記憶
遠い遠い、僕の記憶。
それはまだ幼かった時の記憶。
それは暗闇に堕ちていく記憶。
それは思い出したくない記憶。
『いいか、お前はこの家を継いで会社を大きくするんだ。』
たまにしか帰ってこない父親の言葉。
『あいつはこの会社の駒だからな。』
薄暗い廊下から光が漏れる。
その漏れた光の隙間から見える父親と母親。
困った顔をしながら聞く母親に対して父親が言った言葉。
『気取らないことが正義だと思ってんだよ、アイツは。』
通りがかった教室の中。
友達だと思っていたクラスメイトの言葉。
『あの子、社長の息子ですって。その割には大人しいというか、ねぇ。』
『大人しいと言うよりあれは仕事ができないだけだろ。』
昼休みあけのオフィスの中。
同じ部署の、同僚たちの言葉。
僕はいつだって社長の息子だという色眼鏡で見られてきた。
僕は生まれたときから父親の会社を継ぐことが決まっていた。
父親とちゃんと関わったのは片手で数えられるほどだった。
たまにしか帰ってこない、よく知らない、父親という存在に縛られた。
僕は僕という存在ではなく、父親の息子という存在でしかなかった。
父親の息子というものさしで測られる。
そのものさしで測られると僕は出来が悪かった。
父親は偉大な人だったらしい。
そんな偉大な人を前に、なにもかも勝てるわけがなかった。
もともと会社を継ぐ器なんて持ち合わせていなかった。
今思えばそんなの当たり前だった。
僕は僕であって、僕は父親ではない。
何をしても父親と比べられて、父親より出来が悪いと言われ続けた。
生まれたときからずっと、小さいことも大きいこともすべて比べられてきた。
周りには父親のような立派な人になりなさいと言われ続けた。
そうしたらいつの間にか、僕は僕でいることをやめてしまっていた。
僕は一生懸命父親になろうとした。
父親のように立派な人。
それが何を指すのか全然わからなかった。
それでも僕はなんでもできるようになろうと努力した。
なんでもできることが、僕にとっての立派な父親だったのかもしれない。
必死に努力して、小さい頃から多くの習い事に耐えた。
必死に勉強して、勉強では誰にも負けることのないようになった。
それでも父親には追いつけなかった。
父親になろうとすると、自分とのギャップに苛まれた。
まだ足りない、なんで足りないんだろう。
その疑問さえも失っていった。
ただがむしゃらに努力した。
それでも父親には追いつけなかった。
父親の周りの人が僕を評価する。
その評価を真に受けて、だんだんと心が壊れていった。
どんどん自分を失った。
埋められないギャップに苛まれた。
そして自分自身がどこに行ったかのかさえ見失ってしまった。
ただがむしゃらに努力した。
心が壊れていくのに気づきながら、それでも努力を続けた。
それで今日、僕は空へ旅立っていった。
何が間違っていたかなんて明白だった。
父親のようにならないといけない、という洗脳に僕はやられたのだ。
自分自身を失ったからこんな結末が待っていた。
それでも死ぬ前にここから逃げないといけない、と思えただけましだった。
完全に自分自身を失ってはいなかったのだ。
心は壊れたまま、それでもまだ僕というアイデンティティは生きていた。
もうそれだけが救いだった。
そのほんの少し残った僕自身が叫ぶ。
僕は普通に生きたかった。
普通に学校に行って、普通に友達と遊んで、普通に就職して、普通に過ごしたかった。
そうすれば自分の身の丈に合ったことだけで事足りる。
なぜこんな事ができない、と罵倒される必要もなかった。
もしも、もしも普通の家庭に生まれて普通の人生を歩んでいた僕がいたとしたら。
羨ましくて仕方ない。
遠い遠い、僕の記憶、
もう、蘇ることのない暗闇の記憶。
だって、もう僕は死ねたのだから。
遠い遠い、僕の記憶。
底の見えない暗闇に沈んでいく。