16
物語tips:ブレーメンの言語と罵倒語
ブレーメンのコミュニティにて一般的に話されているのは連邦の共通語。“古語”と呼ばれるブレーメン独自の言語は文字が存在しなく語彙も少ないため使いにくい。老人たちや保守派などは古語の方をよく使う。
しかし、連邦基準の学校やテレビ放送などで世代が下るごとに共通語が一般化してしまい、若い世代との意思疎通が難しくなってきている(一方でそれに危機感を覚えることは少ない)。一部、ことわざなどであれば若い世代も理解できるフレーズがある。
ブレーメンのコミュニティにおいて罵倒語は一般的であり感情表現の1つ。ヒトの言語では存在しないため共通語を話すブレーメンでも罵倒語だけはブレーメンの古語のまま使っている。しかしヒトの社会に溶け込もうとしたニケにとって罵倒語とは、その他ヒトと同じく、低い社会階層や学のない者の語彙と思っているため、罵倒語に反応して嫌な顔をする。一部、ヒトの好事家たちはブレーメンの罵倒語を専門書を通じて知っている。
よく使われる罵倒語はトゥイ<白痴>、クルワィ<糞喰らい>、ヒーヤァ<ケツ舐め>、ボッコス<決闘/死合い>など。
「カカカカカッ! ヒィィィヤォ! イタイか?」
ニケは焼けるような痛みを、ぐっと息を呑んで耐えた。しかしつい体が痛みに反応してしまい手首にぐるぐると巻かれた太い工業用の鎖がジャラジャラと音を立てる。鎖で天井から吊られているせいで音が止められない。
眼の前の目付きの鋭い女は、棘の生えた篭手で肩口をえぐってくる。すでに背中側まで穴が空いているかもしれない───あまり考えないようにした。
そしてこの女、ブレーメンだった。篭手の棘はすべてブレーメンの剣と同じく青く輝いている。女の目も黄色に輝いている。薄暗い拷問室のような部屋の中で両眼が怪しく光る。
「クッ!」
「トゥイトゥイ! カカカカカッ!」
篭手が引き抜かれる。手の甲の部分に杭がありそこから赤い血が滴っている。女の体に着いた返り血は弾けるようにして飛び散った。これもブレーメンの剣の特質。だとすればこいつは本当にブレーメンなのか。しかし卑猥な罵倒語とわずかな共通語しか話せない。言葉の訛りから判断するに東部地域出身のブレーメンか。
「キーウェイ、お痛はそのくらいにしておくんだ」
「キィィィ!」
「彼は我々の大事な客人だ」
言葉が通じないかにも思えたが、女──キーウェイは大人しく引き下がった。代わりに現れたのは優男だった。ほっそりとした柔和な笑みにすらりとした長身。ほこりっぽいがそれでも高級な仕立てのスーツを着ている。
「はじめまして。ブレーメンの。僕はガンマ。本当の名前ではないが皆にそう呼ばれている。ぜひ君もそう呼んでほしい」
しかしニケは視線を合わせなかった。格子のかかった窓がひとつ、扉はその反対側だった。外に出ても武装したガンマの手下が待っているはず。視線を動かすたびにジャラジャラと鎖が鳴った。
「ヘヘヘ、クルゥアイ」
キーウェイは興奮したようにブレーメンの罵倒語を口にする。
「そう、クルゥアイクルゥアイ」
ガンマはニコニコで手を叩きながらキーウェイの言葉を真似した。
「お前、意味わかって言ってんのか」
「ん? 知らないよ。でもキーウェイは大切な同志だからね。彼女の言動は尊重するつもりだ」
ガンマは男のわりにむせ返るような甘い声で話す。
「うせろ、分離主義者」
「ふーむ、どうやら僕たちの間にはなにか誤解があるようだ。ふむふむ。僕らは分離主義者なんかじゃないよ」
「ほぅ、じゃあ何だ。糞喰らいか?」
「聖人だよ」淀みのない宣言だった。「連邦の隠された真実をお天道様の下、つまびらかに開陳し、騙された人々に真実を伝え教え導く」
「ふん、真実か。詐欺師の好きな言葉だ」
「詐欺でもないし嘘ではない。真実なのさ。君はまだ僕を信用していない」
「鎖を外してくれたら信じるかもな」
ジャラジャラと鎖を鳴らしてみた。体が振り子運動でゆっくりと左右に動く。
「聡明なブレーメン。僕は君を敵だとは思っていない。むしろ僕たちと同じ側、被害者だ。同じ連邦によって謀られている」
「だったら証拠でも見せてみろ」
しかしニケは言葉を飲み込んだ。ガンマもニヤリ、と微笑んだ。馬鹿みたいたいな誘導尋問だったが敵意にあてられて判断できなかった。
「さ、おいで。入ってきなさい」
ガンマがまるで甥っ子か姪っ子に声をかけるように、ぱちぱちと手を叩いた。すると鉄製の重いドアがきしみながら開き、小柄なフードをかぶった人影がゆっくりと近づいてきた。
