第二章:這い出る幼虫
小学校に入学した翔は、より意識的に「男の子らしく」振る舞おうと努力し始めた。
朝、制服を着る時。両親が喜ぶ顔を思い浮かべながら、白いワイシャツとズボンを身につける。でも、胸の奥で何かが悲しく啼いている。隣のクラスの女の子たちが着ているセーラー服が、どうしようもなく気になってしまう。
「翔! 野球やろうぜ!」
休み時間、クラスメイトに声をかけられる。断る理由はない。むしろ、断ってはいけない。男の子は、運動が好きでなければならない。そう、社会が、周りが、両親が望んでいる。
グローブを握る手に力を込める。ボールを追いかける足を必死で動かす。でも、その動作のすべてが、どこか不自然で、ぎこちない。まるで、他人の体を借りて動いているような感覚。
「翔、最近元気ないわね」
母親が心配そうに声をかけてきた。夕食の席で、箸が止まる。
「大丈夫だよ」
精一杯の笑顔を作る。でも、その笑顔が作り物だということを、翔自身が一番よく知っている。
三年生の時、転校生がやってきた。綾小路萌。彼女は、周りの女の子たちとは少し違っていた。短い髪、活発な性格、そして何より、既存の性別の枠に縛られない自由な態度。
「私、スカート嫌いなの。ズボンの方が動きやすいでしょ?」
萌は堂々とそう言い、体操着の時間以外もジャージで過ごすことを先生に認めてもらっていた。その姿を見て、翔は密かな羨望を感じた。なぜ、女の子はズボンを選べて、男の子はスカートを選べないのだろう?
「ねぇ、翔くん」
ある日、萌が声をかけてきた。
「翔くんって、なんか私に似てるよね」
その言葉に、翔は心臓が止まりそうになった。
「え?」
「なんていうか……周りと少し違う感じ?」
萌の真っ直ぐな瞳に、翔は言葉を失った。
「私ね、男の子っぽいって言われるの、もう慣れたの。でも、それが私なんだから、いいんだよね」
その言葉は、翔の心に深く刻まれた。自分らしさを肯定する、初めての言葉だった。
しかし、その出会いは長くは続かなかった。半年後、萌は父親の転勤で転校していった。別れ際、萌は翔にメモを渡した。
「いつか、きっと自分らしく生きられる日が来るよ」
そのメモを、翔は今でも大切に持っている。
四年生になると、身体の違和感がより強くなっていった。体育の着替えの時間が、特に辛かった。男子更衣室で、クラスメイトたちと一緒に着替える時。自分の体が、少しずつ男の子として成長していくことへの恐れ。それは、言葉にできない不安として、翔の心を蝕んでいった。
「翔、そろそろ野球チームに入らない?」
父親の誘いを、翔は必死の思いで断った。
「勉強に集中したいから……」
それは嘘だった。でも、これ以上「男らしさ」を強要されることに、耐えられなかった。
その代わり、翔は図書室に逃げ場所を見つけた。放課後、誰もいない図書室で、翔は一人で本を読む。物語の中では、誰もが自分らしく生きている。性別の壁なんて、存在しない。
特に好きだったのは、蝶の図鑑だった。美しい蝶たちの写真を見ていると、心が落ち着いた。蝶は、最初は地味な幼虫として生まれる。でも、時が来れば美しい姿に変態する。その過程に、翔は自分の姿を重ねていた。
五年生の図工の時間。「将来の夢」をテーマに絵を描く課題が出された。クラスメイトの男の子たちは、消防士や野球選手、警察官を描いている。翔は、長い間筆を止めていた。
本当は、看護師さんになりたかった。優しく人を癒やす仕事。でも、それを描くことはできない。結局、翔は曖昧な風景画を描いて提出した。先生に「もっと具体的な夢を持ちなさい」と言われても、本当の夢を語ることはできなかった。
六年生。卒業式が近づいてきた頃、翔は初めて長い髪の夢を見た。鏡の中の自分が、肩まで伸びた黒髪を優しく撫でている。目が覚めた時、激しい切なさと共に、確かな希望も感じていた。
「いつか、きっと」
翔は小さく呟いた。萌からもらったメモを握りしめながら。
小学校生活最後の日。卒業式を終えた帰り道、翔は桜の木の下で立ち止まった。風に舞う花びらの中に、一匹の蝶が舞っていた。その姿は、まるで翔の心そのもののようだった。
美しくなりたいけれど、それを口にすることができない。自由に羽ばたきたいけれど、まだその時ではない。けれど、確実に何かが変わろうとしていた。それは、蝶の幼虫が脱皮を繰り返すように、少しずつ、でも着実な変化の始まりだった。




