4 青い血はお貴族様に流れるのです
「はぁぁぁぁぁっ?!」
ジャックの大絶叫が響き渡る。うるさい。
ジャックの口を塞いで、シィっと唇に指を立てる。
「だめよ、ジャック。誰かに聞かれたらマズイことになる」
ジャックが、コクコクと頷く。それからジャックが塞いだ手を指差す。外してってことかな。
「手を離すけど。大声出さないでね?」
もう一度ジャックが頷くのを見て、そっと手を外す。ぷはっと勢いよく吐き出したジャックの息が掌に当たって湿る。
ジャックはふうっとゆっくり息を吐き出して胸をなでおろす。落ち着くのを待っていると、ギロッと睨まれた。えっ。怖い。
「……どういうこと?」
うーん。院長室に何度も忍び込んで裏帳簿探して、やっとのことで見つけたって言ったら、ジャック怒るかな。
「リナ。ちゃんと言え」
ジャックの目が吊り上がる。もう怒ってる……。やだなぁ。
なんて言い訳しよう。考えながら指先に髪の毛をくるくる巻きつける。
「リナがそうやって髪の毛ひっぱるときって、都合が悪くなるときだよな」
バレてる。
「リナ」
ジャックが凄んできた。仕方ない。
はあっ。ため息がもれる。
「ジャックもここの孤児院が貧乏だって思うでしょう?」
「まぁ金持ちではないよな」
ちょっと考えるように腕を組んでジャックが頷く。
「海の塩でやられてるから、壁も屋根もボロボロだし。冬は隙間風が冷たいし」
でもレオンの家も結構なボロだったよな、と言うジャック。
確かにあの家はボロかった。正直、よく住んでいられたな、と思う。雨が降れば、雨漏りは当然、強風の日は、扉をすり抜けた風が吹きすさぶし、たまに屋根の板が飛ぶ。これは危険。
今だからわかることだけど、たぶんナタリーが補強か何か、家を保つための魔法でもかけてたんじゃないかと思う。そうでなきゃ、あんなボロ屋で冬を越せるはずがない。
「ジャックも私もボロ屋には耐性がついてるからね」
「まあな」
ジャックは四人で住んでいた頃のことを思い出したのか、苦笑いする。
眉を下げたジャックがどこか嬉しそうなのは、気のせいじゃない。懐かしくて温かい気持ちで満たされる。私達の帰る場所。大事な家族。
「とんでもないボロ屋だったけど、飯はうまかったし、風呂も入れたな」
「うん。レオンが料理上手だったし、お風呂はナタリーがこだわってたものね」
「二人とも譲らなかったからな……」
ジャックが遠い目をする。
レオンからは、バランスよく食べて適度な運動をして規則正しい生活をするよう、耳にタコができるくらい言われた。
ナタリーは毎日入浴しないなんて信じられない!不潔!美容の大敵!と喚いて、レオンに風呂場の設置を要求したらしい。レオンはナタリーの我儘に仕方なく了承して、風呂場を設けた、って言っていた。
住居であるボロ小屋の隣、ボロ小屋よりさらに簡素な小屋があり、そこに脱衣スペースと風呂釜があった。
「まあ、飯も風呂も、うちがちょっと特別だったからな。飯はともかく、風呂はない」
「まあね。お風呂のある家なんてないわよね」
風呂釜いっぱいの水を汲むだけでも大仕事だ。これはナタリーに魔法が使えたからできたこと。何もないところからたっぷりのお水が湧き出て、その上お湯が沸く。魔法ってすごい。
大金持ちの商家ならともかく、普通の平民にお風呂なんてまず無理だ。とんでもなく贅沢。
「だからオレは、この孤児院がそれほど貧乏だとは思わない。他の孤児院のことは知らんが、村の孤児院もこんなもんじゃなかったか?」
