2 私は誰ともしゃべりません
どうやって辿り着いたのか、よく覚えていない。
ジャックと私は海辺にある孤児院に迎え入れられた。
海風でところどころ腐食している灰色の外壁と椨の木。孤児院手前には蔓荊が這っていて、淡い青紫色の花が咲いていた。
「二人は兄妹かな?」
白髪のおじいちゃんが私達を見て聞いた。ふさふさの眉毛は白くて困ったように下がっていた。
目の前に置かれたカップから湯気が立ち上っていて、私はそれをじっと見つめていた。
ジャックの手を握りしめて黙り込んだままの私をジャックは横目で見てから、おじいちゃんに向かい合う。
「兄妹じゃないです」
繋いだジャックの手がギュッと強くなる。
「でも大事な女の子です」
「そうか」
おじいちゃんはニッコリと微笑んだ。
「君と君の大事な女の子は、君達がここにいたいだけいればいい」
ジャックがホッとしたような顔をした。ユラユラと立ち上る白い湯気を見つめたまま動かない私の頭を、ジャックが片手でぐいと押す。
「よろしくお願いします」
ジャックと私は頭を下げた。
孤児院にいる大人は、院長、修道女のネモフィラさん、下男のルークさん、通いで子供達の世話をしてくれるマーサさんという村の女の人。全部で四人。
ジャックと私はそれぞれに紹介され、ジャックが「ジャックです。こっちがリナです。よろしくお願いします」と頭を下げた。私はジャックに頭を押されて頭を下げた。
孤児院にいる子供は…たくさん。
院長先生とネモフィラさんが紹介してくれたけど、覚えられない。目の前に半透明の薄い膜がかかっているみたいな感じで、あやふやだった。
体が小さくて細くて、髪の毛がパサパサしていて、伸びたり、変なところで刈られていたり、面白い髪型をしていた。それにちょっと臭う。痩せこけてカサついた肌、そこに目がランランと輝いている。
皆そんな感じだった。
それを見たジャックは、眉をひそめて、小声で私に「リナは喋らなくていい」と言った。
貧乏な孤児院なんだな、と思った。でも子供達が皆、院長先生とネモフィラさんに懐いているようだったから、悪い大人はいないんじゃないかな、とも思った。
夜、皆が寝静まったあと、ジャックが私のほっぺたを軽く叩いた。
「…なに?」
ジャックと私は一枚の布団の中でぴったりくっついて寝ていて、私はほとんどもう寝るところだった。
「ごめん。寝てた?」
「うーん…。寝るところだった」
モゾモゾと手足を動かして、ジャックに顔を向ける。窓からうっすらと月の光が差し込んでいて、ジャックの顔が照らされている。ヘーゼルの瞳。
「リナ、ここ、どう思う?」
ジャックは大人がするみたいに眉間にシワを寄せて、私の目を見る。ジャックの体が強張っているのがわかる。
「食べるものがあって寝るところがあるのは、いいと思う」
それ以外のことは、よくわからない。
「ここの子供、みんな痩せてる」
「そうだね」
「髪もちゃんと切ってもらってない」
「…そうかもしれないね」
子供達が暴れてうまく切れないのかも。そう思ったけど、そんな事情は私にはわからない。
ただジャックの言う通り、変な髪型はしてる。
「風呂も、たぶんあんまり入れてもらえない」
「うん。ちょっと臭うよね」
今日は水を張った盥と手拭いを渡された。
盥と手拭いは5人に一つ。5人一組で、順番に手拭いを絞って体を拭いた。ジャックと私は新入りだから、一番最後。
順番が回ってくると、ジャックは盥の水を外に捨てに行って、新しい水を井戸で汲んできてくれた。汲みたての水はすごく冷たかったけど、ジャックが手拭いで何度も何度も体を拭ってくれるから、何も言わなかった。私もジャックの体を拭いてあげた。
「大人達は優しそうだった」
「うん」
ちゃんとご飯をくれた。マーサさんはジャックと私の頭を撫でてくれたし、私達を見る目が優しくて、あと同情しているんだろうなって伝わってきた。
院長先生もネモフィラさんも、何も聞かないでくれた。ルークさんは、挨拶したあとは顔を合わせなかったから、よくわからない。
「でも」
ジャックが眉間のシワを深く刻んで、ギュッと口を結ぶ。
「まだ信用できない」
泣きそうな顔してるな、と思った。
「…私はわかんない」
信用。よくわからない。
ジャックはきっと、レオンとナタリーとジャックと私。四人で暮らしてたときのことを思い出してる。
レオンとナタリーのことは信用してる。
ジャックが大人を信用できなくなったのは、たぶん村人のせい。
