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第4章:新たな命

 真夜中の静けさが部屋を包んでいた。暁は窓辺に立ち、都会の明かりで仄かに照らされる自分の姿を、ガラスに映して見つめていた。


()()()()()()()()を……()()()


 その言葉を口にした瞬間、声が震えた。月明かりに照らされた部屋の中で、暁は自分の体に手を当てた。ホルモン治療で少しずつ男性的になってきたその体は、確かに自分が望んだ姿だった。でも今、その体に新たな可能性を見出そうとしている。その決断は、これまでの自分の生き方を根底から揺るがすようにも思えた。


「本当に……いいの? 暁さん?」


 ベッドから起き上がったさくらの声が、暁の背後から優しく響いた。その声には、期待と不安が混ざり合っていた。


「正直、怖いんだ」


 暁は窓の外を見つめながら言葉を続けた。


「ここまで、男性として生きるために戦ってきた。女性としての体を否定して、やっと自分らしい姿に近づいてきた。なのに、またこの選択をするってことは……」


 言葉が詰まる。喉の奥が熱くなる。


 さくらが後ろから近づき、そっと暁の肩に手を置いた。暁は振り返り、さくらの目を見つめた。そこには深い理解と愛情が宿っていた。


「でも、さくらさん」


 暁は深く息を吸い、言葉を紡いだ。


「不思議なんだ。確かに怖いし、戸惑いもある。でも同時に、僕たちの子どもを育てたいという気持ちが、こんなにも強くあるんだ……」


 暁の目に涙が浮かんだ。それは恐怖の涙でもあり、希望の涙でもあった。


「僕のこの体は、確かに女性としての機能を持っている。でも、それを使うことは、必ずしも自分が女性だということを意味しないんじゃないか。むしろ、男性である自分が、大切な人との間に命を育む特別な機会として……」


 さくらの目にも涙が光った。彼女は暁の手を取り、静かに胸に当てた。


「私には叶わない夢を、暁さんが実現しようとしてくれている。こんなに嬉しいことはないわ……」


 月の光が二人を優しく照らしていた。暁は自分の中で渦巻く感情の波を感じていた。恐れ、戸惑い、期待、希望――それらが全て混ざり合って、新しい形の覚悟となっていく。


「子どもが生まれたら」


 暁は小さく微笑んで言った。


「僕は絶対に、かけがえのない父親になる。一時的に女性としての機能を使うことになっても、それは僕が父親になるための、特別な道のりなんだ」


 さくらは暁を強く抱きしめた。その温もりの中で、暁は自分の決断が間違っていないことを、心の底から感じていた。


「二人で育てよう」


 さくらの声が、暁の耳元で静かに響いた。


「私たちの形の、私たちの家族を」


 夜明け前の静寂の中で、二人は長い時間抱き合っていた。窓の外では、東の空がわずかに明るさを帯び始めていた。それは、二人の新しい人生の夜明けのように思えた。


 暁の体の中で、まだ見ぬ命を育む準備が、静かに、確かに始まろうとしていた。その選択は、これまでの自己認識との葛藤を生むかもしれない。でも、その先にある希望は、その不安をはるかに超える輝きを持っていた。



