第四章:新しい一歩
大学進学を前に、暁は一つの決断をした。一人暮らしを始めることを。
「暁、下宿なんて心配よ」
母は心配そうな表情を浮かべた。
「大丈夫、ちゃんとやっていけるわ」
暁は強く言い切った。自分の部屋で、自分らしく過ごせる時間が欲しかった。誰の目も気にせず、自分の体と向き合える空間が必要だった。
都内の小さなワンルームに引っ越した日、暁は初めて自分の意志で男物の服を買った。古着屋で見つけたシンプルなシャツとジーンズ。試着室で着替えた時の感覚は、今でも鮮明に覚えている。鏡に映る自分が、少しだけ本当の自分に近づいたような気がした。
大学では、新しい自分を少しずつ試し始めた。体育の授業を履修しないようにシフトを組み、更衣室の使用を避けた。髪型も、思い切って短くした。
「中性的な雰囲気、素敵ですね」
美術の授業で隣になった榊原さんが言った。その言葉に、暁は小さく微笑んだ。
二年生の春、暁は大学の図書館で働き始めた。静かな空間で、本に囲まれての仕事。人との接触も最小限で済む。その環境は、暁に心地よい居場所を与えてくれた。
「暮枝さん、この本の配架場所を教えていただけますか?」
利用者に声をかけられた時、暁は低めの声で応答するようにしていた。そうすることで、少しでも自分らしさを保てる気がした。
カウンセリングも続けていた。そこで暁は、自分の将来について、より具体的に考えるようになっていった。
「いつか、本当の自分として生きたい」
その言葉を、初めて口に出した時。医師は暁の決意を受け止めるように、ゆっくりと頷いた。
大学三年の秋、暁は就職活動を始めた。履歴書の性別欄を前に、長い時間考え込んだ。戸籍上の性別を記入しなければならない現実が、重くのしかかる。
「性別移行を考えている方の就職支援」
その文字を、求人情報サイトで見つけた時、暁の心は大きく揺れた。電話での問い合わせには、かなりの勇気が必要だった。
「はい、トランスジェンダーの方の就職支援も行っております」
電話口の女性の声は、驚くほど普通だった。差別的な態度も、過剰な同情も感じられない。ただ、一人の就職希望者として対応してくれる。その姿勢に、暁は救われた気がした。
「まずは、あなたの希望を聞かせてください」
面談で、担当の藤村さんはそう切り出した。暁は少しずつ、自分の状況と希望を話し始めた。性別移行を考えていること。でも、すぐには実現できない可能性が高いこと。その中で、どう働いていけるのか。
「大切なのは、一歩一歩進んでいくことです」
藤村さんの言葉は、具体的で現実的だった。
「完全な理解は難しいかもしれません。でも、少しずつ環境を整えていく会社はあります」
その言葉通り、藤村さんは暁の状況に配慮のある企業を紹介してくれた。出版社の編集部。比較的リベラルな社風で、多様性を重視する企業文化を持っているという。
面接の日、暁は気持ちを落ち着かせるのに苦労した。スーツは女性用を着用せざるを得なかったが、できるだけシンプルなデザインを選んだ。
「暮枝さんの志望動機を聞かせてください」
面接官の質問に、暁は準備していた言葉を告げた。本が好きなこと。編集の仕事に興味があること。でも、本当の理由は言えなかった。この会社なら、いつか本当の自分として働けるかもしれないという希望を。
結果は合格だった。内定通知を受け取った時、暁は複雑な感情に包まれた。嬉しさと不安が入り混じる。これから先の道のりは、決して平坦ではないだろう。でも、一歩前に進むための確かな足場は得られた。
卒業を控えた冬の夜、暁は実家に電話をかけた。
「お母さん、話があるの」
声が震える。
「就職が決まったのは聞いたわ。おめでとう」
母の声は明るかった。
「ありがとう。でも、それだけじゃないの」
受話器を強く握り締める。
「私……一人で生きていくことに決めたの」
長い沈黙が流れた。
「どういうこと?」
「実家には、当分帰らないつもり。自分の道を、見つけたいの」
全ては話せない。でも、これが精一杯の正直さだった。
「暁……何かあったの?」
母の声に心配が滲む。
「ううん、何でもないの。ただ、自分の人生を、自分で決めていきたいだけ」
その夜、暁は久しぶりに泣いた。でも、それは悲しみの涙ではなかった。新しい一歩を踏み出す決意の涙。そして、いつか本当の自分を家族に打ち明けられる日が来ることを願う祈りの涙だった。




