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物語tips:ブレーメン族
ブレ・ア・メン=神に愛されし民。連邦の共通語風に発音すればブレーメン。神を信仰する少数民族で、ヒト(連邦)には存在しない“神”という概念がある。
大陸南部の標高の高い山岳地帯に暮らしている。行政上は自治区とされ連邦法に反しない限り慣例が重視される。個体数は多くない。知能、身体能力ともに一般的なヒトを凌駕するがヒトのような独占欲や猜疑心がない。すべての民が青く輝く短刀を持っているが、剣術の伝承者は青く輝く神剣──オリハルコンを持ち黄色に輝く瞳と共に戦場を駆け抜ける。
知能や体力が高いせいか、ヒトやその社会風習を基本的には見下す者が多い。テウヘルではなくヒトの味方をするのは優越心や単に剣術の実践のためだと言われている。近年は連邦から教師や文化が入り、若い世代はヒトの文化に部分的に寛容。
名前の命名方式は <個人名><始祖の名前>であるが厳密な命名基準は無い。剣術を受け継いでいる場合、<〇〇式>と付く。
ヒトと同じ知的生命体であるが生物学的には全く異なる。若草色の瞳をもち、剣を握るとそれが黄色に光る。心臓は中央よりやや右側についている。一方で外見上の形質はさほど変わらない。寿命は150年ほど。繁殖は数年に1度のみ可能。女が男を選ぶ習慣があり繁殖期はかなり気性が荒くなる。つがいがいない場合、山籠もりで精神統一を行い繁殖期をやり過ごす。もともと繁殖能力が低いせいかブレーメンの古語における“つがい”と共通語の“夫婦”は同義ではない。剣技を受け継ぐ家系であれば、父母のより強い方の剣技を引き継ぐ。
軍務省の野生司大尉のオフィスはいつもがやがやとうるさいが、すっかり慣れてしまった。隣の部署は兵站や経理を担当しているせいかあちこちからかかってくる電話がいつも鳴っている。その片隅で、先進技術認証委員会というこぢんまりしたオフィスはパーテーションで区切られているおかげで騒音は幾分かマシだった
リンは慣れているはずだったが、落ち着かずに机の上を撫でている。軍務省に来てからしばらく経ち、机の上もだいぶ賑やかになった。お気に入りのマグカップはツノカバのキャラクターがプリントされている。ホノカちゃんからもらったもので、毎朝これでお茶を飲んでいる。本立てには拳銃から重機関銃までの分解整備図が並び、暇さえあればこれを読んでいる。最近のお気に入りは梱包爆薬の配線図だ。
野生司大尉は自身の机と借りてきたデスクをつなげて大きな唯一大陸地図を広げている。シィナがそれを一緒に覗き込んでいる。
「さてシィナ君」野生司大尉は咳払いをした。「訓練も教育もなしに最前線へ赴くことはできない。とりあえず最低限の知識を覚えてくれ。ま、君たちブレーメンなら一度聞いただけで暗記できるだろうけれど」
「暗記? 何よそれ。聞いたらわかる。忘れない。当たり前でしょ」
シィナは肩をすくめた。
この気持ち、なんというんだっけか。そう、“鼻につく”だ。難しい綴も知っている。シィナが前かがみになるとでっかい身長の威圧感がなくなるがでっかいお乳とおケツが目につく。世間一般で「プロポーションが良い」とされる理想体型だ。もしかしてニケもこういう女の子のほうが“良い”のかな。
「で、私はどこに行けばいいのよ」
「どこにも」
野生司大尉は首を横に振った。唯一大陸地図にボードゲーム用の駒を並べた。白が自陣営で黒がテウヘル陣営を意味していた。
「今、主戦場はここアレンブルグ。アレンブルグはオーランドに次いで連邦第2の都市だ。都市の中央に巨大なロンボク運河がながれ東側と西側、つまり左岸と右岸に都市が広がっている───」
