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この目に映るのは  作者: 琢都
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第8話

 立花が隠れ家に来なくなった。もうそろそろ一ヶ月が経つだろうか。意図的に避けているのか、それとも単なる気のせいなのか。

 彼と別れたあの日、辛うじて自宅に戻ることはできた。部屋の片隅でひたすら頭を抱え、スマートフォンへと手が伸びた頃には日もすっかり暮れていた。

 メッセンジャーアプリを開いて、立花へお礼のメッセージを送った。意外にも返事は直ぐに届いた。

『俺の方こそ、ありがとう。本当に楽しかったよ』

 とりあえず返信が来たことに一安心し、続けてキーボードをタップする。

『立花さんの気持ちに気付けなくて本当にすみませんでした』

 メッセージの下に「既読」というマークはついた。けれど、待てど暮らせどリプライは来ない。十分ほど待ってみたが、限界だった。意を決して電話をかけてみたものの、出てもらえるはずもなかった。

『もう一度、会って話せませんか?』

 せめてもの思いでメッセージをさらに送ってみた。けれど、やはり既読のマークは付くものの、返信は来なかった。

「すみません」

 女性の声がした。飲み終わったグラスを片手に振り返ると、桃井が呼んでいた。すぐに表情を引き締め、カウンターに立つ久瀬へグラスを引き渡した。

「お決まりですか?」

「ホットケーキとアイスのカフェラテでお願いします」

「かしこまりました」

 オーダーを聞いていた久瀬が厨房へと引っ込んでいった。ドリンクを手早く用意し、彼女の元へと届ける。

「こちら、アイスのカフェラテです。…………」

 グラスとともにガムシロップを一つ置いてはたと気付いた。彼女には二つ用意しておかなければならなかった。桃井に詫びを入れ、急いでもう一つを手にした。

「失礼しました」

「いえ。いつもお気遣い下さって、ありがとうございます」

 恐縮しながら彼女はガムシロップを受け取った。

 こうした小さなミスが日に日に増えていた。注意力が散漫している自覚があるだけに気を付けてはいるのだが、またやってしまった。

「坂本君。よろしくね」

 焼き上がったホットケーキを運び、先客の男性の会計も終えた。テーブルを片付け、そのまま食器洗いに取りかかる。

 右手をちらりと見遣る。立花に振り払われた感覚は消えることなく、今でも強く残っていた。知らず知らずのうちに眉根が寄る。

 あの時、去って行く彼の腕を掴むことができていれば。何度も思い返しては後悔をする。ちゃんと話をしていれば、今頃いつものようにコーヒーを飲みに来てくれていたのではないか。にっこりと人懐っこい笑顔が浮かぶ。

 顔を上げ、彼の定位置となっていた窓際の席を見遣る。

「坂本く~ん」

 間延びしていた声に呼ばれた。慌てて振り向けば、久瀬が目配せする先に桃井が立っていた。

 またやってしまった。心の内で猛省しながら、レジカウンターへと向かう。

「今日は本当にすみませんでした」

「そんな、全然。気にしないで下さい」

 気遣うような優しい眼差しに、いっそう心苦しくなる。

 会計を終えると、おずおずと個包装したマフィンを差し出した。

「これ、良かったら食べてみてもらえませんか? 新しく出す予定で、常連の方に試食してもらってるんです。できれば感想を聞かせてもらえると助かるんですが」

「美味しそうですね。でも、私なんかでいいんですか? 大したこと言えないんですけど……」

「桃井さんの口に合うか合わないかだけでも聞かせてもらえると助かります」

 彼女が目を瞠った。そのまま固まってしまう。

「……どうかしましたか?」

「あ、……その……名前……覚えて下さってたんですね……」

 言われて、初めて気が付いた。そう言えば初めて名前を呼んだかもしれない。

 客のことを覚えるのも仕事のうちだ。接客していく中で覚えていくことはもちろん、久瀬が話を聞かせてくれることもある。桃井の名前も確か彼から聞いた覚えがある。

「もちろん覚えてます」

「……ありがとうございます……」

 少し気恥ずかしそうに彼女は目を伏せた。

「それじゃぁ、これ、いただきますね。また感想もお伝えします」

 閉まるドアを見送り、店内は無人となった。

 今の内にさっさと片付けを終わらせないと。気を引き締め直したところで、久瀬に声をかけられた。

「今日は一段と上の空だねぇ」

 良い天気だねと世間話でもするかのような軽さだった。へらりと笑ってもいる。けれど、自分はその場から動けなくなった。

「…………すみません……」

 口にせずにはいられないほど、目に余るものがあったのだろう。直立し、項垂れていると、「違う、違う」と笑われた。

「そうじゃなくって。心配してるんだよ」

 相変わらず軽い調子ではあるものの、声音にも、そして表情からも温かさが十二分に感じられた。

「………………」

「まぁ、ただ、あと三時間は店を開けておかないといけないからねぇ。悪いけど、もう少しだけ働いてくれる?」

「…………閉店までちゃんと働きます……」

 飄々といつものようにからかってくれる。その気遣いに感謝しつつも、自分もまたいつものように返すことしかできなかった。それでも久瀬は大らかに笑う。

「よしっ。じゃぁ、よろしく頼むね」

 棚を開け、コーヒー豆の残量を確認し始めたその背中をしばし眺める。

「久瀬さん」

「んー?」

「……立花さん、最近来ませんね」

「あー、そうだね。そう言えば見ないな」

「……忙しいんですかね」

「うーん。どうだろう。そうなのかもしれないなぁ」

 片手間にそう話す。友人である久瀬ならば何か知っているかと思ったが、何も知らないのだろうか。

『昨日は映画、楽しめた?』

 立花と映画を観た翌日、出勤した俺に久瀬は呑気に尋ねてきた。立花は何も伝えていないのだろうか。自分から事の顛末を話していいのかわからず、「はい」という一言しか返せなかった。

 元を辿れば、そもそも出かけることを提案したのは早乙女と久瀬だ。二人とも立花の気持ちを知っていて仕向けたのではないんだろうか。

 自分だけが、何もわかっていないまま、軽い気持ちで引き受けてしまった。二人の目に、自分は一体どう映っていたんだろうか。

 また考え込んでしまいそうになるのを、ドアベルが阻んだ。

 やって来たのは二人組の学生だった。そのまま細々とだが客足は途切れず、閉店の十八時はあっという間に訪れた。




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