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第2章:揺れる身体

 同棲を始めて2ヶ月が経った頃、暁は自分の体の変化にこれまで以上の戸惑いを感じ始めていた。朝、目が覚めた時の体の感覚が、日に日に変わっていく。


「見てください、さくらさん! 僕、髭が生えてきたんです!」


 鏡の前で顔を撫でながら、暁はさくらに告げた。微かな青い影が浮かぶ頬を見つめる目には、喜びと戸惑いが混じっていた。


「おめでとうございます。でもそれ、剃るのは大変ですよ」


 さくらは洗面所の小窓から差し込む夕暮れの光を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。その横顔には、どこか懐かしむような、しかし同時に影を宿したような表情が浮かんでいた。


「私ね、昔は毎朝四時に起きていたんです」


 さくらの声は柔らかく、しかし確かな重みを帯びていた。


「髭剃りって、時間との戦いなんです。朝、会社に行く前に、しっかり剃って、化粧で隠して……それでも夕方には青い影が出てきてしまう。だから、重要な会議の日は、お昼休みにも剃り直していました」


 さくらは無意識に自分の頬に触れた。今ではレーザー脱毛でほとんど気にならなくなった肌だが、その感触の記憶は鮮明に残っているようだった。


「最初は本当に下手で……」


 苦笑いを浮かべながら、さくらは続けた。


「何度も切り傷を作って、血が止まらなくて。特に顎の下は難しくて。上から下に剃ると肌荒れがひどくなるけど、下から上に剃ると切り傷ができやすい。その加減が分からなくて、毎日、鏡の前で悪戦苦闘していました」


 暁は黙って聞いていた。さくらの言葉の端々から、その時期の苦悩が伝わってくる。


「でもね、一番辛かったのは、その作業自体が持つ意味だったかもしれません」


 さくらの声が少し震えた。


「毎朝、目が覚めて最初にすることが、『男性である自分』を確認させられる作業だった。鏡に映る自分の顔に生える髭を見て、それを剃るという行為自体が、『あなたは男なのよ』と言われているような……そんな気持ちになって」


 一瞬、言葉が途切れた。暁はそっとさくらの手を握った。


「特に辛かったのは、剃り残しを気にする周りの視線でした。電車の中で、誰かが私の顔をじっと見つめている。もしかして剃りの腰が……? その時の恐怖といったら……。本当に、心臓が止まりそうな思いでした」


 さくらは深いため息をついた。


「化粧をしても、髭剃り後の肌荒れが隠しきれなくて。でも、厚化粧すると今度は不自然さが目立って……。そのバランスに、毎日悩まされていました」


 暁の手を握り返しながら、さくらは少し明るい声音に切り替えた。


「今は、ホルモン治療とレーザー脱毛のおかげで、随分楽になりました。でも、あの頃の経験は、私の一部として残っています。辛い記憶だけど、同時に、今の自分に繋がる大切な記憶でもあるんです」


 さくらは暁の方を向いて、優しく微笑んだ。


「だから、暁さんの髭が生えてきたことを、純粋に嬉しく思えるんです。私が手放そうとしていたものが、暁さんにとっては待ち望んでいたもの。その不思議さを感じると、何だか胸が温かくなります」


 夕暮れの光が二人を包み込む。かつての苦悩を語りながらも、さくらの表情には確かな安らぎが浮かんでいた。それは、本来の自分に近づいていく過程で得られた、静かな自信のようにも見えた。


「私たちって、本当に面白い関係ですよね」


 さくらはそう言って、柔らかく笑った。その笑顔には、過去の痛みを受け入れ、乗り越えてきた強さが滲んでいた。



 ある晩、真夜中を回った頃、リビングのテーブルには二つの空いたココアカップが置かれていた。暁とさくらは、薄暗い明かりの中でソファに寄り添って座っていた。夜の静けさが、二人だけの親密な空間を作り出していた。