野生司大尉は地図の上の小さな水の流れを示した。しかし実際は幅4町の距離がある。
「───主戦場は運河の西側、右岸で繰り広げられている。両岸を繋ぐ橋は破壊され細いトンネルだけでは兵站を維持しづらいが相手もまた同じで、林立するビルの廃墟が障害になってテウヘルお得意の大規模波状攻撃が展開しにくい」
「犬っころがいるんでしょ。じゃあ斬れば勝てるじゃない。何を待ってるのよ」
「ははは。素晴らしい戦意だ。だがアレンブルグは第1師団の管轄で、ワシら第2師団がそう易々と手を出していいものじゃない」
「バッカみたい。管轄とか関係ないでしょ。強いほうが上なのよ」
「それがヒトのルールなんだよ。ああ、もし暇なら練兵場の予約を入れておこう。ブレーメンはこう、剣の稽古をするんだろう。本で読んだよ。ニケ君とどちらが強いのかな。彼も剣を受け取っていたね」
「わ、私のほうが強いんだから。当たり前でしょ」
傲慢ちきな自信家───ニケが教えてくれた言葉、綴は知らなかった。ブレーメンは訓練場で会った老剣士やニケみたいに温厚で理性的な生き物だと思っていたけど、ほんとメチャクチャな女だ。ついあの長大な大太刀が部屋の入口で引っかかるシーンばかりを繰り返して想像してしまう。テウヘルをどうせ見たこともないのに、いつかあの傲慢さが崩れるところを見てみたい。
「さてと、ワシはこれから定例会議だ」
するとリンはすかさず立ち上がり、野生司大尉にコピーしておいた書類の束を渡した。
「校正と数字の確認、完了しました」
「うむ、ありがとうリン君。ところでシィナ君、住む場所は決めたのかい? いつまでもホテル暮らしというわけにもいかないだろう。官舎はあるにはあるが早めに申請しないと順番が回ってこない」
「嫌よ、ヒトと一緒に暮らすなんて。クサイじゃないの」
「じゃあどこか借りねばならん。2桁区はどこも住宅不足でね。コンドミニアムか賃貸の一軒家のリストがある。リン君、庶務課に一緒に行って居住申請書類の、2号様式をもらってきて区役所に行ってくれるかい? 軍の居住許可証と家賃補助の書類だ」
リンは敬礼して返事をした。
「お安い御用です」
†
日常───それなのにニケは心が穏やかじゃなかった。
早く家を出たのに普段よりもひどい渋滞にハマってしまった。ハンドルを握る手に軽油エンジン特有の振動がぶるぶると伝わる。車列はのろのろと歩くより遅い速度で動く。たぶん事故か急な道路工事のせい。
バックミラーを覗くと後席でホノカが大人しく座っていた。教科書を読みながら、遅刻確定の事実を受け入れていた。
すべて───ほぼすべてが日常通り。しかし───ハンドルを握る指先がパタパタと落ち着きがない。
無いとわかっていたら未練なんて感じない。しかしあるとわかっていたら無用に意識してしまう。
ニケは自宅においてきた2振りの刀のことが気が気ではなかった。ブレーメンの力の触媒の剣に触れてしまったせいで、内に潜む知らない自分の力の片鱗を感じてしまった。その可能性と力の欲求に負けそうになる自分が卑しく嫌いだった。ヒトの社会で生きている“顔”がある以上、剣ではなく腰に携えた銃にこそ力の源を感じなければならないのに。
「幼なじみに会ったんだって?」
ホノカから珍しく世間話が振られた。
「幼なじみ、ライバル、腐れ縁。なんだろうな、あいつは。剣技比べはいつもあいつからふっかけてきた。で、あいつがたんこぶを作って泣くまでがお決まりだった」
「ふうん。あいつね。仲がいいのね。恋人、とか?」
「まさか。恋愛は子供が作れるようになった大人のすることだ。俺もシィナもまだそういう歳じゃない」
「えっ? うん、作れないっていうのは作っちゃいけないって意味よね?」
