第四章:蛹の闇
高校生活は、より深い自己との対峙の時期となった。
県立の共学校に進学した翔は、この機会を新しい出発点にしようと決意していた。髪を少し伸ばし、制服のサイズも最小限に抑えた。それでも、男子の制服を着ることへの違和感は消えない。
「翔、その髪型、ちょっと派手すぎないか?」
父親の眉間に、心配の色が浮かぶ。
「大丈夫だよ。今は、こういうのも普通だから」
精一杯の明るさを装って答える。でも、その言い訳が苦しいものだということは、翔自身が一番よく知っていた。
高校では、新たな戦いが始まった。思春期真っ只中の男子生徒たちの会話についていくことが、より困難になっていく。
「おい、翔! 放課後カラオケ行かない? 女子も誘ってさ」
クラスメイトの誘いを、翔は優しく断る。理由は言えない。男子として女子と関わることへの違和感。自分の中の女性性が、より強く主張してくるから。
その代わり、翔は演劇部に入部した。そこなら、違う自分になれる。衣装を着け、メイクを施し、別の人格を演じることができる。それは、翔にとって唯一の解放の場所だった。
「大和田くん、女役やってみない?」
顧問の先生の提案に、翔の心臓が大きく跳ねた。でも、表面上は困惑したような表情を作る。
「え? 僕が?」
「うん、繊細な演技力があるから、きっと素敵な女性像を作れると思うの」
その役をもらった日、翔は久しぶりに泣いた。嬉し泣きだった。
舞台の上での「女性」としての時間は、翔にとって真実の瞬間だった。長いスカートを翻し、優雅な仕草で演技する。それは演技ではなく、本当の自分の解放だった。
しかし、その幸せは長く続かなかった。
「なんか、大和田って女っぽくね?」
「演劇部で女役やってるらしいよ」
「気持ち悪い……」
陰口は、次第に大きくなっていった。
バスケットボールの授業が終わり、男子更衣室に戻った瞬間から、翔の心拍は早くなり始めた。汗ばんだユニフォームが肌に張り付く感触が、自分の肉体をより意識させ、その感覚だけで吐き気を催しそうになる。
「おい、見ろよ。俺の腕、また太くなったぜ」
中村が得意げに上腕を誇示する声が、狭い更衣室に響く。周囲から歓声と冗談が飛び交う。
「すげぇな! 筋トレ効いてんじゃん」
「俺なんか、この胸筋見てくれよ」
翔は隅の方で、できるだけ存在を消すように背中を丸めて立っていた。目線は床に固定したまま。誰とも視線を合わせないよう、必死だった。
「なぁ翔、お前も見てみろよ」
突然声をかけられ、翔は小さく体を震わせた。
「あ、ああ……すごいな」
曖昧に返事をする。早く着替えて、ここから出たい。でも、慌てて着替えれば余計に注目を集めてしまう。その板挟みが、更に心臓を締め付ける。
「つーか、翔って全然筋肉つかねぇよな」
「おい、脇毛薄くね? 男なのにウケる」
からかうような笑い声。それは単なる冗談のつもりなのかもしれない。でも、翔の耳には、自分の存在全てを否定されるような言葉に聞こえた。
制服に着替える手が震える。ボタンを留める指が、妙に女性的に見えることにも嫌悪感が募る。鏡を見ないように必死で、でも時折目に入る自分の体。それは確実に男性として成長を始めていた。その事実が、背筋に冷たい戦慄を走らせる。
「なぁ、この前付き合い始めた彼女とさ……」
下品な話題が始まる。興奮した声と下卑た笑い声が混ざり合う。翔は耳を塞ぎたかった。自分が女性として恋愛対象として語られる妄想と、男性として下品な会話に参加することへの嫌悪感が、同時に胸の中で渦を巻く。
「翔も彼女とかいねぇの?」
その質問に、喉が締め付けられる感覚。
「いや、まだ……」
言葉を濁す。本当は、その「まだ」という言葉自体が嘘だった。恋愛への憧れはある。でも、それは彼らが想像するものとは全く違う形だった。
やっと着替えを終えた翔は、誰よりも早く更衣室を出た。廊下に出た途端、深いため息が漏れる。背中を壁に預け、閉じた目から一筋の涙が零れ落ちた。
「もう少しだけ……」
自分に言い聞かせる。この苦痛から解放される日が来ることを信じながら。でも今は、次の授業のベルが鳴るまでの数分間、誰にも見られない場所で、自分の心の叫びと向き合うしかなかった。