「最近、声の調子がおかしいんだ」


 暁は自分の喉に手を当てながら、静かに話し始めた。


「ホルモン治療の影響で、声が低くなってきているのは嬉しいんだけど……時々、自分でも予想できない声が出る。特に疲れている時とか、緊張している時とか」


 さくらは黙って頷きながら、暁の言葉に耳を傾けた。


「会社の電話で、急に声が裏返ったりして。そういう時、自分が何者なのかわからなくなるような……」


 言葉が途切れる。さくらは暁の手を優しく握った。


「わかります。私も声変わりの時同じような経験をしています」


 さくらは自分の腕を見つめながら続けた。


「この間、久しぶりに母に会った時、母が驚いていたんです。『肌が随分変わったわね』って」


 さくらは自分の頬に触れた。


「エストロゲンの影響で、確かに肌は柔らかくなってきている。でも、時々鏡を見ると、まだ男性的な部分が残っているように感じて……」


「僕は逆に」


 暁が言葉を継いだ。


「腕の筋肉がついてきて、シャツの着心地が変わってきたんだ。肩幅が広がって、今までのシャツがきつくなってきている」


 暁は両腕を前に出して見つめた。


「この変化は嬉しいはずなのに、同時に怖くもあって。自分の中の女性的な部分が消えていくことに、時々パニックになりそうになるんだ。自分で望んだことなのに……おかしいよね」


 さくらは自分の胸元に手を当てた。


「いいえ、暁さんの気持ち、わかります。私も体の変化に戸惑うことが多いんです。脂肪が再配分されて、体のラインが変わってきている。女性らしい体つきになってきているのは嬉しいけれど……」


 言葉を詰まらせる。


「でも、時々思うんです。これは本当に私なのかって」


 暁はさくらの方を向いた。


「僕も同じような不安を感じるよ。特に、シャワーを浴びる時とか。体が変わっていくのを実感する度に、この変化は正しいのかって」


「でも、暁さんの声が低くなっていくの、私、とても素敵だと思います」


 さくらの声が柔らかく響く。


「それに、肩幅が広がって、たくましくなってきている姿も。まるで、本来の暁さんが少しずつ現れてきているみたい」


 暁は微かに笑みを浮かべた。


「さくらさんも、どんどん女性らしくなってきている。肌の質感が変わって、動作も柔らかくなって。それを見ていると、僕も何だか嬉しくなるんだ」


 二人は短い沈黙の後、ため息をつくように笑い合った。


「私たち、随分変わってきたんですね」

「うん、でも、それは良い方向への変化なんだと思う」


 暁が立ち上がり、キッチンに向かった。


「もう一杯、ココア入れようか」

「ええ、お願いします」


 夜は更けていったが、二人の対話は続いた。体の変化について、感じる不安について、そして希望について。それは時に痛々しく、時に喜びに満ちた告白だった。


 窓の外では、東の空が少しずつ白み始めていた。新しい一日の始まりを告げるその光は、変化を受け入れようとする二人を、静かに見守っているようだった。



「さくらさんは、完璧な女性になりたいんですか?」


 ある夜、暁はふと尋ねた。


「完璧……という言葉が、最近よくわからなくなってきたんです」


 さくらは窓の外を見つめながら答えた。


「私たちが目指しているのは、既存の『完璧』な男性像や女性像なのかな、って」


 その言葉は、暁の心に深く響いた。確かに自分も、社会が求める「理想的な男性」像に囚われていたのかもしれない。


 雨の降る朝、いつもより混雑した通勤電車。暁は駅のホームに立ち、女性専用車両の前で足を止めた。これまで当たり前のように乗っていた車両。しかし今、その扉の前で立ち尽くすしかない。


「あの、すみません」


 後ろから女性の声。暁は慌てて一般車両の方へ身を寄せた。鏡に映る自分の姿は、確かに男性として認識される外見になっていた。それは嬉しいことのはずなのに、この時ばかりは複雑な感情が胸をよぎる。