「ブレーメンとヒトは根本から違う生き物だから。心臓は右側に付いているし肺は大きく消化器は小さい。たしかヒトは15歳くらいから子供が作れるとか」
そう軍警察時代の先輩に習った。
「そ、そのとおりよ」
「ブレーメンはヒトほど繁殖ができるわけじゃない。個人差はあるが子どもが作れるのは25才を超えてからだ。それに作れる時期も数年に1度だけ」
「じゃあ、その、生理も……」
「女性の? 数年に一回だ」
「それは、それはそれで便利ね」
「だが、あれは危ない。ブレーメンは女が男を選ぶんだ。より強い子供を生むために。だから繁殖欲が強くなり気性も荒くなる。つがいのいないブレーメンの女は数ヶ月山に籠もってやりすごす」
「でも、男女ともに数年に一度、って子供ができないじゃない。あれでしょお互いの最小公倍数の歳だけ子供が作れるんでしょ」
「まあ、寿命もヒトの倍近くあるし、大丈夫じゃないのか」
「何歳くらい」
「さあ。ヒトみたいに誕生日を祝ったり記録したりする習慣がないからなんとも言えなけど、ヒトの教師は、ブレーメンの寿命は150年とか言っていた、ような。たぶん」
ブレーメンに病気は存在しないし怪我だってたちどころに治ってしまう。普通は老衰までの寿命を生きる。両親が滑落死した、というのは例外中の例外だった。
だが───ニケはかつてのこだまを振り払った。今はホノカと他愛無い会話をする時間なのだから。
「本当に違う生き物なのね。わたし、全然知らなかった」
「ぜんぜん違う生き物だが、実は付いているモノの形は同じだったりする。不思議よな」
「もぅ! そーいう話はいいから!」
軍警察の先輩にはウケたネタだったのだが。年頃のヒトの子はよくわからない。
†
リンはシィナを引き連れて軍務省から最寄りの駅へ向かった。そこから路面電車に乗り区役所へ向かう。市民にとって軍人が相乗りするのは日常の光景だが、長大な大太刀を携えたブレーメンは目立っていた。駅で路面電車を待つ間、人々はちらりとシィナを目の端でとらえ、自然と距離を取っていた。若草色の瞳を見ずとも、その長大な武器でブレーメンだとわかった。
やっと路面電車が来た。行き先も看板に書いてある。2桁区という意味は10区から99区まで番号が振ってあるからだが、実際は欠番もあり数は85区程度だとか。そのうち、空きのあるコンドミニアムのある区へ向かう。環状鉄道を使うまでもなく路面電車で行ける距離だった。
シィナは器用に大太刀をずらし、半身で電車の座席についた。
「それ、邪魔じゃないの?」
リンは頭上高く伸びる大太刀を見た。ほとんど電車の天井に届いている。階級もはるか上だから敬語は使うべきだけれどシィナは気にしなかった。
「あんたね、わかってないわね。剣はブレーメンの誇りであり強さの象徴なの。不便とか邪魔とかじゃないの。扱いにくいならそれは周りの建物のほうが扱いにくいだけなんだから」
なんと暴論な。
「ニケのはもっとこう、シュッとしてたよ。昨日うちでちょっと見せてもらったけど」
「私のほうが強いの。だから私の晴式剣術のほうが優れているの」
「なにそれ。ずっと強い強いって。ニケのほうが優しくてかっこいいんだから」
「ふぅん。ニケ、ね。ヒトが知ったふうな口を」
言葉の最後に未知の言語が発せられた。それでもなんとなく悪態の類だとわかってリンは眉をひそめた。
やっぱり仲良くなれそうにないな、この女。
路面電車はいくつかの駅に止まりながら進んだ。周りの風景もオフィスビルから住宅街に変わった。もうすぐ区役所に着く。ニケに教えてもらったので電車の現在位置とか降り方とか運賃の支払いとか、そいういうのは分かっている。
「ねぇ、ニケって昔はどんなだったの?」
リンは運賃の小銭を数えながらシィナに訊いた。