「そう? 院長先生とネモフィラさんはパンと野菜くずのスープだけじゃなくて、分厚いお肉にお魚を食べてたり、パンだって日持ちのするカチカチに固い、スープに浸さないと齧れないパンじゃなくて、柔らかい白パンだし、裏の畑で採れた野菜だけじゃなくて果物まで食べてるし、私たちはたまにしか飲めない紅茶を毎日飲んでたり、夜は二人でこっそり隠れてワインを飲んでるのに?」
「は?」
ジャックが目を剥く。
「ジャックは気がつかなかったの?ルークさんもマーサさんも知ってると思うわよ。他の子たちが知ってるかはわかんないけど」
「は? え? なんだそれ。え? リナいつから知ってたんだ?」
「ここに来てすぐかな」
返事が返ってこない。目を見開いて口をぽかんと開けたままジャックが固まってしまった。
だっておかしいと思ったんだよね。
孤児院にいる子達はみんな痩せこけてるのに、院長先生とネモフィラさんは血色がよくてフクフクしてた。
マーサさんは通いで来ていて、ちゃんと自分の家があってご主人もいるから、体格がいいのはわかるけど、院長先生とネモフィラさんはどうしてふっくらしているんだろう。
大人だから子供より体格がいいって言うなら、ルークさんは頬がこけて手足は骨と筋だけみたいで顔色が悪くて、こんなにガリガリだよ。なんで?って。
ネモフィラさんなんて肌もツヤツヤして、ウィンプルに隠された波打つブルネットの髪はしっとりサラサラしている。
「二人はグルってことか?」
怒りのこもった低い声でジャックが唸る。
ジャックは正義漢だからね。ここの子供達にも無関心を装ってるけど、一緒に暮らして絆されてるところもあるんだろう。
「わかんない。でも私は院長先生の独断だと思ってる」
「それもカンか?」
「まあね」
裏帳簿は院長先生の筆跡しかなかった。
ネモフィラさんは修道女だけど、読み書きできるのかな。
たぶん貴族の庶子だとは思うけど、教養は怪しい。ネモフィラさんは子供達に読み書き、裁縫、編み物、刺繍のどれも教えようとしない。院長先生も教えてくれないけどね。
孤児院の奥には糸車もあるのに、誰も糸紡ぎを教えない。マーサさんだけが繕いものを不器用な手で少し教えてくれるくらいで、子供達は無芸無学なまま。
ジャックが腕を組み右手で顎をしゃくる。
視線を床に落として下唇をかみ、つま先でトントンとリズムを取っているジャックを横目に、グラスにミント水を注ぐ。
ジャックにグラスを差し出すと、視線をよこさず受け取った。
「だからね、まずはネモフィラさんに接触しようと思って」
「……」
グラスの水を一気に呷るのを見守ってから、ジャックの上着の裾を掴む。
「院長先生に直接、横領してませんか? なんて聞けないでしょう」
「そりゃそうだが……。ネモフィラがグルじゃない証拠はあるのか?」
あら。ネモフィラさん、呼び捨てになっちゃった。
「ねえジャック。よく考えて。あのネモフィラさんに腹芸ができると思うの?」
「……それこそ演技かもしれない」
ないと思うなあ。
のほほんと笑い、のんびりゆったりとした口調で、お天気のことしか口にしないような人。動作も緩慢で、誰かが何か問いかけると、どんな言葉であってもまずは首をかしげる。
あの人は院長先生の与えてくれることを何も考えずに受け取っているだけだ。子供達が貧しい食事をしていることに、考えが及ばないようなのはどうかと思うけど。自分だってここで育ったはずなのに。大人になったから食事の量が増えたんだって、ただ単純にそう思っているんだろうな。
でもジャックの言う通り実は狡猾で、間の抜けた姿が演技だっていう可能性も、頭の片隅に置いておこう。
「リナに危険なことはさせられない。オレがネモフィラに聞く」
「ジャックには無理よ。第一どうやって切り出すつもり?」
「……」