「紹介しよう。彼女は……ええと、名前はもう決めたのかい?」
しかしフードが左右に首を振った。ガンマが丁寧にフードを取ってやると、あらわれたのは色素の薄い髪の小柄な少女だった。その耳たぶには塞がりきっていない穴があった。大きな瞳がふるふると震えている。
「強化兵?」
「いかにも。名前は無い。0116、製造番号はもっと長いみたいだがね。アレンブルグの戦い。君も知っているだろう」
「いや、知らないな。戦況は五分五分だと聞いたが」
「はっ! なんと嘆かわしい。聡明なブレーメンがその程度だとは」
ガンマの言葉はいちいち気に障る口調だった。
「俺は一兵卒だ。事細かに戦況を知らされているわけじゃない」
「ふーむ、じゃあ教えてあげよう。自分で話すかい?」
ガンマは強化兵の少女の肩に手を置いた。しかし少女はふるふると首を振るだけだった。
「そうかい? じゃあ僕が変わりに話すね。アレンブルグ東岸の市街地戦はまさに地獄だそうだ。1ブロックを取り返すのに1万人の強化兵が死んだ。そしてその翌日には3ブロック押し戻されている。そういう戦いだ。物量で攻めるテウヘルに対し、第1師団は闇雲な戦力の投入で効果をあげていない」
大規模な市街地戦闘なんてどの軍団も経験がない。準備をし訓練をし奇襲をしかけたテウヘルに分があるのは明らかだった。しょうがないことだ。しかしそれでも軍務省では管轄争いで、第2師団は関与できないし第3師団に至っては自分たちの権益とする州を守るだけだと高らかに宣言している───野生司大尉の晩酌で溢れる愚痴を総合するとそうなる。
「───この子はね、そんな地獄から間一髪逃げ出してきたんだ。担当は工兵。爆破の専門家さ。テウヘルの侵攻を押し留めるため彼女はビルの基底部に爆薬を設置していたんだが、あろうことが焦った彼女の指揮官は撤収が完了する以前に爆破のスイッチを押してしまった。彼女は吹き飛ばされ、気づいたら運河の上に浮いていた。そこで僕が彼女を拾ったのさ」
ぞっとするような戦場の体験だったがガンマは終始にこやかだった。
「これが、お前の言う証拠、か?」
「0116、もういいよ。部屋で休んでいなさい。よくがんばったね」ガンマの強化兵にかける言葉はむせ返るほど甘ったらしかったが、ニケに対しても同じ調子だった。「君が偽りの皇を抱えてあちこち走り回らずまっすぐ僕らのところに来てくれたら、もう少し見せてやれたんだけどねぇ」
ガンマは演技っぽく顎に手を当てて、あたりを見渡した。
「キーウェイ。君はどうだい?」
「ガァァッァ! クルァイ! ヒト、コロス」
「アハハハ、キーウェイは共通語が苦手でね。意思疎通は難しいんだが意志は僕らと似通っている」
「東部、ヒトから言えば唯一大陸南東部出身のブレーメンだろう、彼女は。古語ばかり話し特異な剣を作るのも連中の習慣だ」
「ふむ、ブレーメン同士も軋轢はあるのかい?」
「お前らヒトと一緒にするな。俺たちはややヒトの文化に寛容で、東部部族は非寛容というだけだ」
「キーウェイもまた、苦労していたんだ。第3師団はあちこちの鉱山の権益を持ちマフィアのフロント企業との癒着もある。連中は富を吸い上げる一方で庶民を酷使し戦場ではキーウェイのようなブレーメンを駒のように扱っている。借金だの法律違反など彼らには無い習慣で難癖をつけて、剣奴というそうだ。南部戦線が維持できているのは彼女たちの犠牲の上で成り立つんだ」
ガンマはしっぽりとキーウェイの肩を抱いた。キーウェイはガンマの言葉をほとんど理解していないようだったが、なついた様子でぎゅっと肩を抱き合った。
「バカバカしい」
ヒトの社会は広くてそして複雑だ。自己責任という大原則でヒトは幸福にもなれるし不幸にもなりうる。大多数はうまく適応し生きている。それがより合理的な社会を生み結果としてヒトの社会は年々進歩できる。
「なに、無知は罪ではないよ、ブレーメン。君は知らないだけだ。まだ僕たちと同じ立場で戦う余地があると、信じている。僕らは騙されている一般民衆の人も助けるつもりだ。皆騙されている。富や権力はオーランド1桁区の貴族たちに集約されている。腐った連中だ、“本来の使命”を忘れて欲にまみれている。そして偽りの皇はそれらを何代にも渡って黙認してきた。僕ら“聖人”はその不均衡を均し、平和をもたらそうとしている」
「ほざけ、分離主義者」
ニケは唸ったが力なくジャラジャラと鎖が揺れるだけだった。