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【LGBTQ恋愛結婚育児小説】境界線上の私たちー揺れる体、寄り添う心ー  作者: 霧崎薫
蝶の輪郭線、境界を超えて ~大和田さくらの物語~

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第五章:羽化の痛み

 大学生活は、さくらにとって大きな転換点となった。


 地元を離れ、東京の大学に進学。新しい環境は、新しい自分を試す機会でもあった。


 入学式の日、さくらは初めて「女性」として公の場に立った。控えめなメイク、少し伸ばした髪、そしてさりげない女性らしい仕草。それは、長年の観察と練習の成果だった。


「初めまして、大和田さくらです」


 自己紹介の時、声が少し震えた。でも、その震えは不安ではなく、期待に近いものだった。


 大学では、性同一性障害(GID)の診断を受けるための準備も始めた。学内の保健センターで紹介されたジェンダークリニックに、定期的に通い始める。


「大和田さん、あなたの気持ちはよく分かります」


 担当医の村瀬先生の言葉は、温かく、かつ専門的だった。


「でも、この道のりは決して簡単ではありません。覚悟はできていますか?」


 さくらは強く頷いた。


「はい。これは、私の人生をかけた選択です」


 診断のための面談が始まった。それは同時に自己理解を深める機会でもあった。


 大学では、LGBT+サークルにも参加した。そこで初めて、自分と同じような経験を持つ仲間たちと出会う。


「私も最初は怖かった」


 先輩の沙耶さやは、優しく微笑みながら語った。


「でも、ここにいる皆が、それぞれの形で自分らしく生きようとしている。それが、私の勇気になったの」


 その言葉は、さくらの心に深く響いた。


 二年生になる直前、さくらは重要な診断書を手に入れた。性同一性障害の正式な診断。それは、新しい人生の始まりを告げる証明書のようだった。


「おめでとう」


 母親は電話口で涙声になった。


「あなたの新しい人生の第一歩ね」


 父親からは短いメールが届いた。

「頑張れ」

 たったそれだけ。でも、その言葉の重みは、さくらの心をしっかりと支えた。


 ホルモン治療が始まったのは、二年生の夏だった。最初の注射の日、さくらは緊張で手が震えていた。


「これが、私の選んだ道」


 鏡に向かって言い聞かせる。注射の痛みは、新しい人生への第一歩の証だった。


 治療の効果は、少しずつ現れ始めた。肌が柔らかくなり、体の線が徐々に変化していく。声は上ずりがちになり、感情の起伏も大きくなった。


 そんな中、予期せぬ出会いがあった。


 大学の図書館で、さくらは偶然、高校時代の同級生と鉢合わせた。


「大和田……くん?」


 かつてのクラスメイト、篠原真希しのはらまき。高校時代、たまに視線が合う程度の関係だった。今、彼女は紺のワンピースに身を包み、首を少し傾げながらさくらの姿を見つめている。


 相手の困惑した表情に、さくらは一瞬凍りついた。


「ああ、私……」


 言葉に詰まる。でも、思い切って真実を告げることにした。


「今は、私、さくらとして生きています」


 図書館の書架の間に、重たい空気が流れた。夕暮れの光が窓から差し込み、埃っぽい空気が金色に輝いている。さくらは、息を止めたまま相手の反応を待った。心臓の鼓動が、自分の耳に響くほど大きく感じられた。


 沈黙が、まるで永遠のように感じられた。


 しかし――。


 真希の唇が、ゆっくりと優しい弧を描いた。それは、打ち解けた微笑み。その表情には、驚きよりも、どこか安堵の色が浮かんでいた。


「そう。良かった」


 その言葉は、さくらの予想をはるかに超えていた。


「え?」


 さくらの声が、図書館の静寂の中で小さく震えた。


「高校の時、あなたがすごく苦しそうだったの、知ってた。でも、どう声をかけていいか分からなくて」


 真希の目には、申し訳なさと、懐かしさと、そして確かな温かさが宿っていた。その言葉に込められた三年前からの想いが、さくらの心に深く染み入る。


 さくらの視界が、突然ぼやけ始めた。瞬きをする度に、温かい雫が頬を伝う。図書館の薄暗がりの中で、さくらは必死で声を抑えながら涙をこぼした。それは悲しみの涙ではなく、長年の孤独が突然解かされたような、深い感動の涙だった。