翔の影が、夕暮れ時の廊下に長く伸びていた。それは少年の影のようで、少女の影のようで、どちらとも判別がつかない曖昧な形をしていた。ちょうど、翔の心そのもののように。
二年生の夏。ある出来事が、翔の人生を大きく変えることになった。
文化祭の準備中、演劇部の衣装部屋で一人メイクの練習をしていた時、副部長の美咲が入ってきた。
「あ、ごめん。邪魔したかな」
慌てて化粧を落とそうとする翔を、美咲は静かに見つめていた。
「大和田くん、ずっと気になってたんだけど……」
心臓が止まりそうになる。
「あなた、本当は女の子なんでしょ?」
その言葉に、翔の目から涙があふれ出た。
「違う、僕は……」
否定しようとする言葉が、喉の奥で詰まる。
「大丈夫だよ。私、実は……お姉ちゃんがトランスジェンダーなの」
美咲の優しい微笑みに、翔の防壁は一気に崩れ落ちた。
「私……私……」
言葉にならない思いが、嗚咽となって溢れ出る。
「苦しかったね」
美咲は、翔を優しく抱きしめた。
放課後の演劇部の衣装室。夕暮れの光が、窓から斜めに差し込んでいた。翔と美咲は向かい合って座り、誰にも邪魔されない静かな時間を共有していた。空気には、化粧品と布の匂いが漂っている。
「お姉ちゃん……その時はまだお兄ちゃんだったけど……もね、最初は本当に悩んでたの」
美咲は、ハンガーに掛かった衣装を整理しながら、静かに語り始めた。
「でも、道はあるって気付いたの。それが、お姉ちゃんの人生を変えたって」
翔は息を詰めて聞いていた。美咲の手元には一冊のノートがあった。表紙には「Road to Myself」と英語で書かれている。
「これ、お姉ちゃんが集めた情報なの」
美咲がノートを開くと、びっしりと書き込まれたメモが現れた。医療機関の名前、手続きの流れ、必要な費用……。それは、まるで地図のように、未知の世界への道筋を示していた。
「ホルモン治療っていうのは、体を少しずつ変えていくの。女性ホルモンを使って、体の中から女性らしさを育てていくの」
翔の手が、無意識に胸元に触れる。
「本当に……変われるの?」
声が震えていた。
「うん。お姉ちゃんも、今ではこんなに綺麗な女性になったの」
美咲はスマートフォンを取り出し、写真を見せた。そこには、まるでモデルのような美しい女性が写っていた。
「え? これが、お姉さん?」
「うん。でも、ここまでは簡単じゃなかったって。特に最初の一歩が、一番勇気がいったって」
美咲は、ノートのページをめくっていく。
「性別適合手術っていうのは、体の性別を完全に変える手術。これは、ホルモン治療よりもずっと大きな決断が必要になる。でも、これを受けることで、法的な性別も変更できるようになるの」
翔は、ノートに書かれた文字の一つ一つを、まるで命綱のように見つめていた。今まで、ぼんやりとしか見えなかった未来が、少しずつ具体的な形を持ち始める。
「私も……私も、なれるの?」
声が掠れる。目に涙が溢れる。
「もちろん」
美咲は優しく微笑んだ。
「でも、覚えておいてほしいことがあるの」
美咲は真剣な表情になった。
「これは、決して簡単な道のりじゃない。時間も、お金も、そして何より強い決意が必要。でも……」
美咲は翔の手を優しく握った。
「一人じゃないってこと。お姉ちゃんみたいに、この道を歩んできた人たちがいる。そして……」
美咲の目が、真っ直ぐに翔を見つめる。
「私も、そばにいるから」
夕日が部屋を赤く染めていく。その光の中で、翔は初めて、具体的な希望を見出していた。ノートに書かれた情報の一つ一つが、これまでの絶望を少しずつ光に変えていく。
「美咲さん……」
翔は震える手で、ノートのページに触れた。
「これ、コピーしてもいい?」
「もちろん。でも、このノート自体をあげる。お姉ちゃんも、きっと喜ぶと思う」
美咲は微笑みながら、ノートを翔に差し出した。
「これからが、本当の始まりだよ」
翔は大切な宝物を受け取るように、そのノートを胸に抱きしめた。窓の外では、夕陽が沈もうとしていた。でも翔の心の中では、確かな夜明けが始まろうとしていた。
「ありがとう……」
その言葉には、これまでの人生で感じてきた全ての孤独と、これから始まる希望への思いが、込められていた。
「私、さくらになりたいの」