「近所に住む、私と同じく剣技を受け継いでる家系の男の子。物静かで口数が少なくて、目付きが悪い。でも剣技の稽古のときは鋭い表情に変わって、相手が“まいった”を言うまで容赦なく叩きのめすの。でもご両親からは───もう亡くなってしまったけど、かなりキツい修練を受けていたみたい。朝に会うといつも傷だらけだったから」
すらすらとニケを監視した情報が出てくる。しかも5年も前だというのに。
「ニケってカレシなの?」
「カレシ? ああ、うん知ってるわよ。テレビで見た。好きになった男という意味でしょ。ヒトの習慣」
そんなものなのかな。
「変なの」
「一応言っておくと、ブレーメンとヒトは違うの。私にとってのニケはライバルであり剣友なの。あまりヒトの尺度で計らないでちょうだい」
「あたしも、よくわかんないよ。ヒトじゃないし。強化兵だし」
リンの赤い左右非対称の髪が力なく左右に揺れた。
「同じでしょ」
「違うよ。全然。あたし一般兵より力持ちだし疲れないし、ご飯はいっぱい食べるけど。あと、あたし抜擢射手だから。テウヘルの見えない距離から一撃で倒しちゃうんだから」
「ふん。遠くから飛び道具を使うなんて臆病者のすることよ。敵陣に飛び込んでこそ勝者ってものよ」
「そんな事したら撃たれちゃうよ」
「弾? そんなの避ければいいじゃない。見えるでしょ」
そういえばニケも弾丸が見えるとかどうとか言っていた。あまり多用はできないとも言っていたけど触媒の剣を手にした今、もっと強くなったのかな。
「ともかく私の勝ちよ。私のほうが強いしニケのことだってなんでも知ってる」
「何でも?」
「もちろん」
「じゃあ、見たの?」
「見たって何を?」
「ニケのおちんちん」
「ああああああああああああんんたばかじゃないの! 見たくなんて、ううん、見たくないんだから!」
やっぱりニケと仲がいいんだな。この女もだ。右耳の強化兵の識別タグに触れてみた。
みんな誰かと関係がある。大尉とホノカちゃん、ニケとこのおっきい女。関係がある。関係があったから今の関係を持つことができている。思い出を話すことができるし誰かが話してくれる。自分のことは自分が知っている。もちろん。でも他の人も知ってくれている。それが関係だ。みんな誰かとつながっている。
じゃあ、あたしは? 一番古い記憶は目も耳もはっきり動くようになったあと、リハビリ室で一列に椅子に座らされたときだ。誰も彼も同じように切りそろえられた髪に白衣を着せられ、耳には識別タグを付けられ、じんじん痛かった。それが唯一の個人情報だった。誰かの献血をもとにして生まれた。連邦を守るために。
一緒に育った名前もない兵士たちはたぶんもう、みんなどこかの戦場で死んだ。誰との関係も持たないまま死んだ。誰も思い出なんて話してくれない。あたしもいつかきっと、そう。死なんて怖くないと思ってた。考えたこともなかった。でも誰との関係もないままこの世から消えてしまうなんて。悲しい。
リンは雑然とした思いに駆られ、思いを消せず、ついつい涙が溢れてきた。ぬぐってもぬぐっても涙は止まらなかった。
「ちょ、なんで泣いてるのよ。ごめん。言い過ぎた。あぁ悪かったってば」
別にこの女のせいじゃないけれど。でも慌てて抱きしめてくれたのは嬉しかった。それにいい匂いもする。
目的の区役所は11階建てビルで、薄い石材で外側を彩られているが地味な建物だった。複数の入口があったが、リンはシィナの前に立ち看板の案内に沿って歩いた。出入り口には民間の警備員が立っていたがそれぞれ武器を携えているリンとシィナを止めるようなことはしなかった。
区役所での事務処理は、野生司大尉の背中をみてコツを学んでいる。相手の苦労をねぎらう、連邦に尽くしていると褒める、自分も忠義に厚い軍人だとアピールしこれも公務だから、と書類を渡す。