それに問い正したいわけじゃない。そんな正義感はない。弱みは握りたいし、利用はするけど。
「リナは何が知りたい? 院長の横領を止めたいのか? オレたちがもっといい暮らしできるかもってこと? それともやっぱりネモフィラの心配か?」
ジャックの鋭い光のこもった強い目に、押されてしまう。
ジャックの挙げる理由のどれに頷いても、ジャックは納得しないだろう。ジャックはそのどれも望んでいない。私が危険を侵してまで解決すべきことではないと思ってる。私もそう思う。
「横領は止められたらいいとは思うけど、止められなくても構わない。いい暮らしは望んでない。ここでずっと暮らすつもりはないから。他の子達は気の毒だと思うけど、庇ってやれる余裕ができるかはわからない。ネモフィラさんは少しは心配してる。でも自分の頭で考えていないのなら、自業自得だと思う」
「そうか。じゃあ他に何がある?」
満足そうに頷くジャックを見て、正しい答えを返せたんだとほっとする。
本当のところ、子供達のことは、ジャックも改善してやりたいと思っているんだろうけど、それ以上にジャックは私に過保護なのだ。それはよくわかっているので、他人のためにという理由は外さなくてはならない。
ジャックをじっと見つめる。
私達がリスクを冒す価値があること。二人が納得すること。渇望していること。
「気になるのはナタリーのことよ」
「ナタリー? どう繋がる?」
刮目したジャックがぐっと顔を寄せるから、私は後ろに仰け反った。
「襲われたとき、ナタリーは金髪の男にナタリー・キャンベルって呼ばれてた。キャンベルはキャンベル辺境伯の家名でもあるよね。ここはキャンベル領だし、この孤児院はキャンベル辺境伯が直接関与しているかはわからないけど、分家なり寄子なりのどこかが管理してるんだと思う。誰も慰問に来てくれないから繋がりが持てなかったけど、ネモフィラさんから辿れば、もしかしたらキャンベル辺境伯家を探れるかもしれない」
息もつかずに捲し立てると、ジャックは極限まで目を見開いて、ぽかんと口を開けた。
「そんな貴族の事情、どこで仕入れたんだ?」
気の抜けたような声色に少し笑ってしまう。
でもジャックの疑問はもっともだ。
平民はせいぜい、自分の暮らしている領地名と税を納めている領主が誰かわかるくらい。下手をすると領地代官のことを領主だと勘違いしていたりする。領地名だの家名だの爵位名だの、本家だの分家だの。そんなのは知ったこっちゃない。
私だって興味はなかった。だからナタリーの話を真剣に聞いていなかった。とても後悔している。
ジャックの耳元に口を寄せて両手で囲うと、ジャックが身を寄せてくれる。
「青い血よ。ジャック」
「青い血ってリナとナタリーがそうなんだろ?だから力が使えるってナタリーが言ってたやつ」
怪訝な様子でジャックの眉間が寄せられる。
「そう。それからこの国で、青い血が流れているのは、お貴族様だけ」
「は? 貴族? リナ、お前もしかして……」
ジャックがぎょっとしたようにこちらを振り返る。
「私は150年前の王様の子なんだって」
震える声色で紡がれる言葉尻を受け止め、にっこりと笑う。
「王様!? じゃあリナはお姫様ってことかっ?」
まん丸に目を見開いて、慌てた様子で私の肩を揺らすジャックを前に、笑いが止められない。
「……って、え? 150年前?」
がくがくと私の肩を揺らしていたジャックの手が止まる。
そうそこ。
王様の子っていうのもとんでもない話。だけどそれ以上に150年前って何?だよね。
ジャックの頭に疑問符が飛び交ってるのがわかる。
「何言ってるかわかんないわよね。大丈夫。私もよくわかってないから」
「なんだそれ……」