 白い壁に囲まれた診察室で、暁とさくらは医師の言葉に耳を傾けていた。机の上には様々な検査結果や資料が広げられ、窓からは柔らかな春の日差しが差し込んでいた。


「ホルモン治療の中断から、体が妊娠可能な状態に戻るまでには、個人差がありますが、およそ三ヶ月から半年ほどかかると考えられます」


 ジェンダークリニックの医師は、穏やかな口調で説明を続けた。長年トランスジェンダーの診療に携わってきた彼女の言葉には、確かな重みがあった。


「その間、これまでの男性化の特徴の一部が、徐々に元に戻っていく可能性があります。声の高さ、体毛の生え方、体型など……」


 医師の言葉に、暁は無意識に喉に手を当てた。ホルモン治療で得た低い声。それは自分らしさの重要な一部だった。


「覚悟はしています」


 暁の声は、かすかに震えていた。横でさくらが、そっと暁の手を握った。


 診察室を出た後、二人は病院の中庭のベンチに座った。早春の風が、まだ固い蕾をつけた桜の枝を揺らしている。


「明日から、注射を打つのを止めるんだ」


 暁は自分の腕を見つめながら呟いた。週に一度の テストステロン注射は、もう日課のようになっていた。その習慣が途切れることへの不安が、心の中でうねりのように広がる。


「暁さん」


 さくらが、優しく声をかけた。


「一緒に頑張りましょう。私にできることは、何でもします」


 その言葉は、確かな温もりを持っていた。しかし、現実の重みが、すぐに二人の心に押し寄せる。


 家に帰った暁は、バスルームのキャビネットの中の注射器と薬剤を見つめていた。明日からしばらく、これらは使わない。その事実を、実感として受け止めようとする。


「これも、自分で選んだ道なんだ」


 鏡に映る自分の顔を見つめる。ホルモン治療の効果で角ばってきた顎線、太くなった首筋、少し濃くなり始めた体毛。これらの変化が、これからどうなっていくのか。


 リビングでは、さくらがパソコンを開いていた。妊活に関する情報を、必死に集めている。


「暁さん、こちらに良い情報がありました」


 さくらは画面を指さした。トランスジェンダーの妊娠・出産体験記が表示されている。二人は肩を寄せ合って、その記事に見入った。


「ホルモンを止めて最初の数週間が、特に大変だったって」


 記事を読みながら、さくらが静かに言った。


「でも、乗り越えられたんですね」


 暁は深いため息をついた。明日から始まる変化への不安と、新しい命を育む可能性への期待が、心の中で交錯していた。


 夜、ベッドに横たわりながら、暁は天井を見つめていた。横でさくらが、既に静かな寝息を立てている。


 自分の体の中で、これから何が起ころうとしているのか。女性ホルモンが徐々に戻ってくることで、どんな変化が訪れるのか。それを受け入れる準備が、本当に自分にできているのか。


「でも、これは後退じゃない」


 暁は小さく呟いた。これは新しい可能性に向かう一歩なのだと、自分に言い聞かせる。


 窓の外では、満月が静かに輝いていた。その光が部屋に差し込み、眠るさくらの横顔を優しく照らしている。暁は、その光景に何か運命的なものを感じていた。


 やがて、暁の瞼が重くなっていく。明日から始まる新しい挑戦。それは不安と期待が入り混じった、まさに夜明け前の暗闇のような時間になるだろう。でも、さくらという確かな光があれば、きっと乗り越えられる。


 そんな思いを胸に、暁は静かに目を閉じた。明日という日が、ゆっくりと近づいてくる。それは、二人の人生における大きな一歩の始まりだった。



「男性として生きていこうとしている僕が、女性としての機能を使って子どもを産む……」


 暁は鏡に映る自分の姿を見つめながら改めて呟いた。ホルモン治療の中断により、少しずつ女性的な特徴が戻ってきていた。


「暁さんの決断は、とても勇気のいることだと思います。でも、それは決して矛盾でも間違いでもないと思うんです」


 さくらは暁の背後から暁を抱きしめながら続けた。


「男性であることも、子どもを産むことも、どちらも暁さんの一部。そのどちらも大切にしていいと思います」


 その言葉は、暁の心に深く染み入った。


 最初の関係を持った夜、二人はとても慎重だった。


 月明かりだけが部屋を照らす静かな夜。


 暁とさくらは、互いの呼吸だけを感じながら、ベッドの端に腰かけていた。二人の間には、言葉にならない緊張が漂っている。


「大丈夫?」


 暁が、か細い声で尋ねる。その声には、不安と期待が交錯していた。


「はい……私……初めてだから……すごく不安です……」


 さくらの返事も、いつもより少し高い声だった。


「でも、暁さんの気持ちが……心が、一番心配です」


 暁は、さくらの手を優しく握った。その手には、かつての男性的な力強さはもう残っていない。代わりに、女性としての柔らかさが宿っている。その変化に、暁は不思議な安心感を覚えた。


「電気……消しましょうか?」


 さくらが提案する。自分の体への違和感が、その言葉に滲んでいる。


「ううん」


 暁は首を振った。


「さくらさんの全てを、ちゃんと見ていたいんです。そして……僕のことも」


 その言葉に、さくらの目に涙が浮かぶ。自分の体を受け入れることができない時期が長く続いた彼女にとって、その言葉は深い愛情の証だった。


 ゆっくりと、暁がさくらの方を向く。月明かりに照らされた横顔が、かつてないほど美しく見えた。さくらは、暁のシャツのボタンに手をかける。その指先が微かに震えている。


「怖くないよ」


 暁が囁く。


「僕たち二人ならきっと……」


 さくらは、暁の言葉に励まされるように、一つずつボタンを外していく。その動作には、これまでの人生で積み重ねてきた全ての不安と、それを超えようとする勇気が込められていた。


 シャツが床に落ちる音が、静寂の中で大きく響く。暁は、とっさに両手で自分の胸を隠してしまった。ホルモン治療で平らになりつつある胸だが、まだ完全には消えていない女性的な曲線に、複雑な感情が湧き上がる。


「綺麗……」


 さくらが、心からの言葉で暁を包み込む。その言葉に、暁は複雑な感情をいただきつつも、緊張が少しずつ溶けていくのを感じた。


 二人の唇が、おずおずと近づく。最初のキスは、まるで蝶が羽を休めるように繊細だった。その優しさの中に、互いへの深い思いやりが込められている。


「温かいね……」


 暁の囁きに、さくらが微笑む。その表情には、もう迷いはなかった。


 お互いの体に触れる度に、二人は相手の反応を慎重に確かめ合う。どこに触れると嫌な思いをするのか、どこなら大丈夫なのか。その慎重さの中にこそ、深い愛情が宿っていた。


 さくらの手が暁の背中を撫でる。その指先は、女性としての繊細さを身につけていた。暁は、その温もりに全身を震わせる。それは不快感からではなく、純粋な感動からだった。


「好きだ……」


 暁の言葉に、さくらの目から涙がこぼれる。その一粒一粒が、月明かりに輝いていた。


 二人の体が重なり合う。その瞬間、性別という概念が溶けていく。そこにあるのは、ただ純粋な魂と魂の触れ合い。社会が作り上げた「男性」「女性」という枠組みを超えた、本質的な結びつきだった。


