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はなむけに贈る -Philia-  作者: セイル
はじまりと終わり
1/17

終止符

『6月20日、雨。


パラレルワールドとか、平行世界とか、もしそんな世界があったならば。

どこかの僕は幸せに暮らせたのだろうか。

もしも、もしもそんな世界があったのならば、そんな世界に生きている僕が羨ましい。

幸せになれなかった、不幸に生きた僕の人生に終止符を。』





とある雑居ビル。


その屋上には大雨の音が響いていた。

今日は天気予報で雨は止みそうにないと言っていた。

どんよりとした灰色の雲が空を覆っている。

もう、晴れた空を見ることはないんだろう、と思うともう少し空だとか街の風景だとかそういうのをよく見ておくべきだったかもしれない、と後悔した。


雨はだんだんと強さを増していった。

イヤホンから流れるお気に入りの音楽に大雨の音が混じる。

雨の音がなんだか耳障りだった。

ポケットに入っていた音楽プレイヤーで一段階だけ音量をあげる。

好きだった女性アーティストの高い声が心地よかった。

もうこの人の新曲を聞くこともないし、この人の声も聞くことはないだろう。

屋上にほんの少しある屋根の下で空を見上げながら物思いに耽る。



雨が冷たくならないうちに、早くやらないと。

今年に入ってから一日も欠かさず書いた日記を閉じた。

この日記のもう半分はこのまま何もかかれないままだ。

そういえば、この日記はこの表紙に一目惚れして買ったんだっけ。

でももうそんなことはどうでも良かった。


お気に入りの日記を、持ってきた大きな傘の中に入れる。

この雨に、どうか濡れずに僕の気持ちを届けてくれ。

そんな詩的なことを思ってしまうなんてもう末期かな。


この日記は僕が誰にも打ち明けられなかった事実、現実――

そしてそれをどう思い、なぜ今こうなったのかを記している。

これは僕なんかよりも大事なものだ。



どうか誰か見つけてくれ、と自分の身元がわかるものをそこら中に散りばめた。

運転免許証をカバンの中にしっかり入れて、財布は洋服のポケットに入れた。

お気に入りの曲を聞き終わって、携帯とイヤホンは日記と一緒に傘の中に入れた。

最後に日記の文字がにじまないように入念に傘の中でポジションを確認する。


これで、これでもう大丈夫。

何も思い残すことなんてない。


屋上のコンクリートに打ち付ける雨はさっきよりも心なしか強くなった気がする。

灰色の雲に覆われた空を見る。

僕はこの空の向こう側に、行けるのだろうか。

いや、行けなくてもいい。

こんな現実と別れられるのであればどこへ行ってもいいと思った。


僕はどこへだって行ってやる。

たとえこの先何が待っていようとも耐えられる。


もう大丈夫だ。


正面を見て一回、二回と深呼吸をする。

土砂降りの雨の中、そこに身一つで飛び込んでいった。

梅雨の時期に降る大雨だから冷たくは感じなかった。

シャワーを浴びるかのように大雨を全身で受けた。

この期待も、憎しみも、劣等感も、全部この雨で綺麗に流れてしまえばいいのに。

ふと、母の顔が浮かんだ。



「ごめん、僕は期待には応えられないよ。」



母親に、この気持ちが届くわけがないのに。

誰にも聞こえない、誰にも届かない。

それでも自分に言い聞かせるように呟いた。

その短い一言はすぐに大雨によって打ち消されてしまった。


前髪から水が滴っていても、もう気にはならなかった。

自分の身長よりも少し高い屋上の柵に手をかける。

下を覗き込むと誰もいない寂しい駐車場が見える。

そこにたどり着くときには、僕はもうここにはいない。


何だか想像ができなくて。

それでも今その想像のできないようなことをしようとしている。

足がすくむ。


そんなことではこの現実から逃げられないだろう。

怖がるな。

そう思って自分の頬を強く叩く。

気が変わらないうちに早くやろう。

怖いのは一瞬だ。

急いで自分の履いていた靴を屋上の柵のそばに置く。

しっかりと手入れのされている革靴が雨粒を弾いていた。


少しだけ高い柵によじ登るのは思っていたより簡単だった。

柵の縁に腰を掛けると短く息を吐いた。

さっきよりも下の駐車場がはっきりと見えた。

それでも、ここまで来てしまったから後戻りはしたくなかった。


大丈夫、怖くない。

もう一度息を吐くと目を閉じた。

ほんの少しだけ上体を傾ける。

もう少し、もう少し。


次の瞬間空へと飛び出した感覚があった。

落下していく感覚、少し怖いと思った。

もう一度目をぎゅっと瞑る。



もう、思い残すことなんて何もなかった。




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