あんな風に突然、わけもわからず家に知らない人達が押し入ってきたのは、きっと村人の誰かが、誰かに告口したから。
ナタリーと私の変な力。ナタリーがレオンのいないところで、こっそり教えてくれた青い血のこと。
ナタリーも私も、家の外で力を使ったことはなかったし、レオンもジャックも、誰にも言っていないはず。
でもあの家は、レオンが医者もどきをしていて、時折急患だと言って、突然誰かが訪ねてくることがあった。
ナタリーと私が力の使い方の練習をしてた時、誰かが戸を叩いて、急いで隠したこともある。
誰か村の人が漏らしたのか、それともこの力を探している人が村に隠れていて見つかったのか。
それはわからない。
でもあの怖い男の人達が来たのは、大人の誰かが、あの怖い男の人に教えたから。
ナタリーと私のことを。もしくはどちらか一人のことを。青い血のことまで村の人が知っているはずはないと思うけど、わからない。
何もわからない。
私はまだ、ナタリーに習いはじめたばかり。力の使い方も、ナタリーと私に青い血が流れていることも。
青い血が誰かに狙われているなんて、教えてもらっていない。
「リナ。信用するな」
「うん」
ジャックが言うなら、信用しない。
「オレが大人と話す。だからリナはしゃべるな」
「うん」
裏切られるのは怖い。
「力も使うな」
「うん」
もう襲われるのは嫌だ。
「他のやつらと友達になりたい?」
「わかんない」
村にいたときも、友達はいなかった。同じくらいの年の子供は男の子しかいなくて、虫を投げつけられてから、もう遊ばなくなった。力のことも知られてはいけないとナタリーに言われていたから、ビックリさせられたり、泣いたり、怒ったりできない。
私は家でナタリーに力の使い方を教えてもらったり、レオンの診察を眺めていたり、家事の手伝いをしたり、レオンとナタリーに勉強を教えてもらってりしていた。
レオンとナタリーは、ジャックにも勉強させたがっていたけど、ジャックは大抵逃げて、そういうときにジャックはの男の子達と遊んだりもしていた。だから村の男の子達と遊ぶときに、ジャックは私を連れていかなかった。
ジャックがうつむく。
「…他のやつらともしゃべらないでほしい」
「わかった」
「ほんとに?」
ジャックがはじかれたように顔を上げた。目を丸くしている。
そんなに驚くことかな?もともと友達がいなかったこと、ジャックも知ってるのに。
「ジャックがそばにいてくれるなら、友達はいらないよ」
途端にジャックがぎゅっと抱きしめてきた。布団の中だから、熱がこもる。薄い掛布団一枚だから、暖かくていい。
「ずっと一緒にいる。オレがリナを守る」
「うん。私もジャックを守るよ」
この日から、ジャックが大人と話して、私は黙ってついてくだけの生活が始まった。
ジャック十歳、私は九歳。孤児院生活のスタートだ。
水汲み、食事の用意、洗濯、掃除、小さい子の面倒。
ジャックが大人から指示されて、それをジャックが私に伝える。ジャックが一人だけでやること、ジャックと私二人でやること、私が一人でやってもいいことを二人で話し合って決める。私が一人きりで何かをするときも、出来るだけしゃべらないように念を押される。私は頷く。
そんなふうに毎日を過ごしていると、私が言葉を交わさないことに、みんな慣れていった。
最初のうちは、大人も子供も、みんな私に話しかけていた。それはもう、しつこいくらいに。
最初に子供達が私に興味をなくして、次に大人達が諦めるようになった。
親を亡くした可哀そうな孤児だから。きっと傷ついているから。きっといつか心を開いてくれる。
そんな風に、親切にしてくれて、たぶん今も「心に傷を負った可哀そうなリナ」を見守ってくれてるんだと思う。それを思うと申し訳ない気持ちもある。
それでもジャックが前に立つ。私が後ろでそれを眺める。その役割を変えようとは思わない。
ジャックが大人達と言葉を交わす後ろで、私はその様子をじっと見つめる。会話を覚えておく。それから考える。気になったこと、変だな、と思ったことをジャックに伝えて、話し合う。
そんなことを繰り返すうちに、気付いたことがある。
院長先生と修道女のネモフィラさんはきっと恋人同士。
それから下男のルークさんはネモフィラさんに恋をしている。マーサさんはネモフィラさんをとても心配していて、出来ることなら還俗してこの孤児院から離れ、ルークさんと所帯を持ってほしいと思っていること。
ドロドロだな。