第一章:蝶の卵
最初の違和感は、保育園の夏祭りの日だった。
大和田翔は、母親に着せられた浴衣の袖をもじもじと握りしめていた。五歳の幼い心には、何かがしっくりこない。周りの男の子たちは、はちまきを締めて元気よく太鼓を叩いている。自分も本当は太鼓を叩きたかった。でも、担任の先生に「翔くんは浴衣が似合うから」と言われ、母親も嬉しそうに着せてくれたから、我慢した。
「翔、こっちよ! お友達と一緒に写真撮りましょう」
母親の声に、翔は渋々と歩み寄る。カメラの前に立たされた瞬間、不意に涙が溢れてきた。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
母親が心配そうに翔の額に手を当てる。でも、それは違った。具合が悪いわけじゃない。ただ、何かが、どうしようもなく違う。
「いや……だ」
翔は小さく呟いた。
「浴衣、いやなの?」
「うん……」
母親は少し困ったように眉をひそめた。
「でも、翔に似合うって、みんなが褒めてくれてるじゃない」
その言葉が、さらに翔の心を締め付けた。似合うことが、嬉しくない。むしろ、似合うことが怖い。でも、それを説明する言葉を、五歳の翔は持っていなかった。
その日の夜、翔は初めて夢を見た。自分が美しい蝶になる夢。でも、その蝶は周りの蝶とは少し違っていた。翔の蝶は、女の子の蝶のような色と模様を持っていた。目が覚めた時、枕が涙で濡れていた。
それが、最初の記憶だった。
幼稚園の年長になると、違和感はより鮮明になっていった。
「男の子は、こうやって遊ぶものだろ?」
父親は休日、翔におもちゃの車を買ってきた。プラスチックの赤い消防車。確かに、きれいな車だった。でも、翔の目は、姉の持っているお人形の方に釘付けになる。
「翔? どうしたんだ?」
父親の声に、慌てて視線を戻す。
「ありがとう、パパ」
翔は精一杯の笑顔を作った。でも、その笑顔の裏で、何かが少しずつ歪んでいく。
幼稚園の遊び時間。男の子たちは「戦隊ごっこ」に夢中だった。翔も、表面上は楽しそうに参加する。でも、本当は女の子たちのままごとが気になって仕方ない。
「翔くん、お医者さん役やってよ!」
男の子たちに声をかけられ、翔は演技を始める。でも心の中では、ままごとの中のお母さん役になりたいと思っていた。その葛藤は、日に日に大きくなっていく。
ある日、幼稚園から帰る道すがら、翔は空を見上げた。蝶が一匹、ふわりと舞っていた。その姿が、どこか自分に似ているように感じた。周りの蝶とは少し違う飛び方。少し違う色。でも、それでも空を飛んでいる。
「翔、何見てるの?」
母親の声に我に返る。
「蝶……」
「あら、きれいね。でも、男の子が蝶なんか見てちゃだめよ。虫なら、カブトムシとか……」
その言葉に、翔は黙って俯いた。なぜ、男の子は蝶を見ちゃいけないの? なぜ、女の子はカブトムシを見ちゃいけないの? そんな疑問が、幼い心に芽生え始めていた。
夜、布団の中で翔は姉からこっそり借りたリボンを握りしめていた。それは、たった一本のピンク色のリボン。でも、その小さな布切れが、翔にとっては大切な宝物だった。明日になれば、また「普通の男の子」を演じなければならない。でも、今この瞬間だけは、本当の自分でいられる。
窓の外では、満月が優しく輝いていた。その光の中で、翔は小さな祈りを捧げた。いつか、本当の自分になれますように。その祈りは、やがて長い旅の始まりとなった。