「痛くない?」と暁が問いかける。


 その声には、限りない優しさが満ちている。


「大丈夫……」


 さくらの答えは、確かな信頼に満ちていた。


「暁さんとなら……平気……」


 二人の吐息が混ざり合い、温かな空気が部屋を満たしていく。窓から差し込む月明かりが、絡み合う二つの影を優しく照らしている。その光の中で、二人は新しい形の愛を見出していた。


 体の違和感は、完全には消えていない。けれど、互いを思いやる気持ちが、その不安を優しく包み込んでいく。二人は、ゆっくりと、でも確実に、愛を深めていった。


「こんなに幸せなこと……」


 さくらの呟きに、暁は黙って頷く。

 言葉では表現できない感情が、二人の間に満ちていた。


 夜が深まるにつれ、二人の距離は更に縮まっていく。

 それは単なる肉体的な結びつきを超えた、魂の交感とも呼べるものだった。


 さくらは戸惑いながらも、初めて暁の中にゆっくりと自分を挿入した。暁もそれを愛情深く、温かく受け入れる。お互い違和感はあったが、不思議と不快感はなかった。ただそこには愛の結びつきだけが、確かに存在した。


 月の光が二人を見守る中、新しい愛の形が静かに花開いていった。それは、既存の価値観では測れない、かけがえのない瞬間だった。


「大丈夫?」


「うん……優しくて、温かい」


 さくらの手が暁の体を撫でる。その指先には、かつての男性的な力強さは残っていない。代わりに、女性的な優しさが宿っていた。



 夜明け前の静寂が部屋を満たしていた。暁は目を覚まし、横で眠るさくらの寝顔をそっと見つめた。淡いピンク色のパジャマを着たさくらの姿は、月明かりの中で柔らかな印象を醸し出している。


 暁は静かにベッドから抜け出し、洗面所の鏡の前に立った。ホルモン治療で少しずつ男性的になっていく自分の体を確認する。角張った顎、太くなった指、低くなった声――それらは確かに自分が望んだ変化だった。


 しかし今、その体に新たな可能性を見出そうとしている。さくらとの子どもを授かるために、一時的にホルモン治療を中断し、女性としての機能を取り戻すという選択。その決断は、これまでの自分の生き方とは、一見矛盾するようにも思えた。


「でも、違うんだ」


 暁は小さく呟いた。鏡に映る自分の目を見つめながら、その言葉に確かな重みを感じる。


「これは後退じゃない。自分の可能性を広げることなんだ」


 暁は自分の腹部に手を当てた。まだそこには何もない。しかし近い将来、新しい命が宿るかもしれない場所。かつてはその部分の存在自体を否定したいと思っていた。女性としての体の象徴とも言えるその機能を、憎むように感じていた時期もあった。


 けれど今は違う。さくらと出会い、互いの存在を深く理解し合う中で、暁の中で何かが変わり始めていた。さくらとの子を宿せるならば……。


「おはよう……」


 背後からさくらの声が聞こえた。振り返ると、彼女は優しい微笑みを浮かべていた。


「また、考え込んでたの?」


「うん……でも、今回は違うんだ」


 暁はさくらに向き直り、真っ直ぐに見つめた。


「僕は、自分の中の女性性を否定しようと今まで躍起になっていた。でも、それは間違っていたのかもしれない。……それも僕の一部なんだ。そして今は、その一部を大切な目的のために……さくらのために使えることを……誇りにさえ思えるんだ」


 さくらの目に涙が浮かんだ。彼女は暁に近づき、そっと抱きしめた。


「暁さんの中には、様々な可能性が眠っていると思います。そして、暁さんはそれを否定するのではなく、受け入れる強さを持っている。私もそんな暁さんを誇りに思います」


 朝日が少しずつ窓から差し込み始めていた。その光は、二人の新しい挑戦の始まりを祝福するかのように、温かく包み込んでいた。


「これから大変なことも、たくさんあると思います」


 さくらは暁の髪をそっと撫でながら言った。


「でも、二人でいれば、きっと乗り越えられると思うの」


「ああ」


 暁は強く頷いた。自分の中の多様性を受け入れること。それは自己否定ではなく、より豊かな存在への成長なのだと、心の底から感じていた。


 鏡に映る二人の姿が、朝日に照らされて輝いていた。それは、既存の価値観や固定観念を超えて、新しい可能性に向かって歩み出す二人の姿だった。


 やがて、待ち望んだ朝が訪れた。


「陽性……です」


 妊娠検査薬を見つめる暁の手が震えている。横でさくらが、喜びと驚きの入り混じった表情を浮かべていた。


「私たちの赤ちゃん……」


 さくらの声も震えていた。

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