「ごめんなさい、私……」


 さくらが涙を拭おうとすると、真希がそっとハンカチを差し出してきた。優しい花柄の刺繍の入った白いハンカチ。その優しさに、さくらの涙は更に溢れ出た。


「泣かないで。化粧が落ちちゃうわよ」


 真希の声には、かすかな笑みが混じっていた。その言葉に、さくらも思わず小さく笑った。女性同士の何気ない会話。それは、さくらが長年夢見てきた自然な交流だった。


 窓から差し込む夕陽が、二人の横顔を優しく照らしている。書架の影が、縞模様のように床に伸びていた。


 図書館の静寂の中で、過去と現在が、そして理解と受容が、確かに交差する瞬間だった。


 三年生になると、さくらの外見は更に女性らしさを増していった。ホルモン治療の効果で、体つきも声も、より自然な女性らしさを帯びてきた。


 しかし、同時に新たな課題も浮上してきた。就職活動だ。


「性別欄はどうしましょう?」


 キャリアカウンセラーとの面談で、さくらは悩みを打ち明けた。


「まだ戸籍は男性のままだけど、見た目は……」


「あなたの意思を尊重しましょう」


 カウンセラーは理解を示してくれた。


「ただし、企業によって対応は様々です。覚悟は必要かもしれません」



 三月の肌寒い朝、さくらはエントリーシートを前に、また立ち止まっていた。パソコンの画面に表示された性別欄。「男性」「女性」のラジオボタンが、さくらの心を締め付ける。


「戸籍上はまだ……」


 ため息が漏れる。スマートフォンには、既に十件の「お見送り」メールが溜まっていた。正直に性別欄を「男性」とし、備考欄で状況を説明したもの。「女性」にチェックを入れたもの。どちらのパターンも、結果は同じだった。


 リビングテーブルの上には、就活用のリクルートスーツが畳まれている。黒地の生地は、まるで「普通」という重圧のようにさくらを見下ろしていた。


「大和田さん、面接官の前では、できるだけ自然体で」


 キャリアカウンセラーの言葉が蘇る。でも、その「自然体」が何なのか、さくらにはもう分からなくなっていた。


 ある企業の一次面接。面接官は三人。中央の面接官が、さくらの履歴書に目を落としたまま、唐突に切り出した。


「戸籍と、その……見た目が異なるようですが」


 さくらは、何度も練習した言葉を口にする。


「はい。私は性同一性障害の診断を受けており、現在治療を継続しながら、就職活動に……」


「治療中、ということは、まだ途中ということですか?」


 左の面接官が、眉をひそめながら遮る。その表情には、明らかな不快感が浮かんでいた。


「はい。ただ、治療は計画的に進んでおり……」


「我が社には、そういった……特殊な事情の方を受け入れる体制が、まだ整っていません」


 中央の面接官の言葉は、事務的で冷たかった。


 別の企業では、もっと露骨な対応を受けた。


「お客様に不快感を与える可能性は排除できません」

「更衣室やトイレはどうするんですか?」

「社員の理解を得るのは難しいでしょう」


 理由は様々でも、結論は同じ。さくらの存在そのものが、「問題」として扱われる。


 四月も中旬に差し掛かった頃、さくらは自分の部屋で崩れ落るように泣いていた。パソコンの画面には、また一つの「お見送り」メールが表示されている。


「私が、私のままで働ける場所なんて、本当にあるの?」


 窓の外では、桜が散り始めていた。その光景が、どこか自分の状況と重なって見えた。


 そんな時、一通のメールが届いた。LGBT支援団体から紹介された企業からだった。


「面接のご案内」


 その企業の人事担当者は、さくらの目を真っ直ぐに見て言った。


「大和田さん、私たちが見たいのは、あなたの能力と可能性です」


 その言葉に、さくらの目に涙が浮かんだ。


「ダイバーシティ&インクルージョンは、私たちの重要な価値観の一つです。あなたの経験は、むしろ私たちの企業文化をより豊かにしてくれると信じています」


 面接を終えて外に出た時、春の陽射しが眩しく感じられた。


「自分の居場所は、必ずある」


 さくらは空を見上げながら、強く心に誓った。たとえ道のりが険しくても、自分らしく生きられる場所を、必ず見つけ出すと。


 結果として、さくらはその企業から内定をもらえなかった。でも、その経験は大きな希望となった。自分を受け入れてくれる場所が、確かにこの社会にはある。その確信が、さくらに諦めない力を与えてくれた。


 五月の連休明け。さくらは、証券会社の最終面接に臨んでいた。


「大和田さん、あなたのような経験を持つ方こそ、多様な価値観を持つお客様の気持ちに寄り添えるのではないでしょうか」


 人事部長の言葉は、温かみがあった。


「ご自身の経験を、どう仕事に活かしていきたいですか?」


 さくらは、真っ直ぐに答えた。


「私は、『普通』ではない道を歩んできました。だからこそ、一人一人の人生に、様々な可能性があることを知っています。その経験を活かし、お客様一人一人の人生に寄り添える営業担当者になりたいと考えています」