 一般車両は身動きが取れないほどの混雑だった。女性専用車両の比較的余裕のある空間が、目の端に見えている。


「これも、変化の一つなんだ」


 暁は小さく呟いた。


 その日の夜、帰宅途中の暁は、前を歩く女性が自分との距離を急に広げるのに気が付いた。彼女は何度も後ろを振り返り、足早に歩いていく。暁の心に、言いようのない痛みが走った。


「僕は何もしてないのに……」


 言葉は途中で消えた。これは男性として生きることの、もう一つの現実なのだ。


 一方、さくらのアパートでは、別の種類の戸惑いが渦巻いていた。化粧台の前で、さくらは眉をひそめている。


「この口紅の色、本当に私に合ってるのかしら」


 メイクの道具が所狭しと並べられた化粧台。それらは女性としての新しい可能性を開いてくれる魔法の道具だった。でも同時に、重圧にもなっていた。


「今日は社内プレゼンがあるの。メイクが薄すぎても、濃すぎても変に思われそうで……」


 さくらは鏡に向かって何度目かの化粧直しを始めた。暁は後ろから、そんなさくらの姿を見つめていた。


「さくらさん、十分素敵ですよ」


「でも、女性として見られる以上、ある程度のメイクは必須なの。特に仕事場では」


 さくらの声には、少しの疲れが混じっていた。


 休日、二人でショッピングモールに出かけた時のこと。さくらはドレスを手に取り、うっとりとした表情を浮かべた。


「こんなの、着てみたかった」


 その瞬間の喜びに満ちた表情。しかしすぐに、現実的な懸念が差し挟まれる。


「でも、肩幅が気になるのよね……。それに、職場でこんなワンピース着たら、浮いてしまうかも」


 一方で暁は、スーツコーナーで別の種類の戸惑いを感じていた。


「このサイズ、ちょっと肩幅が合わなくて」


 店員は困惑した表情を隠しきれない。暁の体型は、既製品の男性服がぴったりとは合わない微妙なサイズだった。


 夜、二人で歩いて帰る道すがら、互いの日々の発見を話し合った。


「今日ね、エレベーターで女性が一人で乗ってきた時、急いで降りていったんだ。やっぱり警戒されてるのかな?」


 暁の声は少し沈んでいた。


「分かるわ」


 さくらは静かに応えた。


「私も男性として生きていた頃、そういう経験をしたもの。でも今は逆に、夜道で怖い思いをすることもあるの」


 二人は立ち止まり、互いの目を見つめ合った。そこには、性別という境界線を越えることで見えてきた、様々な現実への理解が浮かんでいた。


「面白いね」


 暁が呟いた。


「僕たちは、両方の世界を知ることができる」


「そうね。辛いことも多いけど、それは特別な視点を持てるということでもあるのかもしれないわ」


 街灯の光が二人を柔らかく照らしていた。男性として生きることの責任と、女性として生きることの繊細さ。それらは決して軽くない現実だった。しかし、互いの経験を分かち合えることが、大きな慰めとなっていた。


「あ、このブラウス可愛い」


 帰り道のショーウィンドウの前で、さくらが目を輝かせた。


「でも、予算的に今月は……」


「僕が買ってあげますよ」


 暁の言葉に、さくらは少し驚いた表情を見せた。


「だって、さくらさんが女性として輝く姿を見るのは、僕の幸せでもあるから」


 その言葉に、さくらの目が潤んだ。二人は手を繋ぎ、夜の街を歩き始めた。性別の境界線を越えて見えてきた世界は、確かに複雑で時に残酷だ。でも、その分だけ豊かな気づきに満ちていた。