放課後の誰もいない教室で、翔は初めて他人に本当の名前を告げた。
「さくら……素敵な名前ね」
美咲の言葉に、翔――いや、さくらの心は大きく震えた。
◆
それは、放課後の薄暗い男子トイレだった。
さくらは洗面台の前で、できるだけ早く手を洗おうとしていた。この場所には長居したくない。男子トイレに入ること自体が、いつも大きな精神的負担だった。
その時、背後でドアが開く音がした。振り返ると、野球部の三年生が三人、入り口に立っていた。彼らの目つきに、ただならぬものを感じ取り、さくらは無意識に一歩後ずさった。
「なあ、大和田」
最も体格の良い生徒が一歩前に出た。倉持という名前だった。
「お前さ、演劇部で女装してんだってな」
その言葉に、さくらの背筋が凍る。
「違う、あれは役として……」
言葉を遮るように、倉持が壁を殴った。大きな音が、狭いトイレに響き渡る。
「気持ち悪いんだよ。お前みたいなのがいるのは」
もう一人が後ろから回り込み、さくらの逃げ道を塞いだ。
「別に、誰にも迷惑はかけてないし……」
震える声で言い訳をしようとした瞬間、最初の平手打ちが頬を掠めた。
痛みより先に、屈辱が込み上げてきた。目から涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。
「お前、本当にホモなのか?」
倉持が首筋を掴んできた。息が詰まる。
「違う……私は……」
その時、さくらの口から思わず「私」という言葉が漏れた。三人の目つきが、一層険しくなる。
「私だって? お前、本気で女のつもりか?」
二発目の平手打ちが、反対の頬を打った。よろめいて洗面台に寄りかかる。逃げたい。でも、足が動かない。全身が恐怖で縛り付けられたようだった。
その時、トイレのドアが勢いよく開いた。
「大和田先輩! 衣装合わせの時間です!」
美咲の明るい声が響く。彼女は状況を一目で理解したようだった。
「あ、すみません。先生が探してたので……」
演劇部の顧問の名前を出しながら、美咲は自然な表情で三人の間を縫うように入ってきた。
「倉持先輩も、野球部の練習時間じゃないですか?」
美咲の冷静な声に、三人は一瞬たじろいだ。
「チッ」
倉持が舌打ちをする。
「今日は見逃してやる。でも、次はないからな」
三人は、乱暴にドアを開けて出ていった。
その瞬間、さくらの膝から力が抜けた。
「大丈夫?」
美咲が駆け寄ってくる。その腕の中で、さくらは震えが止まらなかった。
「ごめんね、もっと早く来るべきだった」
美咲の声も震えていた。
「私が廊下で倉持たちの会話を聞いて……」
さくらは黙ったまま、ただ美咲にしがみついていた。頬の痛みより、心の痛みの方が大きかった。自分の存在が、こんなにも他人を不快にさせるのか。自分が「普通」ではないというだけで、こんな仕打ちを受けなければならないのか。
放課後の夕日が、トイレの小窓から差し込んでいた。その光に照らされた床には、さくらの落とした涙が小さな染みを作っている。
「帰ろう」
美咲が優しく囁いた。
「もう大丈夫。私が付いてるから」
その日以来、さくらは男子トイレに行くのを極力避けるようになった。必要な時は、保健室のトイレを借りた。それは不便だったが、それでも恐怖に怯えるよりはましだった。
頬の痣は一週間ほどで消えた。でも、心の傷は簡単には癒えなかった。夜、目を閉じると、あの時の光景が何度も蘇ってきた。自分の存在を否定されることへの恐怖。社会の中で「異物」として扱われることへの不安。それらは、さくらの心に深い影を落とした。
けれど、その出来事は同時に、確かな絆も生んでいた。美咲との友情は、より深いものとなった。彼女の存在が、さくらの支えとなった。
「いつか、必ず変わるよ」
美咲はよくそう言った。
「私たちが、この社会を変えていくの」
その言葉は、さくらの心の傷を少しずつ癒していった。苦しい経験は、確かに傷跡を残した。でも、その傷跡は同時に、より強くなるための糧ともなった。
◆
「やっぱり、私は間違ってるのかな」
夜、鏡に向かってつぶやく。でも、鏡の中の自分は、もう昔の「翔」ではなかった。確かに女性としての自分が、そこにいた。
三年生になって、さくらは重要な決断をした。両親に打ち明けることを決意したのだ。
