兵庫から届いた煙草
四月十日
拝啓
地元の友人たちよ。お手紙ありがとう。元気なようで何よりだ。
君は相変わらず不毛な大学生活を送っているとのこと。誠に嬉しく思う。そのまま突っ走ることを切に祈ろう。実りのある大学生活を謳歌しようなどと思わないことだ。肩肘を張って挑んだところで無益の神から逃れることはできない。諦めるのが肝心だ。単位取得に躍起になったって無意味である。悪いことは言わないから寝ておけ、寝ておけ。
俺は愛知の美術館勤務になって兵庫からはるばる名古屋まで来たが、その不毛ぶりは大学の頃と変わらない。むしろ磨きがかかったくらいである。いずれ君も辿る道だ。未来に期待するな。期待するから失望する。君もそれは大学に入学してまず最初に学んだことだと思う。何事もほどほどに。
俺は庄内通にある五階建てのアパートに引っ越した。
君の心配通り熱帯魚を置いても問題ない広さの部屋にした。愛知に来ることがあったらぜひ立ち寄って欲しい。電気ブランだって置いてあるからね。今の仕事に満足かどうかと手紙にあったが、俺にはあずかり知らぬことだ。この間は現代作家の達磨ポルカの個展準備があって忙しかったが、客足はそれほどなかったから楽だった。美術館は静かなのがいいと君は言うが、静かすぎるのもどうかと思うね。
勘違いしないで欲しいのはここへ俺を送り込んでくれた教授に、俺は感謝をしていることだ。たぶん、一生涯の感謝をしている。何せ近所にドーナツ屋がある。俺はドーナツが初恋の人よりも好きなことは知っているだろう。こんなにいい事はない……とは言えだ。
兵庫での暮らしは懐かしい。
庄内通のアパートから見えるのは、空が狭く思えるほど高いビルの数々。その谷間の先には毛が生えたような土手と庄内川がかすかに見えて、川向こうはまた雑多なビルが建っている。君の下宿先から見えた瀬戸内海や淡路島と比べると、いささか風情に欠ける。兵庫は北を向けば六甲山、南を向けば瀬戸内海を一望できた。冬になれば有馬温泉へ行き、さらに寒くなったらハチ高原のゲレンデでスキーを滑り、極楽を求めて城ノ崎のカニを食べに行く。そして月夜の下で酒を飲み、煙草を吸う。
大学では君を含め友人たちと当てもなく兵庫をぶらついた。
俺が叔父の軽トラに荷物を積んでいる時、「兵庫から俺という大黒柱がいなくなって心配だ」と妹に漏らしたことがあったが、「自分の将来を心配すれば?」と返された。無論、いつものように妹へ鬼の説教を垂らしてやろうと思ったが、俺はやめた。反論する余地はじつに二百点ほどあったことだけはわかってくれ。
まだ俺は愛知の街に馴染んでいないから落ち着かない。今度の土曜日には珈琲屋があるからそこで手紙を書こうと思う。庄内公園もあるし、高校も近くにある。三十分ほど歩けば名古屋だし、美味い居酒屋でも見つけるとしよう。
俺が兵庫を去るとき、雨が降ったのにわざわざ見送りに来てくれたのは感謝している。
駆け去る叔父の軽トラから見えた一瞬の光景が今でも忘れられない。緑の田んぼのそばを疾走する高校生。父親に肩車をしてもらっていた子ども。その横を歩く少女が持っていた赤い風船。
せっかくの機会だし、俺は文通の腕を磨こうと思う。
昨今はリバイバルブーム、オマージュ祭りだ。必ず文通がSNSを凌駕する時代が来るだろう。便利より浪漫が選ばれるのだ。俺は愛知で随一の文通上手として勇名を馳せるつもりだ。いつか手紙の一つで女性を籠絡させてみせよう。文通万歳!
