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第1章:交差する視線

 東京の街を覆う夕暮れは、どこか境界線のように曖昧で儚かった。暮枝暁くれえだあきらは、銀座の並木道を歩きながら、自分の中の「境界」について考えていた。


 ホルモン治療を始めて1年。少しずつ変化していく体は、もはや完全な女性のものでもなく、かといってまだ完全な男性のものでもない。その曖昧さは、今空を染める茜色の夕暮れのように、昼と夜の間をさまよっていた。


 ふと、背後に人の気配を感じた。しかし、声をかけられることを予想していなかった暁は、そのまま歩き続けた。


 その人影は、暁の数メートル後ろをずっとついてきていた。まるで何かを言いたげに、でも躊躇っているように。その気配に気づかないふりをして、暁は歩みを緩めた。


 銀座の街灯が一斉に灯り始める頃。人影はついに暁に追いつき、その少し離れた横を並んで歩き始めた。暁は横目で、その人物の姿を観察した。


 パステルピンクのワンピースに身を包んだ長身の人物。柔らかな表情の中に、どこか懐かしさを感じさせる佇まい。その目には、暁と同じような「境界」を見つめてきた者特有の深い色が宿っていた。


 二人は言葉を交わすことなく、しばらく並んで歩いた。互いの足音だけが、夕暮れの街に響いていく。


「あの……」


 ついに声が上がった。微かな低音が混じる声。でもそれは、意図的に作られた低さではなく、自然な震えを含んでいた。


「すみません……」


 暁は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。目の前には、か細い緊張を全身に漂わせながらも、どこか凛とした表情を浮かべる人物が立っていた。


「この辺りに、グッドモーニングというカフェはありませんか?」


 単純な道案内の質問。でも、その目には別の何かが潜んでいた。理解と共感を求めるような、そして同時に何かを分かち合いたいような、複雑な感情が渦巻いていた。


 暁は一瞬、相手の性別を判断しようとする自分に気付き、すぐにその思考を打ち消した。自分がそうされて嫌な思いをしてきたことを、知っているはずなのに。


「ああ、確か次の角を右に曲がったところにあります」


 答える暁の声も、ホルモン治療の影響で、以前より低くなっていた。その声を聞いた瞬間、相手の目が僅かに広がった。そして、決意を固めたような表情を浮かべた。


「実は……」


 相手は一度深く息を吸い、言葉を選ぶように間を置いた。


「私、いろんなカフェでよく一人で過ごすんです。窓際の席に座って、行き交う人々を眺めながら。そして、今日もそうしようと思って歩いていたら……」


 言葉が途切れる。風が二人の間を通り抜けていった。


「あなたの後ろ姿が、まるで私の心の中を映し出しているように見えて……」


 相手の目には、潤みが浮かんでいた。


「もし、よろしければ……一緒にお茶を……あの、本当にお嫌でなければ、ですけど……」


 その言葉には、長い時間をかけて温められてきた想いが込められているようだった。単なる偶然の出会いではない。互いの中に見出した共鳴が、この瞬間を特別なものにしていた。


「大和田さくらといいます……」


 相手は柔らかな笑みを浮かべながら、そう名乗った。その笑顔には、これまでの緊張が溶けていくような、温かな光が宿っていた。


 暁は、その誘いに心が揺れるのを感じていた。見知らぬ人からの誘いに警戒するべきかもしれない。でも、さくらの目に浮かぶ孤独と期待の色に、どこか強く共感するものがあった。それは、自分自身の心の中にも確かに存在している感情だった。


 グッドモーニングというカフェは、銀座の喧騒から一歩離れた場所にあった。大きな窓からは夕暮れの柔らかな光が差し込み、店内を優しく染めている。


 窓際の席に向かう途中、さくらの歩き方に暁は目を留めた。パステルピンクのワンピースをまとったさくらは、小さな歩幅で慎重に歩を進める。その姿勢は明らかに意識的なものだった。肩の力を抜こうとする仕草、腰のラインを意識した歩き方、手首の柔らかな動き??それらは全て、女性らしさを表現しようとする強い意志を感じさせた。