窓口の役人は書類を一通り確認したあとで、ふたりにベンチに座って待つように促した。シィナの背負う大太刀には目もくれず無難に仕事をすればいいという男だった。
役人は何かにつけて作業が遅い。そのうえ催促したら賄賂を要求してくる。しかしこのコツさえあれば早く書類が出来上がる。たったこれだけでヒトの態度は変わる、まるで宝石のようだった。心は多面体で、回転させてやれば輝くこともあるし光るのを止めることだってある。そんな人たらしの術を野生司大尉から学んだ。大尉の手にかかればオーランド大学の教授から民間の技術者まですぐに手を貸し情報を渡してくれる。
ほんの15分ほどでシィナの書類が出来上がった。この地区への居住許可証が交付された。この書類と、コンドミニアムの契約書のコピーとシィナのIDを添付し軍務省の庶務課に提出すれば住宅手当が付く。なんてことない、普段どおりの書類仕事だ。
シィナは怪訝な目で書類を眺めている。
「ふぅん、ばかばかしい」
「ダメだよ! わかんないからってそういうふうにごまかしちゃ」
「ぅうっさいわね。わかってるわよ」
リンは区役所を出ながら、野生司大尉に渡されたメモを見返した。
「書類は手に入れたでしょ、あとはコンドミニアムの事務所に行って賃貸契約をして、家具を一式買う。ピーロット・マートならまとめて家具を買うことができる、か。シィナちゃんはお金あるの?」
「ちゃんって。まあいいわ。金ならある。親戚から渡された餞別と、支度金って軍から渡された金があるんだけどよくわかんないのよね、お金。こんなの、何に使うのよ」
シィナはおもむろに襟口から上着のシャツに手を突っ込むと、くしゃくしゃになった札束が胸元から出てきた。
「うわぁ、お乳ってポケットにもなるんだ!」
「いてこますわよ」
†
ニケが夕食の食卓に葉野菜と柑橘のサラダを並べていたとき、ドアのチャイムが鳴りリンと野生司大尉が帰宅したことがわかった。
「ニケっただいま! へへへ、おつかれさま」
「ちゃんと手を洗ったのか」
「洗ってきたよ。ほら」
「冷たいから。わかったから俺の頬から手を離せよ」
「へへへ。温かいからヤダ」
なにかいいことがあったんだろうな、と予想はついた。ニケはつきまとうリンを無下に払いのけずしたいようにやらせた。
「シィナはどうだ? あいつのせいで迷惑じゃなかった?」
「ううん。うーん、ちょっと嫌な感じだったよ最初は。でもねシィナちゃんもまあまあいい人だってわかった」
「まあまあ?」
「今日ね、お世話をしてあげたの。住む場所を見つけるの。で、家具を買って余ったお金でトゥインキーをいっぱい買ったの」
ニケは空いた鍋を洗っていたが、手を止め水道の水も留めた。
「いっぱい?」
「うん、いっぱい」
リンは両手で袋を持つポーズをした。
「最初の給金は来月で。あと1ヶ月分の生活費はどうするんだ?」
「あっ、そうだった。えへへ。失敗失敗」
よくよく見てみればリンの上着のポケットがパンパンに膨らんでいる。たしかにシィナはあの甘ったるいトゥインキーが大好物で、物資に乏しい村と違ってオーランドに来れば好きなだけトゥインキーが買える。金勘定に興味がないあいつのことだから、あらかじめ注意しておけばよかった。
「あとねあとね、なんていうんだっけ。シィナちゃんのお部屋は最上階の屋上にある部屋でね」
「ペントハウス?」
「うん、それそれ。でね、広いからそこで自慢っぽく剣を抜いて振り回したんだよ」
「それは剣舞だ。あいつが剣舞を見せるなんて、ずいぶん気に入られたじゃないか」
つい声を上げて笑ってしまった。久しぶりに自分の笑い声を聞いた気がする。リンも不思議そうに見上げている。
「いい人なのかな。あたし、まだわかんなくて」
