小さな願いと大きな愛 ~麗華が投げかけた波紋~
春の陽射しが差し込む居間で、暁は新聞を読んでいた。土曜日の午後、穏やかな空気が部屋を満たしている。キッチンではさくらがお茶の準備をしていて、ポットから湯気が立ち上る音が聞こえる。
「ただいま!」
元気な声と共に、玄関のドアが開く音がした。小学校二年生の麗華が、いつもより早く帰ってきたようだ。
「おかえり、麗華」
暁が新聞から顔を上げる。
しかし、いつもなら駆け寄ってくるはずの娘が、今日は玄関で立ち止まったままだ。何か様子が違う。
「どうしたの?」
さくらが台所から顔を出す。
麗華は靴を脱ぎ、ゆっくりとリビングに入ってきた。その表情には、珍しく物思わしげな影が浮かんでいる。
「ねえ、どうしてうちには妹も弟もいないの?」
突然の問いかけに、暁とさくらは一瞬、言葉を失った。二人の視線が交錯する。
「みなちゃんちにも、かほちゃんちにも、みんないるんだよ? なんで麗華は一人なの? ねえ、あたしも妹ほしい! 弟ほしい!」
麗華は珍しく駄々をこね始めた。その声には、本気の願いが込められている。
暁の手が微かに震える。新聞を置く音が、やけに大きく響いた気がした。さくらは台所からそっと出てきて、麗華の隣に座る。
「ねえ、麗華ちゃん」
さくらの声は、いつもよりも柔らかかった。
「麗華ちゃんがパパとママのところに来てくれたのだって本当に奇跡なのよ。パパとママはいつだってそのことに感謝しているの」
暁も黙って頷く。その言葉の一つ一つが、深い真実を帯びていた。
「奇跡が二度起こるおうちもあれば、そうでないおうちもあるの。それは神様だけが知っていること」
さくらは慎重に言葉を選びながら説明を続けた。
「じゃあ、神様にお願いすれば妹ができるの?」
無邪気な問いかけに、さくらの表情が一瞬こわばる。答えに窮した彼女は、助けを求めるように暁を見た。
「麗華」
暁が立ち上がり、娘の隣に座る。
「パパとママにとって、麗華は宝物なんだ。たった一人の、かけがえのない宝物」
麗華は不満そうに唇を尖らせた。
「でも、みなちゃんのうちなんて三人兄弟なんだよ? いいなあって思うの」
その言葉に、暁とさくらの心に言い知れぬ罪悪感が広がる。自分たちの選択が、麗華の願いを永遠に叶わないものにしてしまった。その事実が、二人の心を重く締め付けた。
その夜、麗華を寝かしつけた後、暁とさくらはリビングで向かい合って座っていた。窓の外では、春の夜風が桜の枝を揺らしている。
「麗華の気持ち、分かるわ」
さくらが静かに言った。
「兄弟がいることが当たり前だと思っている年頃だもの」
暁は深いため息をついた。
「僕たちの選択が、麗華の選択肢を奪ってしまった。それは事実だ……」
暁の声には、深い悔いが滲んでいた。
「でも、それは違うわ、暁さん」
さくらは真剣な眼差しで暁を見つめた。
「私たちは、麗華に最高の愛情を注いでいる。それは間違いない事実よ。兄弟の数が、子供の幸せを決めるわけじゃない」
その言葉に、暁の心に何かが響いた。そうだ、自分の両親も……。
「僕の両親も、同じような思いだったのかもしれない」
暁は窓の外を見つめながら言った。
「僕が子供の頃、なかなか心を開かなかった。自分の性別に違和感があって、誰とも本当の関係を築けなかった。きっと両親は、そんな僕のことを、いつも心配してくれていたんだ……」
記憶の中の情景が、次々と浮かび上がる。
「母さんは、僕が図書室に籠りきりなことを心配して、『お友達と遊びなさい』って言ってくれた。父さんは無口だったけど、いつも僕の様子を見守ってくれていた」
暁の目に、涙が浮かぶ。
「二人とも、僕のことを心から愛してくれていた。ただ、僕が心を閉ざしていただけ……」
さくらは暁の手を優しく握った。
「親の愛情に、決まった形なんてないの。私たちは、麗華に対して、最高の愛情を注いでいるわ。それは間違いのない事実よ」
暁は頷いた。確かに、兄弟の有無は家族の幸せを決める要因ではない。大切なのは、その家族がどれだけ愛情を持って繋がっているか。それだけなのだ。
「明日、麗華とちゃんと話そう」
暁が決意を込めて言う。
「ただ愛情を伝えるだけじゃない。僕たち家族だけの、特別な思い出を作っていこう」
さくらは柔らかく微笑んだ。
「そうね。麗華に、たくさんの愛情と、かけがえのない思い出を。それが私たちにできる、最高の贈り物ね」
窓の外で、桜の花びらが風に舞う。その光景は、この家族の未来を祝福しているかのようだった。
翌朝、麗華は両親から休日の予定を告げられた。動物園に行くという。麗華の目が輝く。
「本当!? やった!」
純粋な喜びに満ちた笑顔。その表情を見て、暁とさくらは確信した。大切なのは、家族の形や兄妹の数ではない。その中で育まれる愛情の深さなのだと。
それは、新しい一日の始まりだった。この家族だけの、特別な一日の始まり。