くすくす笑いながら答えると、ジャックが脱力してガックリと頭を垂れる。
「……リナは本当にレオンの子じゃなかったんだな……」
あんなに違うってレオンが否定してたのに、ジャックは信じていなかったらしい。
照れてるだけで、本当はレオンとナタリーが夫婦だと思ってたのかな。もしそうなら、ジャックはショックかしら。希望を壊しちゃったんだろうか。
それにしては頬が赤らんで口元も緩んでる。レオンとナタリーが夫婦じゃなくて嬉しかった?そんなわけないか。
「……まあオレもレオンと血は繋がってないって言ってたし。関係ないけど」
「ん? どういうこと?」
ジャックが口元を手で覆って、何やらもごもご言ってる。
「いや別に、なんでもない……」
とうとう両手で顔を覆ってしまった。耳が赤い。首まで赤い。おーい。大丈夫かな。話を戻していいかしら。
「ちなみに青い血が流れてても力が使えるとは限らないらしいわ」
「そうなのか!?」
がばっと音が聞こえるほど勢いよく振り上げたジャックはもう、目を見開きっぱなしだ。
「うん。詳しくは教えてもらってないけど。今のお貴族様は力を出せるほどの魔力はほとんどないんだって」
潜在能力はあるらしいんだけど、貴族も魔術師も、今はほとんどいないとナタリーが教えてくれた。それ以上のことは、まだ教わっていない。これからもっと色んなことを教えてもらう予定だったのに。
ジャックの胸元のシャツを掴む。ジャックがビクリと肩を揺らす。
「……ねえジャック」
「なんだ?」
「あのとき、レオンとナタリー、死んじゃったと思う?」
何かが焦げるような、ジュッという音。
耳にこびりついて、どうしても離れない。
目を瞑って唇を嚙む。
「そんなわけあるか! ナタリーが魔法で防いだはずだ!」
弾けるようなジャックの声につられて目を開けると、真剣な色を宿したヘーゼルの目が私を射抜いた。ジャックの優しい手が目尻を拭ってくれる。
「あの二人は絶対に生きてる。必ずまた会える」
肩に温かい手が載せられ、そこからじわじわと温もりが広がっていく。
こらえきれなくなって俯くと、涙が零れ落ちた。
ずっと不安だった。あのとき、私が二人を殺してしまったんじゃないかって。
言えなかった。
ジャックにも恨まれてるんじゃないかって怖かった。
目をぎゅっと瞑ってジャックの胸元にすがりつくと、頭の後ろと背中にジャックの筋張った腕がゆっくり回された。ぎこちなく、こわごわと回された腕。
喉の奥から熱い塊が湧き出て止まらなくて、目頭が焼けるように熱くて痛い。唇をきつく噛んでも呻き声と絶え間なくうるさい吐息が漏れ出てしまう。
「リナのせいじゃない。二人とも必ず会える。大丈夫。泣いていい」
ふっと息を吐いて、噛み締めていた唇を離すと、こらえきれない嗚咽が慟哭に変わった。
体の中で何かが蠢いている感覚がある。それを外に出さないように注意して、不安と悲しみと怒りと、ぐちゃぐちゃになったものを涙に変えて流し落としていく。
ゆっくりとジャックが頭を撫でてくれる。時々髪を指で梳きながら、何度も何度も。繰り返し。
温かくて細くて長い指。力仕事でマメのいくつもある、かさかさとした手で、ジャックが撫でてくれる。絡み合い渦巻いた感情を解して払うように。優しく。
背中に当てられた掌から、じんわりと温もりが伝わる。
ジャックのシャツを涙と鼻水でビショビショにする私を、ジャックはずっと撫でてくれた。
「大丈夫。オレはずっとリナの側にいる。絶対に離れない。ずっとリナの味方だ」
ぎゅっと抱き着くと、べちょべちょになったシャツが頬に張り付いた。
ふと頭の上で空気が揺らいで、ジャックの笑った気配がした。