「粗野で粗暴で口汚いが、悪いやつじゃない。性根はまっすぐってだけで裏表のない、いいやつだ」
「ふぅん」
「納得がいかない?」
「シィナちゃんはニケのことすっごくいっぱい喋ってたけど、ニケはシィナちゃんのことあまり話さないなーって」
「結構話しているつもりなんだけど」ニケは腰に下げたままの旧式拳銃に触れた。「この銃は贈り物だって話をしたよな。俺が里を出るとき、この銃を贈ってくれたのはあいつだ。この銃にどんな由来があるかは知らないけど、あいつなりの気遣いだった。俺はそれが嬉しくて、でも村を去るのが悲しくて、なるべくあいつのことは考えないようにしてた。あいつが現れて正直言うと、驚いた。嬉しかったが、驚いた。あいつのおかげでブレーメンとして生きていいんだって気付かされたよ」
「ほぇぇ」リンはぽかんと口を開けて、「恋人じゃん」
「そんなんじゃない。そうなるかはわからないけど、とりあえず今は───リン、怒った?」
「別に、そんなんじゃないもん」
リンはそう言いつつもぷんと頬を膨らました。赤い左右非対称の髪が収まり悪く揺れている。
「ねぇ、ニケも剣舞、できるの?」
「無くはない、たぶん。この5年、やってないけど体が覚えてる」
「やった! じゃあ見せて見せて」
「まずは夕食だ」
ニケはテーブルの鍋敷きの上にシチューの入った鍋を置いた。穀物パンも薄くラードを塗って用意してある。
「いいじゃないか、そんなに時間がかるものなのかい?」
野生司大尉がシャワーを終えてリビングにやってきた。すでに手には缶ビールが握られている。
「全部で十の型がありますが、1つか2つなら5分くらいです」
「あらーあらあら、あたくしも気になるわ」
野生司大尉の後ろでノリコさんもニコニコだった。
ニケは、わかりました、と観念すると自室に戻って2振りの刀を持ち出した。革紐で体側に固定した。わずかに長い主刀が、右手で抜けるように体の左側に、隠し刀は逆手の左手で抜けるよう右腰に低く結わえられた。
普段 洗濯物を干している狭い芝生の庭でリンも野生司大尉もノリコさんも待っていた。2階の自室からホノカも顔を出している。
連邦の一兵卒としての“顔”。それとは別のブレーメンの“顔”を見られるのはどこか面映ゆかった。少し笑っていたかもしれない。剣舞では常に真剣な表情で臨まなければならない。でないといつも親父に殴られていた。
今はもういない。伝承では亡くなったら宇宙を循環しそしていつか現世に戻ってくるのだとか。根拠の無い話ではあるがどこかブレーメンの伝承を思い出すとツンと喉の奥が辛くなる。
ニケは直立した姿勢で観客に向き直った。
「天幕が開き業魔が現れたときのことです」ニケはぽかんと口を開いているリンににこりと笑うと説明を付け足した。「剣舞はすべてブレーメンの伝承に基づいている。天幕は、どう説明したらいいか。別の世界でそこから業魔が時折襲来する。それを退けた伝説的な戦いを剣舞として伝えているんだ。ヒトのように文字で記録することはないからね」
すっと夜の空気を吸う。じとりと湿っていて冷たい空気だった。丹田に力を込めそして左脇に下げた主刀の柄に手を触れた。
とたんにぴりりとした感覚が脳天から指先、そして刀身の先にまで駆け抜けた。重くて軽い、緻密な構造のオリハルコンの隅々まで知覚できるようだった。
「一の型」
構え──足を前後に開き地中深くまで重心を突き刺す。体幹を保ったまま主刀を引き抜いた。ほんの1尺少々の長さしか無いが、夕闇に青い刀身の輝きが灯った。呼吸と心拍に合わせてわずかに光量が変化する。まるで生きているかのように。
観客の息を呑む音、それから街の喧騒が一気に消え去る。業魔と1対1で対峙し、次第に迫る間合いを瞬時に詰め、業魔の正中線に深々と突き刺し斬り上げる。
