心の距離 ~麗華の秘めた想い~
春から中学生になった麗華は、日に日に反抗的になっていった。特にさくらに対して、些細なことで声を荒げることが増えていた。
「麗華、もう少し早く帰ってきてくれると安心なんだけど」
さくらが優しく諭すように言う。
「うるさいなあ! 友達と遊んでただけじゃない。中学生なんだから、そのくらい自由にさせてよ!」
麗華は鞄を乱暴に床に投げ出した。
「でも、心配だから……」
「もう! お母さんが心配性なだけでしょ!」
そんなやり取りが、毎日のように繰り返されていた。さくらは必死に娘の気持ちを理解しようとするものの、麗華の心の扉は固く閉ざされたままだった。
六月のある夕方、いつものように帰宅が遅れた麗華に、さくらが声をかける。
「麗華、遅くなるなら連絡してくれると嬉しいかな」
「だから、友達と遊んでただけだってば! なんでそんなにうるさいの?」
「母親なんだから、心配するのは当たり前でしょう?」
「お母さんにあたしの気持ちはわかるわけないよ! だってお母さん、普通のお母さんじゃないじゃない!」
その言葉が、空気を凍らせた。
さくらの顔から血の気が引いていく。麗華も自分の言葉の重みに気づき、一瞬たじろぐ。
「麗華……」
それまでソファで新聞を読んでいた暁が、ゆっくりと立ち上がる。重い空気が部屋を満たす。
バシッ
乾いた音が響き渡る。暁の平手が麗華の頬を打ったのだ。これまで一度も手を上げたことのない父の行動に、麗華は目を見開いた。
「言っていいことと、悪いことがある」
暁の声は低く、抑えた怒りに満ちていた。麗華の目に涙が溢れ始める。
「もうパパもママも知らない!」
麗華は自分の部屋に駆け込み、ドアを乱暴に閉める。鍵をかける音が響く。
さくらはその場に立ち尽くしたまま、震える手で自分の腕を抱きしめている。暁は静かにさくらに歩み寄り、優しく抱きしめた。
「私が……私が普通の母親じゃないから……」
さくらの声が震える。
「違うよ。さくらは最高の母親だ」
暁の声は確かな強さを持っていた。
夕食の時間が来ても、麗華は部屋から出てこなかった。テーブルには三人分の食事が置かれたまま、冷めていく。
「あの子の言うとおりかもしれない」
さくらは俯いて言った。
「私には、母親としての資格が……」
「さくら」
暁は真剣な表情でさくらの手を取った。
「君は誰よりも母親らしい母親だ。麗華のことを想い、麗華のために一生懸命やってくれているのは、僕が一番わかってる」
でも、さくらの表情は晴れない。
「でも私は……生むことすらできなかった……。麗華を生んでくれたのは暁さん……私は……」
「それは関係ない」
暁はきっぱりと言い切った。
「血のつながりや、産んだかどうかなんて、本当の親子の絆には関係ない。大切なのは、心でつながっているかどうかだけだ」
真夜中を過ぎたころ、麗華の部屋のドアがゆっくりと開いた。
「おなかすいた……」
小さな声でそう言って、麗華がダイニングに現れる。さくらは黙って立ち上がり、冷めた夕食を温め直した。
「いただきます……」
麗華はご飯を口に運ぶ。しかし、その箸が震えている。やがて、大きな涙が頬を伝い始めた。
「ごめんなさい……」
声が震える。
「ごめんなさい……あたし、あんなこと言うつもりじゃなかった……言っちゃいけないってわかってた……でも、あたし……」
さくらが静かに麗華の横に座り、そっと肩を抱く。
「ごめんなさい! ごめんなさい! あたし、パパとママが大好きなの! 本当に好きなの! だから言っちゃったの! ごめんなさい! ごめんなさい!」
麗華の声は泣きじゃくり、嗚咽が止まらなくなっていく。
「いいんだよ、麗華。もうわかってる」
暁も麗華の反対側に座り、優しく頭を撫でた。
「好きだからこそ、傷つけ合うこともある。それも家族なんだよ」
深夜のダイニングで、三人は長い時間抱き合っていた。外は闇に包まれていたが、その闇は不思議と温かく、彼らを包み込んでいるようだった。
翌朝、いつもより早く目覚めた麗華は、キッチンでお弁当を作るさくらの姿を見つめていた。
「お母さん……」
「あら、麗華。早いのね」
さくらは優しく微笑む。その笑顔に、麗華は胸が締め付けられる思いがした。
「お弁当、私も作るの手伝うよ」
麗華は母の横に立つ。さくらは少し驚いた表情を見せたが、すぐに嬉しそうな顔になった。
「ありがとう。じゃあ、玉子焼きをお願いできる?」
二人で並んで料理をする姿を、暁は新聞の陰から静かに見つめていた。朝日が差し込むキッチンに、確かな希望の光が満ちていた。




