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【LGBTQ恋愛結婚育児小説】境界線上の私たちー揺れる体、寄り添う心ー  作者: 霧崎薫
ep.20 境界を超えて ―ある性同一性障害専門医の手記―

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20/23

境界を超えて ―ある性同一性障害専門医の手記―

村瀬香子・記


 医師として30年、その中でも性同一性障害(現在はよりトランスジェンダーという言葉が一般的になってきましたが)の専門医として25年の経験を重ねてきましたが、暮枝暁さんと大和田さくらさんご夫妻ほど印象に残る患者さんはいません。


 最初に暁さんが私の診察室を訪れたのは、今から8年前のことでした。FTM(Female to Male)として男性への性別適合を望む方でしたが、その時点ではまだホルモン治療も開始していませんでした。


 印象的だったのは、初診時の暁さんの目の輝きです。不安と期待が入り混じった、しかし確かな決意の光を湛えた瞳。多くの患者さんが初診時には緊張で固くなっているのですが、暁さんは違いました。


「先生、私……いいえ、僕は、絶対に変わりたいんです」


 その言葉には迷いがありませんでした。ただ、その時の暁さんはまだ、自分の人生に起こる大きな転機については想像もしていなかったことでしょう。


 数ヶ月後、今度はMTF(Male to Female)として女性への性別適合を望むさくらさんが来院されました。さくらさんの場合は、既にホルモン治療を開始されており、女性らしい柔らかな雰囲気を醸し出していました。ただ、その目には深い孤独の影が宿っていました。


 二人が出会うことになるとは、その時点では誰も予想していませんでした。運命とは、時として不思議なものです。


 ある日の診察時、暁さんが興奮した様子で診察室に入ってきました。


「先生、僕……人生が変わりそうなんです」


 そう切り出した暁さんの頬は、照れと喜びで紅潮していました。その日、暁さんは初めてさくらさんとの出会いについて語ってくれました。銀座の夕暮れ時、偶然の出会い。二人の心が共鳴した瞬間の話を。


 医師として25年、私は数多くのトランスジェンダーの方々の人生に関わってきました。多くの方が、同じような境遇の人との出会いを望みます。しかし、実際にそれが実り、さらには愛情関係に発展するケースは稀です。


 暁さんとさくらさんの関係は、まさに奇跡的なものでした。FTMとMTF。お互いが望む性別の特徴を、相手は手放そうとしている。その不思議な対称性の中で、二人は深い絆を育んでいきました。


 しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。特に、暁さんが妊娠を決意した時には、私も医師として大きな決断を迫られました。


「先生、僕に子どもを産む資格はあるでしょうか?」


 診察室で暁さんがそう尋ねた時、私は一瞬言葉を失いました。男性として生きることを選択した方が、あえて女性としての機能を使って出産を……。それは医学的にも、倫理的にも、前例の少ない選択でした。


 しかし、暁さんの決意は固かったのです。


「僕は男性として生きていく。それは変わらない。でも、さくらさんとの子どもを授かれるなら、この体の機能を最後に、最も尊い形で使いたいんです」


 その言葉に、私は深い感銘を受けました。性別というものは、単純な二元論では語れないのだと、改めて教えられた気がしました。


 妊娠期間中、暁さんは大きな苦痛を経験しました。ホルモン治療の一時中断による体の変化、女性化していく体への違和感、社会からの偏見の目。しかし、さくらさんはいつも暁さんの傍らにいて、その苦しみを分かち合っていました。


 麗華ちゃんが生まれた日、私も立ち会わせていただきました。生まれ出る命の神秘を目の当たりにするのは、産婦人科医ではない私にとって特別な経験でした。


 暁さんは出産の痛みに耐えながら、最後まで強い意志を保ち続けていました。そして、さくらさんは終始、暁さんの手を握り締めていました。麗華ちゃんの産声が響いた時、手術室には言葉では言い表せない感動が満ちていました。


 その後の性別適合手術も、二人は乗り越えました。暁さんもさくらさんも、手術を経て、より一層自分らしい姿を手に入れることができました。


 最近では、麗華ちゃんの成長についても話を聞かせてもらっています。思春期特有の反抗期も経験しながら、両親との絆を深めているそうです。


 先日、定期検診に来られた暁さんが、こんなことを話してくれました。


「先生、僕たち、普通の家族じゃないかもしれません。でも、それでいいんです。僕たちなりの幸せがある。それは誰にも否定されない」


 その言葉に、私は深く頷くしかありませんでした。


 医師として四半世紀以上、多くのトランスジェンダーの方々の人生に関わってきました。その中で、暁さんとさくらさんご夫妻から学んだことは計り知れません。


 性別は決して単純な二分法では語れないこと。愛には様々な形があること。そして何より、誰もが自分らしく生きる権利があるということ。


 今、私の診察室には、また新たな患者さんたちが訪れています。皆さん、それぞれの悩みと希望を抱えています。そんな方々に、私はいつも伝えています。


「あなたの道は、あなただけのもの。でも、決して一人じゃない」


 暁さんとさくらさんの物語は、そんな方々への大きな希望となっています。境界を超えて、自分らしく生きること。その勇気と決意が、新しい未来を切り開いていくのだと。


 窓の外では、また新しい春の風が吹いています。今日も誰かが、自分らしい人生への一歩を踏み出そうとしているのでしょう。医師として、そんな方々の伴走者であり続けたい。それが、私の願いです。


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