その夜は、人生で最も長い夜に感じられた。
その日の夕食後、さくらは両親に向き合っていた。人生で最も長い十秒間。リビングテーブルの上には、母の入れた番茶が三つ。湯気が立ち上り、また消えていく。窓の外では、三日月が薄明かりを投げかけている。
「お父さん、お母さん。私……話があります」
自分の声が、まるで別人のもののように聞こえた。喉が乾いて、舌が上手く動かない。けれど、もう後戻りはできない。これまで何度も心の中でリハーサルを重ねてきた言葉。それでも、実際に口に出そうとすると、全身が小刻みに震えた。
「どうしたの? 翔」
母親の優しい声に、さくらの目から涙が溢れそうになる。
「私……私、ずっと嘘をついて生きてきました」
父親が新聞から目を上げ、真剣な眼差しを向けてきた。その視線に耐えきれず、さくらは畳の目を見つめながら続けた。
「小さい頃から、自分の体が、どこか他人のもののように感じていました。男の子として育てられることが、毎日毎日、苦しくて……」
言葉が詰まる。喉の奥が熱くなる。番茶に手を伸ばそうとしたが、震える指先が器にぶつかり、茶が少しこぼれた。
「ごめんなさい!」
慌てて立ち上がろうとするさくらを、母親が制した。
「いいのよ。続けて」
母の声は、かすかに震えていた。
「私……本当は、女性として生きたいんです。自分の体が男性であることが、耐えられないほど苦しいんです。毎朝、鏡を見るのが怖いんです。自分の声を聞くのが怖いんです」
一度口を開くと、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「制服を着る時、体育の着替えの時、プールの授業の時……いつも、いつも、自分が偽物のような気がして。でも、それを誰にも言えなくて。言ったら、きっと両親を悲しませると思って……」
父親が咳払いをした。その音に、さくらの言葉が途切れる。
「私、もう限界なんです。これ以上、男性として生きていけない。本当の自分として生きたい。女性として、さくらとして生きたいんです」
最後の言葉を告げた時、さくらの頬を大粒の涙が伝っていた。
「こんな息子で、申し訳ありません。こんな、中途半端な存在で、本当にごめんなさい……」
深々と頭を下げるさくらに、長い沈黙が降りた。
時計の秒針の音だけが、異様に大きく響く。五秒、十秒、十五秒――。
「翔……いいえ、さくらちゃん」
母親の声が、静かに沈黙を破った。
「顔を上げて」
おずおずと顔を上げると、母親の頬にも涙が光っていた。
「ごめんなさい。私たち、あなたの苦しみに気付いてあげられなくて」
母親の言葉に、さくらの涙腺が決壊した。
「お母さん……」
父親はまだ何も言わない。ただ、その大きな手が震えているのが見えた。
「パパ……私……」
「待ってくれ」
父親の声は、普段より低く沈んでいた。
「今は……何も言えない。考える時間が、必要だ」
その言葉は冷たくはなかった。ただ、困惑と戸惑いに満ちていた。
「でも」
父親は続けた。
「お前が、ここまで一人で抱え込んでいたことは……父親として、申し訳ない」
◆
その夜、さくらの部屋の前で、母親が小さくノックをした。
「入っていい?」
扉が開くと、母親は幼い頃のアルバムを持っていた。
「これ、覚えてる?」
五歳の誕生日の写真。ケーキの前で笑う翔。今から思えば、その笑顔の裏に、既に小さな影が潜んでいたのかもしれない。
「さくら」
母親は静かに言った。
「あなたの人生よ。あなたの選択を、私たちは尊重したい」
その言葉に、さくらは母親にしがみついて泣いた。十数年分の涙が、一気に溢れ出る。
窓の外では、三日月が優しく輝いていた。それは、新しい人生の始まりを告げる光のように見えた。
父親の受容には、やはり時間がかかった。でも、少しずつ理解を示してくれるようになった。特に、さくらが真摯に将来を語る姿に、父親は心を動かされたようだった。
卒業式の日。さくらは男子の制服を着て壇上に立った。それが最後の「演技」だった。
証書を受け取る時、さくらは心の中で誓った。
「これからは、本当の私として生きていく」
桜の花びらが、卒業生たちの上を優しく舞っていた。その光景は、まるで蛹から羽化しようとする蝶のように美しかった。