4人の観客は、瞬きの瞬間にニケの姿が消え、狭い庭の反対側へ異動した光景に唖然としていた。短い芝生はピクリとも揺れてない。ニケはほんの一歩で地面を滑るように移動した。
「二の型」
ニケが振り返る。右手に握る刀身の刃先がわずかに左を向く──業魔の左目の盲点に刀身が入るよう、止まらぬ滑らかな動きだった。
主刀を握る右手が空中でピタリと止まる。地中深く刺さった重心で体を微動だにせずに敵に攻撃を押し留める──そして肉薄、肘打ち──左足を出しながらコンマ数秒で左手で隠し刀を引き抜いて残心の型だった。
「止め打ちは、何回見えましたか?」
唐突なニケの質問に、観客は互いに顔を見合わせたが、
「何回と言われても、ただ振り抜いただけのようだが」
野生司大尉が恐る恐る答えた。
「3回です。3度敵の急所を刺し貫きました。父なら同じ時間で5度、刺し貫くことができました」
解説──ブレーメン相手なら不要な説明だった。うまく行けば歓声が上がるし下手なら野次が飛ぶ。下手すぎれば誰かが代わりに剣舞を披露し始める。懐かしい光景が脳裏に思い浮かぶ。
混沌とした秩序と暗黙の了解がブレーメンの里の掟だった。ヒトの“顔”で生きる今、ひどく非合理的に思える秩序だったが、郷愁感に苛まれてしまう。
「以上です。三の型以降はけっこう長くなるので、また別の機会にでも」
ぱちん、と2振りの刀を鞘に収めた。熱い血の流れがすっと頭から抜けていく感覚があった。もっと刀を握っていたいという誘惑を押し殺す。
拍手──野生司夫妻と2階のホノカからの賛辞だった。
「うっわぁは! すごいすごい! とってもかっこよかったよ」
リンはぱたぱたと駆け寄るとぎゅっとニケを抱きしめた。
「どうも。おもしろい余興になったのならいいけど」
「目付きは悪いし怖かったんだけど、ぴかって目が黄色に輝いてありえないくらい速く動いてて。すごいすごい!」
自分の目がどう輝いていたか、なんて分かるはずもないが、ラーヤタイの戦いのときはブレーメンの力を発揮しようものならすぐに心臓が締め付けられる苦しさがあった。ブレーメンの剣は触媒、と知っていたが実際に使ってみると苦しさは微塵も感じなかった。何時間でも戦い続けられるような、そういう高揚感すらあった。
「家族に教えられた剣舞だ。まだまだ基礎中の基礎。父の系統の剣舞と母の系統の実用性を兼ね備えた動き、のつもりだったが。剣舞は剣舞だ。実戦とは違う。ときどき練習しないとな」
「どんな家族だったの?」
あまり考えたくもない話だったが、今このときだけは、感謝の気持ちで話せそうだった。
「親戚の家族に比べて、まあうちは特に厳しかった。剣術の稽古はずっと暗くなるまで続いた。投げられた岩を斬るんだが失敗すると頭から血が流れ出るくらい怪我をする。そんなのばっかりだった。だから両親が死んだって知らせを聞いたとき、正直ホッとした。まああのときはまだ子どもだったんだ。今は、寂しいって言葉の意味が理解できたよ。もう過去には戻せない。前を向いて歩かなきゃ、ってね」
リンのキラキラした目が輝いている。思いつくままに話してみたが、やはりまとまらなかった。両親はそういう偉大な存在だ。ごまかすようにリンの頭をなでてやった。
「私の家族って、どんなのだろう」
「ああ、すまない、リン。お前の気持ちを考えるべきだった。だが家族は血縁だけじゃない。一緒に暮らし支え合うのも家族なんだ。野生司大尉だって、単に仕事の関係以上に良くしてくれている」
しかしリンはぶんぶんとニケの手を振り払った。
「家族に会いたい。ううん、一目 見るだけでいいの。そしたらあたし、どうやって生きたらいいか分かる気がする」
突拍子もない相談に、ニケも言葉を失ってしまった。
おまけ