 しかし時折、その作られた動きの中に、別の影が垣間見えた。急いで席を引こうとした時の力強い手つき、バッグを持ち替える際の肩の角度、そして立ち居振る舞いの中に残る、どこか男性的な名残。もしかしたら……。


「何になさいますか?」


 ウェイトレスが注文を聞きに来た時、さくらは少し声のトーンを上げて答えた。


「ホットの紅茶を、お願いします」


 その声は、意識的に作られた高めの音域を保とうとしているのが分かった。暁自身、声を低くしようと意識している分、相手の声の調節にも敏感だった。


「僕もホットティーで」


 暁も注文を済ませ、二人は向かい合った。テーブルに肘をつくさくらの仕草には、女性らしい優雅さを演出しようとする意図が見える。それは暁自身が、かつて無意識にしていた仕草そのものだった。今の暁は逆に、その手の動きを意識的に抑え、より角張った印象を作ろうとしている。


 カップを持つ指の添え方。さくらは小指を少し浮かせ、優美な動きを心がけている。一方暁は、以前なら自然とそうしていただろうその仕草を、意識的に避けていた。


 二人の視線が合う。さくらの化粧は丁寧で、目元は繊細なアイラインで縁取られ、唇は淡いピンクで彩られている。その化粧の技術は、明らかに長い練習の末に得られたものだった。


「あの……」


 さくらが口を開きかけた時、急いでドアを開けた男性客が大きな物音を立てた。その瞬間、さくらの姿勢が一瞬だけ強張り、普段抑制している身体の記憶が表面に浮かび上がる。それは暁が、スカートをはいていた頃の自分自身を思い出させた。


「あの……」


 さくらは再び口ごもった。だが数瞬をおいて、やがて意を決したように言葉を接ぐ。


「私、実は……MTFなんです」


(※)MTF。Male to Female。性自認は女性、身体は男性。


 さくらは少し俯きながら告白した。その瞬間、それまで意識的に保っていた仕草が少しだけ緩む。まるで長い間重ねていた装いの一枚を、そっと脱ぎ捨てるように。


「あの暁さんはもしかして……」


 さくらは言いかけて口を噤む。暁はそんなさくらを見て、微笑した。


「僕は……FTMです」


(※)FTM。Female to Male。性自認は男性、身体は女性。


 暁も答えた。その瞬間、二人の間にあった見えない緊張が、ふっと解けた。さくらの表情が柔らかくなり、肩の力が抜けていく。それは暁自身の体からも緊張が抜けていくのと、不思議なシンクロを見せていた。


 窓の外では、夕暮れが深まっていた。その境界の時間の中で、二人はようやく本当の自分を見せ始めていた。さくらのカップを持つ手が、少し震えている。それは暁の心の震えとも共鳴していた。


 その日から、二人の物語は始まった。同じように性別の境界線上に立つ者同士として、互いの苦悩を理解し、喜びを分かち合える存在として。


 暁は毎朝、鏡の前で自分の体の変化を確認する習慣があった。以前より角ばってきた顎線、少しずつ太くなる指、深くなる声。ホルモン治療による変化は、確実に進んでいた。


「暁さんの手って、すごくかっこいいですね」


 休日に銀座を歩いていた時、さくらはそうつぶやいた。


「ありがとう。でも、本当はもっと男性らしくなりたいんです」


 暁は自分の手を見つめながら答えた。


「私も昔は、自分の手が大きすぎるのが悩みでした。でも今は……少しずつ受け入れられるようになってきたんです」


 さくらの言葉には、長い時間をかけて得られた、共通する静かな諦観のようなものが感じられた。


 二人で過ごす時間が増えるにつれ、暁はさくらの中に、自分が失いつつある女性性の理想像を見出していた。その優雅な仕草、細やかな気配り、柔らかな物腰。かつての自分が無理に演じようとして苦しんだそれらの要素が、さくらの中では自然な輝きを放っていた。


 一方さくらは、暁の中に憧れの男性像を見ていた。力強さの中にある優しさ、芯の通った意志、確かな存在感。自分が持ちえなかったそれらの要素を、暁は少しずつ、しかし確実に身につけていっていた。


 初めてキスしたのは、銀座の街を覆う夕暮れの中だった。人混みを避けるように路地に入った時、二人の唇は自然に重なっていた。


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