屋に響き渡った時、暁とさくらの目には涙があふれていた。
「やっと会えたね……」
さくらは感動に声を震わせながら、小さな命を見つめた。
「麗華……僕たちの希望……」
二人で選んだ名前を、暁は初めて口に出した。
出産を終え、暁の体は少しずつ回復していった。そして、いよいよ二人が待ち望んでいた日が訪れた。性別適合手術を受けるための準備が整ったのだ。
「これで、やっと本当の自分になれる」
手術を前に、暁とさくらは互いの手を強く握り合った。病院の待合室に流れ込む朝日が、二人の姿を優しく照らしている。
「ついに、この日が来たんですね」
さくらの声が小さく震えていた。期待と不安が入り混じった表情で、彼女は暁の顔を見つめる。ピンクのワンピースを着たさくらは、いつも以上に繊細な雰囲気を漂わせていた。
「ああ……長かったような、あっという間だったような……」
暁は微笑みながら答えた。紺のシャツに黒いスラックスという出で立ちは、すっかり男性的な印象を醸し出している。けれど、その手の温もりには、まだどこか女性的な柔らかさが残っていた。
待合室の壁に掛けられた時計が、静かに時を刻んでいく。二人は黙って、お互いの手の感触を確かめ合っていた。これが「古い体」との最後の時間。その認識が、二人の心に深い感慨を呼び起こす。
「麗華、ちゃんと託児所で寝てくれてるかな」
暁が小さく呟いた。生後一年半の娘は、今日という日のために病院内の託児施設に預けられている。
「大丈夫です。あの子、意外とお利口さんですから」
さくらが答える。その言葉に、二人は小さく笑い合った。娘の存在が、この重要な決断により大きな意味を与えてくれている。
「さくらさん、ありがとう」
突然、暁が囁くように言った。
「何のことですか?」
「全てです。僕のことを理解してくれて、支えてくれて、麗華を授けてくれて……そして、こうして一緒に新しい人生を歩もうとしてくれている」
暁の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。その横顔は、手術を控えた緊張感の中にも、確かな決意が宿っていた。
「私こそ……」
さくらの声も震えている。
「暁さんと出会えて、本当に幸せです。私たち、ここまで色んなことを乗り越えてきました。だからこの手術も、きっと……」
言葉が詰まる。代わりに、握り合う手に一層の力が込められた。
「暮枝さん、大和田さん、手術の準備が整いました」
看護師の声に、二人は顔を上げる。
「じゃあ、行ってくるよ」
「私も、頑張ってきます」
最後に互いの手を強く握り、二人はそれぞれの手術室へと向かう準備を始めた。その背中には、もう迷いはなかった。これまでの人生で積み重ねてきた全ての経験が、この瞬間に結実しようとしている。
朝日は一層明るさを増し、待合室を金色に染め上げていた。それは、二人の新しい人生の夜明けを予感させるかのようだった。
手術後の回復期間を経て、暁はほぼ完全に男性として、さくらもほぼ完全に女性としての体を手に入れた。そして、新しい家族としての生活が始まった。
春の柔らかな日差しが差し込む朝、暁は鏡の前で髭を剃っていた。手術から半年が経ち、傷跡はほとんど目立たなくなっている。シェービングクリームの泡を丁寧に広げながら、自分の顔立ちを見つめる。かつての女性的な面影は完全に消え、代わりに凛々しい男性の表情が映っていた。
「パパ、おはよう!」
二歳の麗華が、トコトコと洗面所まで駆けてきた。暁は髭剃りの手を止め、娘を抱き上げる。
「おはよう、麗華」
低く落ち着いた声が、自然に響く。もはやホルモン治療で作られた声ではない。手術とリハビリを経て、完全に自分のものとなった声だった。
「あら、もう起きてたの?」
さくらが寝室から出てきた。シルクのパジャマが、柔らかな曲線を優雅に包んでいる。手術によって手に入れた女性としての体は、もはや違和感のない自然な存在となっていた。
「ママ、おはよう!」
麗華がさくらに向かって手を伸ばす。さくらは娘を受け取り、柔らかく抱きしめた。その仕草には、生まれながらの母としての優しさが溢れていた。
「今日は保育園の参観日よね」
さくらが言うと、暁は頷いた。
「ああ、午後から行くよ。今日は早めに仕事を切り上げる約束をしてある」
朝食の準備をしながら、三人は自然な会話を交わす。以前のような緊張や不安は、もうどこにもない。ただそこにあるのは、普通の家族の、普通の朝の風景。
キッチンでは、さくらが麗華の弁当を作っている。手術後、体の変化に合わせて服のサイズを全て見直した彼女は、今では完全に女性の体型に合った服を着こなしている。その姿は、まさに理想的な母親そのものだった。
暁は新聞を読みながらコーヒーを飲む。手術後、体の変化に慣れるまでは様々な困難もあった。特に力の入れ具合や動作の感覚を掴むのには時間がかかった。でも今では、男性としての体の使い方が完全に身についている。
「パパ、ネクタイ、まがってるるよ」
麗華が茶目っ気たっぷりに指摘する。暁は微笑んで、鏡の前で直す。
「ありがとう。さすが麗華、よく気が付くね」
娘との何気ない会話に、暁の心は温かさで満たされる。生物学的には母親である自分が、今は一人の父親として娘と向き合っている。その事実は暁の心を言い知れぬ満足感で満たした。
「あ、そうだ」
さくらが思い出したように言った。
「今週末、麗華の七五三の前撮りの予約を入れたんだけど……」
「うん、楽しみだね」
暁は微笑んで答えた。かつては写真を撮られることに強い抵抗があった二人だが、今は違う。家族の記念写真を残すことが、純粋な喜びとなっている。
麗華を保育園に送り出した後、暁とさくらは玄関で軽くキスを交わす。
「行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
日常的な別れの挨拶。でも、その何気ない瞬間にこそ、二人が長い道のりを経て手に入れた幸せが詰まっている。
暁は通勤電車の中で、自分の手帳を開いた。そこには、仕事の予定に混じって、麗華の予防接種の日程や、さくらとのデート計画が書き込まれている。もはやそこに「性別」という言葉は介在しない。ただ、一つの家族を形作る大切な約束事として、それらの予定は存在していた。
新しい体を得て、三人の暮らしは確かな歩みを進めていた。それは決して「普通」の家族の形ではないかもしれない。でも、愛情に満ちた確かな日常が、この家族の中に育まれていることは間違いなかった。
◆
「パパ、抱っこ!」
三歳になった麗華が無邪気に両手を上げて甘えてくる。暁は娘を高く抱き上げ、幸せな笑顔を浮かべた。
「ママも一緒に!」
さくらも加わり、三人で抱き合う。
「僕たちの家族の形は、決して普通ではないかもしれない」
ある夜、麗華を寝かしつけた後、暁はさくらにそう語った。
「でも、それでいいんだと思う。大切なのは、互いを愛し、理解し合えること。そして、この子に豊かな愛情を注げること」
「そうですね」
さくらは暁の肩に頭を寄せながら答えた。
「私たちは、境界線の向こう側で新しい可能性を見つけたのかもしれません」
窓の外では、夕暮れが街を優しく包んでいた。かつて二人が出会った、あの時と同じように。
しかし今、その境界線は二人を隔てるものではなく、新しい地平を示す希望の線となっていた。
麗華の寝息を聞きながら、暁とさくらはしっかりと抱き合った。二人の中で、確かな温もりが育まれていた。