第三章:繭の中で
中学校への入学は、翔にとって新たな試練の始まりだった。
制服の採寸の日。男子生徒用の詰め襟学生服を前に、翔は深いため息をついた。黒い布地が、まるで檻のように感じられる。
「似合うじゃないか」
父親は誇らしげに言った。でも、鏡の中の自分は、どこか違和感に満ちていた。隣で採寸を受ける女子生徒たちのセーラー服が、切ないほど魅力的に見える。
声変わりが始まったのは、一年生の夏休み前だった。
「おい、翔の声、おかしくね?」
クラスメイトにからかわれる。確かに、声は低くなっていた。それは、男性として成長している証。でも、翔にとってそれは、取り返しのつかない変化の始まりだった。
夜、一人で泣いた。誰にも言えない。誰も分かってくれない。自分の体が、望まない方向に変化していくことへの恐怖と無力感。
体育の授業が、特に辛かった。
「もっと力強く! 男らしく!」
教師の声が、体育館に響く。バスケットボールの練習中、翔は必死で「普通の男子生徒」を演じる。でも、その演技は次第に重荷になっていく。
ある日、保健室で一冊の本を見つけた。『ジェンダーとアイデンティティ』。その本の中に、初めて「性別違和」という言葉を見つけた。そこには、自分と同じような悩みを持つ人々の存在が書かれていた。
「私だけじゃない……」
その発見は、大きな衝撃だった。同時に、それは新たな不安の始まりでもあった。
保健の先生、月城先生は、翔の様子に何か気付いているようだった。
「大和田くん、何か悩みがあったら、いつでも相談に来ていいのよ」
優しい言葉を掛けられても、翔はまだ心を開くことができなかった。でも、保健室は少しずつ翔の居場所になっていった。
二年生になると、思春期特有の変化がより顕著になっていく。体毛が濃くなり、喉仏が目立ち始め、筋肉がついていく。鏡を見るのが怖くなった。シャワーを浴びる時も、できるだけ自分の体を直視しないようにした。
「最近の翔、なんか変だよな」
「女々しいっていうか……」
「もしかして、オカマなんじゃね?」
クラスメイトたちの陰口が、翔の耳に届く。その言葉の一つ一つが、深く心を傷つけた。
ある日の放課後。いつものように保健室に逃げ込もうとした時、月城先生が声をかけてきた。
「大和田くん、これ、読んでみない?」
差し出された本は、トランスジェンダーの人々の体験記だった。
「先生……」
「あなたの悩みが何なのか、私にはわからない。でも、一人で抱え込まないで」
その言葉に、翔の目から涙があふれた。
その日から、翔は少しずつ月城先生に心を開いていった。自分の感じている違和感について、初めて言葉にした。
「私、自分の体が……嫌なんです」
声が震える。
「男として生きることが、苦しいんです」
月城先生は、静かに翔の言葉に耳を傾けた。
「あなたは、あなたのままでいい」
その言葉は、長い間閉ざされていた扉を、少しずつ開いていった。
三年生の修学旅行。男子部屋での宿泊が、大きな試練となった。周りの男子たちが、女子の話で盛り上がっている。
「お前も誰か好きな子いるだろ?」
問いかけに、翔は曖昧な笑みを浮かべるしかない。好きな子がいないわけじゃない。でも、その「好き」の形が、周りとは違っていた。女の子に「なりたい」という思いと、女の子を「好きな」気持ちが、複雑に絡み合っている。
夜、みんなが寝静まった後、翔はこっそりベランダに出た。京都の夜空には、無数の星が瞬いていた。
「私は、誰なんだろう」
星空に向かって問いかける。返事は返ってこない。でも、その静寂の中で、翔は少しずつ自分の本当の姿を認識し始めていた。
卒業式の前日。月城先生から一通の手紙をもらった。
「大和田くん、あなたの道のりは、まだ始まったばかり。でも、必ず自分らしく生きられる日が来る」
その手紙と共に、一冊の日記帳が添えられていた。
「これからの自分を、大切に記録していってね」
翔は、その日記帳に初めて「さくら」というサインを書いた。まだ誰にも見せることのできない、本当の名前。でも、それを書く時の心の高鳴りは、確かな希望に満ちていた。
桜の花びらが舞う中での卒業式。在校生の歌声が響く中、翔は静かに誓った。
「次は、もう少し自分に正直に生きよう」
その決意は、まるで蛹の中で少しずつ形を整えていく蝶のようだった。変化の時は、確実に近づいていた。
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