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はなむけに贈る -Philia-  作者: セイル
はじまりと終わり
10/17

執行


「高遠さん、おはようございます。」


心地の良い低い声でゆっくりと覚醒していく。

ベッドのそばにいる鷹尾さんの表情が少し暗かった。

体を起こすとまだ疲れが残っているのか少しけだるい。


「ずいぶんとうなされていたので心配で起こしてしまいました。」


「うなされていた? 」


「こちらの世界に来てまだ慣れないのでしょう、よくあることですよ。」


そっとサイドテーブルに緑茶を出してくれた。

ちょうど飲みやすい温度の緑茶が体に染み渡る。


「シャワールームを拝見しましたが使っておられないようですね、昨晩はすぐお休みになったのでしょうか。」


そういえばベッドに横たわって考え事をしていたからすっかりと忘れていた。

さすがに女性に会いに行くのに体をきれいにしていかなければならない。


「今お借りしてもいいでしょうか。」


「ええ、私はその間朝食の準備をしていますから。ごゆっくりどうぞ。」


淹れてくれた緑茶をゆっくりと飲み干してそのままシャワールームに向かった。


さっきの部屋よりも少しだけ空気がひんやりとしていた。

その冷たい空気がだんだんと寝ぼけた頭を覚醒させてくれた。


脱衣所の棚には生前使っていたものとほとんど変わらないアメニティと洋服類が準備されていた。

天界といってもここは死後の世界、生前のデータがこちらにあっても何らおかしくない。

死後も同じように快適な生活が送れるなんて夢にも思っていなかったが、これはこれで新しく環境に慣れる必要がないからありがたい。


ご丁寧に洗濯機まで準備されていたため、自分の着ていたものをすべて入れて洗濯機のスイッチを押した。


申し分ない広さのシャワールームで朝から身も心もすっきりとした。

まるで自分好みのホテルに泊まっているかのようだった。

これで「あなたはもう死んでいるのです」と言われてもなんだか信じられなかった。


シャワーを終えて濡れた体をふわふわのタオルで拭く。

用意されている洋服も自分のセンスと全く変わらないものだった。


高校生まで制服だったのに急に大学生になると私服で学校に通わなければならない。

おしゃれに無頓着だった大学時代の僕のあだ名は「蛍光色」だった。

特に夏場はひどかった。

苦すぎる思い出。


社会人になってからはさすがに蛍光色のTシャツを着るわけにもいかないと思い少しは勉強をしたが、それでも人並みより少し下だとは思う。

そもそも人並みがわからない、というのが正解だったりもする。


着慣れたデザインの洋服に袖を通し、髪をセットする。

身支度が終わって扉を開けると美味しい匂いが漂ってきた。


「お疲れ様でした、ちょうど朝食の準備ができましたよ。」


シンプルなデザインのエプロンをした鷹尾さんがフライパンを片手ににっこりと笑う。

ダイニングテーブルの上にはフレンチトーストとスクランブルエッグ、クラムチャウダーが並んでいた。

フライパンを置いて戻ってきた鷹尾さんがエプロンの紐をほどきながら座るように促す。

自分の近い方に座ると向かいに鷹尾さんも座る。

二人で手を合わせて「いただきます」と挨拶する。

こんなにも施しを受けてなんだか本当にホテルに泊まっているようだった。


「お口に合えばいいのですが。」


「とっても美味しいですよ。」


特にクラムチャウダーが美味しい。

朝はあまり食欲がわかないはずだけれども、なぜか箸が進む。


そういえば、ミルニア様に面会の予定を伺わないと。

昨日決めたことをお話しないといけない。


「鷹尾さん、ミルニア様にお伝えしたいことがあるのですが。」


「執行の件ですか、かしこまりました。朝食を終えたら伺ってまいりますよ。」


「ありがとうございます。」


てきぱきと朝食を終えた鷹尾さんはすぐにミルニア様にアポイントを取りに行ってくれた。

その間ゆっくりと朝食を味わう。

食べ終えると食器を重ねてテーブルの端に寄せておく。

鷹尾さんはすぐに帰ってきた。


「高遠さん、今すぐにでも大丈夫とのことでした。」


「そうですか、では今から行きましょうか。」


すぐに洗面所に向かって口を濯ぐ。

そのまま部屋を出てミルニア様の部屋に向かった。


ミルニア様はあの青白い部屋で待っていた。

僕が部屋に入ると鷹尾さんがゆっくりと扉を閉める。

扉が閉まる瞬間、青白い光が強くなった。


「もう心は決まったのですね。」


「はい。」


「本当にいいのですか? 」


ミルニア様の視線が刺さる。

運命に導かれているからお前が言わなくてもわかる、とでも言いたいのか。


「僕は一週間という短い期間に幸せを与えられるよりも、自分のペースでゆっくりと幸せを定義づけていったほうがいい、と思ったのです。」


「もしもこの執行を受けなかったら、自分は不幸でしかなかった、もっとこうすればよかった、という後悔を背負って生きていかねばなりません、本当にそれでもいいのですか。」


昨晩の天真爛漫な様子とは全然違う。

真剣な表情をした『天使』がそこにいた。


――自分は不幸でしかなかった。


その言葉が重く刺さる。

幸せを受け入れないということは、不幸を受け入れるということ。

ミルニア様はそう言いたいんだろう。


鷹尾さんが僕の肩に手を置きながらそっと語りかけてくる。


「たった一週間、されど一週間です。とりあえずやってみるというのも大切。やらないで後悔するよりも、やって後悔したほうがいい。」


自分が執行を受けなかったから。

鷹尾さんが言うと言葉の重みが違う。

遠くで青白い光がゆらゆら揺らめく。

昨日あんなに悩んだのに。

僕の決断はここまで揺らいでしまったのか。

それも仕方ない。

もしかしたらこれもミルニア様の言う運命なのかもしれない。


「……わかりました。どうせ後悔するならその執行、受けましょう。」


「いいのですね。」


ミルニア様が真剣に僕の目を見つめる。

それに応えるように緑色の瞳を見つめ、そっと頷く。


「はい。」


後ろにいた鷹尾さんがミルニア様の隣に立つと、一礼し


「契約、遂行いたします。」


と、凛とした表情で言う。


「ミルニア様。」


目の前の天使はそっと頷くと部屋中の青白い光をその手の中に収めた。


「いいでしょう。新しい思い出、本当に会いたい人、そのすべてがこの天界と運命に委ねられています。」


手の中にある光は瞬く間に色を変化させる。


鷹尾さんはどこからか小さな水瓶を持ってきていた。

その水瓶の中にその光を込めると、部屋がまばゆい白の光に包まれる。


水瓶からワイングラスに水が注がれると僕と鷹尾さんにそっと手渡す。


「さあ、これを飲んで強く『幸せにありたい』と願うのです。」


その水を一口含む。


『幸せにありたい』


ただそう考えながら水をゆっくりと飲み込んだ。


「行ってらっしゃいませ。」


鷹尾さんの心地いい声が響く。

ゆっくりと意識が遠のいていく。


「どうか、お幸せに。」


どんどんと意識が遠のいて。

体に力が入らなくなる。

ミルニア様がそっと体を抱き寄せてくれる。

温かい。


薄れていく意識の中、鷹尾さんがそっと呟く。


「……行って参ります。」




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