だからいつでも手紙をよこしてくれ。悩み事があれば相談だって乗ろう。
雪町様へ 寺田俊朗より
○
四月十八日
拝啓
花見の報告ありがとう。姫路城の桜は桃色というより白色だろう。あれは城壁の白さに合わせて古来より植えられているそうだ。俺も本当かどうかは知らないがね。
まさかこんなにも早く手紙を書いてくれるとは思わなかったが、一番驚いたのは手紙と一緒に煙草が同封されていたことだ。しかも手巻き煙草ときた。大学にいた時は君に見せびらかしていたが、あの時と違って俺にはちゃんと金がある。もう手巻き煙草は吸っていない。今は電子タバコに変えた。同輩の青山さんに「煙草臭いので」と口臭スプレーとファブリーズを手渡されて、きっぱりやめたのだ。
君も紳士たらんとするなら電子にしたまへ。あとお金もないだろうに。だが、君が贈ってくれた手巻き煙草はとても懐かしかった。銘柄もあの時、吸っていたものと同じだ。せっかくの土曜日だったし、俺は君の煙草を巻いて吸った。久しぶりだったから葉っぱが風に攫われたよ。吸ってみて思ったが、やはり体力がガツンと持って行かれてしまう。電子ならいくら吸っても物足りないと感じるのに、手巻き煙草はその一本だけで充分だった。服にもニオイがついた。しかし愛知に来て初めて充足した気分になったよ。偶然出会った青山さんには小言を言われたけどね。
でも俺はやっぱり煙草が好きだと思った。君は何でもお見通しだったのだろう。ところで同じ研究室にいる早瀬さんとはどうなったんだい? 俺が柄にもなく恋のキューピッドとしてあんな大立ち回りをしたんだ。もちろん、進展しているんだろ? まあ、書く気になったら教えてくれ。別に知りたいとはあまり思ってはいないが、先輩として骨は拾ってやろう。そうなれば俺も兵庫に戻る理由ができるからね。
雪町様へ 寺田俊朗より
○
四月二十六日
拝啓
手紙をありがとう。
まさか付き合っていたとはね。正直、驚きだ。俺の見立てでは勝率は二割を切っていたんだが、見事に浪漫を果たしたようで何よりだ。君は手紙に俺のおかげと書いていたが、俺がしたことなんで大したことではない。確かに他の友人たちではあそこまで壮大なセッティングや、あらゆる恋愛的ギミックを用意するのは困難だろう。
今度、二人で愛知に遊びに来るともあったが、本気で来るなら俺はアパートから出ないでおこう。せっかく見つけた名古屋の粋なBARも控える。二人だけで行きたまへ。いくら早瀬さんが了承しても、俺にも選ぶ権利がある。俺が君たちにやることは祝福を送ることだけだ。さっさと幸せになれ。
これを機に煙草を止めるのもいいかもしれない。と言っても君はやめないだろうけどね。あと、君が早瀬さんをどれだけ愛し、好いているのかはよくわかっている。だから手紙でこと細くイチャイチャぶりを書き散らすのはやめてほしい。君はいささか興奮し過ぎる性質がある。手紙に鼻血がついていたぞ。君からもらうのは手紙と手巻き煙草、あとは目を瞑りたくなるようなどうでもいい悩みぐらいでいい。間違っても、早瀬さんとのラブストーリーは俺の見えないところでやってくれ。
俺はというと、愛知の街をぶらついては道を覚えたり、近所の珈琲屋でこうして手紙を書くくらいだ。
美術館での仕事もそれなりに勝手がわかってきた。青山さんは俺と同時期に就いたのに、もう館内のすべてを把握している。彼女は螺旋階段が大好きで、館内の巡回はわざわざ螺旋階段をより通れるように独自の巡回ルートを編み出している始末だ。あんなにぐるぐると回って目が回らないのは彼女の多くある魅力の一つだ。君は手紙にちょろっと青山さんのことを俺に聞いていたが、俺と彼女は君らのような関係にはなるまいよ。青山さんは俺とは違い、行動派だ。今週もウニを食べに北海道まで行っている。ついでに螺旋階段を見つけてくるとも言っていた。三半規管が弱い俺では彼女の速度にはついていけない。
愛知にも春の陽射しが届いている。
名古屋駅の金時計の下は待ち人で溢れていた。名古屋で降りるならあそこの人集りに呑まれないことだ。声をかけられても無視しなさい。君はそういったことですぐに心を痛める難儀な男だが、決して金時計で立ち止まってはいけない。美女も溢れているけど見ておくだけにしとけ。
雪町様へ 寺田俊朗より
○
拝啓
今俺が書いている手紙が届き次第、愛知に来ると書いていたね。俺としては歓迎だ。いつまでいるつもりかはわからないが、長くて三日ほどだろう。旅行は三日ぐらいがちょうど良い。それと君は気を付けていたかもしれないが、早瀬さんとサメ映画を観た話や水族館に行った話はわざわざ手紙にしなくて良かった。サメ映画を観た後に水族館に行く早瀬さんの豪胆さは健在なようで安心するが、その手の話は俺に兵庫の懐かしさを思わせる。愛知に来て俺はノスタルジックに弱いことが明らかとなった今、君のその話は俺にとって毒だ。良薬と思ってるならそれは勘違いだし、良薬もまた苦い。無用の長物だ。しかし恋人生活を満喫しているのは喜ばしいことだ。大学にいた頃の俺なら唾を吐き捨てていたが、素直に拍手を送ろう。