 内定の通知を受け取った時、さくらは思わず声を上げて泣いた。それは悔しさや苦しさの涙ではなく、純粋な喜びの涙だった。


 就活用のリクルートスーツを畳みながら、さくらは微笑んだ。このスーツは、もう重圧の象徴ではない。それは、自分らしさを貫いた戦いの勲章のように感じられた。


 窓の外では、新緑が眩しく輝いていた。その鮮やかな緑の中に、さくらは新しい人生の始まりを見た気がした。



 内定を手にした時、さくらは心の中で叫んでいた。


「私は、私の道を歩んでいる」


 四年生の秋。紅葉が美しい季節に、さくらは新たな決意をした。性別適合手術を受けることを決断したのだ。


 保護者の同意書を求めて実家に帰った時、両親は既に決心していた。


「あなたの幸せのためなら」


 母親は、同意書にためらうことなくサインをした。

 父親も、黙って頷いた。


「ありがとう」


 その言葉に込められた思いは、言葉では言い表せないほど深いものだった。



 大学の一人暮らしのアパートで、さくらはベッドに腰掛けていた。膝の上には、少し色褪せた紺色の日記帳。表紙には中学校の校章のシールが、かすかに剥がれかけている。月城先生から卒業前日にもらった、あの日記帳だった。


 窓の外では、大粒の雪が静かに降っていた。部屋の中は薄暗く、デスクスタンドの温かな明かりだけが、ページを照らしている。


「懐かしい……」


 さくらは小さく呟きながら、最初のページを開いた。不器用な文字で書かれた最初の日付。中学三年生、二月十四日。


『今日、月城先生から日記帳をもらった。私の気持ちを、すべて分かってくれたみたい。先生は「これからの自分を、大切に記録していってね」って言ってくれた。でも、どう書けばいいんだろう。自分が何者なのか、まだよく分からないのに』


 その頃の自分は、まだ「翔」として生きていた。でも、その文字の端々に、既に「さくら」が芽生えようとしていた。


 ページをめくると、高校一年生の春の記録が出てきた。


『今日、また制服を着るのが辛かった。スラックスの感触が、まるで自分を縛り付けているみたい。でも、美咲が「あなたらしく生きていいんだよ」って言ってくれた。少しだけ、心が軽くなった気がする』


 さくらは深いため息をついた。その頃の苦しみは、今でも鮮明に思い出せる。カーテンの隙間から漏れる街灯の明かりが、日記帳の上でゆらめいた。


 更にページを進めると、高校二年生の冬の記述があった。丸みを帯びた文字は、少しずつ女性らしい柔らかさを帯び始めていた。


『今日こっそり、お姉ちゃんの古い化粧品を借りた。自分の顔に口紅を塗る時、手が震えて上手く引けなかった。でも、鏡の中の自分は、確かに笑っていた。これが本当の私なんだって、その時初めて確信できた気がする』


 その記述の横には、小さなリップの染みが付いていた。きっとその時の口紅の跡なのだろう。さくらは思わずその染みに触れた。指先に、かすかに懐かしい感触が残る。


 そして、高校三年生の春。決意の言葉が、力強い文字で刻まれていた。


『両親に話そうと思う。もう、隠し続けるのは限界だ。たぶん、理解してもらえないかもしれない。でも、このまま嘘をつき続けるのは、もっと辛い。私は、私らしく生きたい。さくらとして、生きていきたい』


 その頁には、小さな涙のシミがいくつも残っていた。ページを開いた今でも、あの時の涙の温度を感じることができる。


 最後のページには、大学受験直前の記述があった。


『東京での新生活。それは私にとって、新しい人生の始まりだ。誰も私の過去を知らない場所で、本当の私として生きていく。怖いけど、でも希望に満ちている。月城先生、私、頑張ります』


 さくらは静かに日記を閉じた。四年の歳月を経て、あの頃の希望は、少しずつ現実になっている。ホルモン治療で変わりつつある体。女性として働く未来。そして、まもなく予定されている性別適合手術。


 窓の外の雪は、いつの間にか激しさを増していた。さくらは立ち上がり、窓際に歩み寄った。街灯に照らされた雪は、まるで無数の蝶が舞っているかのように見える。


「ありがとう」


 さくらは日記帳を胸に抱きながら、小さく呟いた。この言葉は、過去の自分に向けられたものだった。あれほどの苦しみの中でも、希望を持ち続けた自分に。そして、その一歩一歩を見守ってくれた月城先生に。


 デスクの上には、手術の日取りを記した病院からの通知が置かれていた。新しい人生の扉が、今まさに開こうとしている。さくらは再び日記帳を開き、新しいページに向かってペンを走らせ始めた。


『今日、私は過去の自分と出会った……』


 書き終えたさくらは顔をゆっくりとあげた。


「私は、ここまで来たんだ」


 窓の外では、雪が静かに降っていた。真っ白な雪は、まるで新しい人生の白紙のページのようだった。


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