「暁さんって、立ち方が変わってきましたね」


 ある日さくらはそう指摘した。


「え? そうですか?」


「うん。肩幅を意識するようになったのか、少し前かがみだった姿勢が自然と真っ直ぐになって……私が昔、必死に直そうとしていた癖と、ちょうど逆ですね」


 そう語るさくらの目には、懐かしさと寂しさが混じっていた。


 初夏の夕暮れ時、暁とさくらは公園のベンチに腰かけていた。夕陽に照らされた木々の葉が、優しく揺れている。


「ねぇ、暁さん」


 さくらが静かに口を開いた。


「今朝、髭を剃っている暁さんを見ていて、思い出してしまって……」


 さくらの声には、どこか懐かしさと切なさが混ざっていた。


「前も言いましたけど、私も昔、毎朝髭を剃るのが日課でした。でも、その動作が嫌で嫌で。鏡に映る自分の顔に違和感を覚えて、時には泣きながら剃っていました」


 暁は黙ってさくらの言葉を聞いていた。


「でも今、暁さんがその同じ動作をする時の表情は、なんて誇らしげなんでしょう。その喜びが、私にもよく分かるんです」


 風が二人の間を通り抜けた。


「僕も……」


 暁は少し俯きながら言った。


「今朝、さくらさんが化粧をしている姿を見ていて、不思議な気持ちになったんです」


 暁は自分の手のひらを見つめた。


「僕も昔、必死で化粧の練習をしました。女性らしく見せるために。世間に合わせるために。でも、その動作のすべてが苦しくて。それなのに、さくらさんは同じ動作を楽しそうにしている」


 二人は沈黙の中で、互いの言葉の重みを感じていた。


「髪を結ぶ時も」

「ハイヒールを履く時も」

「声の出し方も」

「歩き方も」


 言葉が重なるように、二人は話し始めた。かつての自分が必死で手に入れようとしたものを、相手は手放そうとしている。そして、自分が手放そうとしているものを、相手は大切に育もうとしている。その不思議な対称性に、二人は時として戸惑いを覚えた。


「暁さんが筋トレをしている時」


 さくらが続けた。


「私はかつての自分を思い出します。世の中の『男の子』に合わせようと思って、必死で体を鍛えていたあの頃の。でも今は……」


 さくらは自分の手首を見つめた。ホルモン治療の影響で、少しずつ細くなっていく腕。


「さくらさんがスカートを選ぶ時の真剣な表情を見ていると」


 暁も言葉を継いだ。


「僕が必死でスカートを履こうとしていた頃を思い出します。でも今は……」


 言葉が途切れた。そこには、説明しがたい感情が渦巻いていた。懐かしさ、切なさ、そして妙な安堵感。


「私たち、なんだか鏡写しみたいですね」


 さくらが小さく笑った。その笑顔には、深い理解と温かさが宿っていた。


「そうですね」


 暁も微笑んだ。


「でも、それって素晴らしいことかもしれない」


 暁は空を見上げながら続けた。


「僕たちは、お互いの過去を理解できる。相手が何を感じているのか、何を恐れているのか、何を望んでいるのか。その全てを、自分の経験として分かち合える」


 さくらは静かに頷いた。


「私が失いつつあるものが、暁さんの中で輝きを増している。暁さんが手放そうとしているものが、私の中で花開こうとしている」


 夕陽が二人の影を、長く地面に映し出していた。その影は徐々に溶け合い、一つになっていくかのようだった。


「時々、痛いくらいに分かりすぎてしまう」


 暁が呟いた。


「でも、その痛みも含めて」

「私たちなんですね」


 さくらが言葉を継いだ。


 二人は再び沈黙した。しかし、それは重たい沈黙ではなかった。互いの存在を深く感じ合える、温かな沈黙だった。空には、夕焼けが茜色のグラデーションを描いている。境界線のような、そんな空の色を見上げながら、二人は肩を寄せ合った。


 痛みを伴う共感は、時として最も深い理解をもたらす。暁とさくらは、その真実を身をもって知っていた。



「最近、生理が完全に止まったんです」


 ある朝、暁は鏡の前で呟いた。ホルモン治療の効果で、徐々に女性としての身体機能が失われていくことは理解していた。でもそれが実際に起きた時、どこか切ない気持ちになった。


「私も、男性としての機能が徐々に失われていくのを感じています」


 さくらは暁の肩に手を置きながら答えた。


「でも、それは私たちが本当の自分に近づいている証でもあるんですよね」


 互いの体の変化を見守りながら、二人の関係は深まっていった。それは単なる恋愛感情を超えた、魂の共鳴のような何かだった。


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