君は相変わらず無病息災だな。きっとその阿呆ぶりが風邪の神が寄りつかない秘訣だろう。早瀬さんを好きになったあの時の阿呆ぶりと言えば言葉にするのも難しいし、付き合ってからはこちらが途方に暮れるほどだよ。誇っていい。俺にその手の話は無縁だが、無縁だからこそ見える景色がある。君を手助けできたのは俺のそういう花を求めない生き方からできたことだから直進しか知らない君には合わないよ。だから俺から得られる教訓はない。さらなる恋愛指南を欲しがっていたように手紙から感じたからここできっぱり言っておこう。
俺は先日、丸の内へ行ってきた。
愛知の丸の内は車の数がおかしかった。俊敏に車を避ける猫でも、あそこに飛び込めば間違いなく黄泉へ連れて行かれるほど危険な場所だった。あと名古屋城も改修工事で今は見れない。名物のうなぎも食べることはできるが、今は季節外れだろう。やはり、時期を考え直した方がいい。俺に会いにきてくれるのは嬉しいが、君は単位も危ういだろう。俺のことは気にするな。君が望むなら電話をしてもいいし、リモートで飲んだっていい。現代技術を惜しみなく使えるのは今を生きる人間の当然の権利だ。時には便利にすがったっていいさ。だから愛知にはしばらく近づかない方がいいだろう。現地に住む俺が言うんだから間違いない。それに俺はしばらく静岡の方に用事ができたから会えないと思う。心から残念で申し訳なく思う。俺がこの愛知を掌握した時は君と早瀬さんを心からもてなし、愛知を案内しよう。約束だ。だから、愛知への旅行はやめておけ。なっ?
雪町様へ 寺田俊朗より
○
五月七日
拝啓
手紙をありがとう。まずは返事を書くのが遅くなったことを謝罪する。
俺があれだけ言ったのに、君は愛知へ来たようだね。手紙には君が愛知にほとほと感動したことが伝わってきた。愛知でハシャぐ早瀬さんの様子が大部分を占めていたことは、この際目を瞑ろう。俺みたいな薄情な男にこうして手紙を書いてくれただけで俺は嬉しいしな。
君たちを案内できなかったのはとても申し訳なく思っている。間が悪いのは俺の唯一と言っていい欠点だ。手紙と一緒に手巻き煙草も贈ってくれたね。すっかり俺は電子をやめてそちらを愛用している。手紙にあったが、あの手巻き煙草は君が早瀬さんと付き合った時に死蔵になった品らしいね。彼女の煙草嫌いは俺も承知している。何度も君と一緒に研究室で吸って小言を言われたものだ。俺と同じで煙草が好きだった君は捨てるのも忍びなく、悩んだ末に俺に贈ってくれた。そのことを告白してくれたのは嬉しいが、泣きながら書くぐらい思い詰めていたなら書かない方が良かったと思う。豊かな感受性を制御できない君の美点がこれでは台無しだ。君の涙で文字が滲んで読むのに苦労した。まあ、そこが君の良いところではあるんだがね。
君は早瀬さんと付き合い、煙草をやめた。何も悔やむことはない。一つの航海を終えたと思えば気分も晴れやかなものだ。俺は何があっても、君は煙草をやめないと思っていた。たとえ天からゼウス神が降臨したり、淡路島でイザナミとイザナギの逢瀬を目撃しても、君は煙草をやめない。大学にいた時、俺と初めて吸った煙草の浪漫が君の心を鷲掴みにした瞬間を俺は覚えている。燃える火種、空へと昇る煙とジリリとかすかな音を立てて灰へと変わる煙草の渋さは君好みだった。体に悪いやニオイが良くない、金がかかるやモテないといった不利な条件をすべて無視できるほど、俺と君は虜になった。それくらい煙草は美しく、かっこいいものさ。ただ、それ以上に虜になった存在が君の世界に現れただけだ。それが早瀬さんなら俺も納得だよ。
また愛知に来ることがあれば手紙をくれると嬉しい。今度は俺も、幸せを掴んだ君と正面から会える文通上手になって君を迎えよう。早瀬さんも連れてくるといい。俺の前でも存分にイチャついてくれて構わない。俺はそんなことでは動じないからね。ただ、愛知に来る二週間前には手紙をくれ。こちらにも準備というものがある。それまでは、君からもらった手巻き煙草でも吸って待っているとしよう。また青山さんに釘を刺されるだろうが、彼女に刺されるなら煙草を吸うのも悪くない。君もそう思うだろ?
雪町様へ 寺田俊朗より
5「煙草」
カンピロバクターってなんだったっけ?
あと、私も文通してみたい……憧れる(笑)