第三話:赤い震撼
何でも思い通りになると思うなよ。
何でも言うことを聞くと思うなよ。
何でも征服し尽くせると思うなよ。
私は私でしかないし、私は私のみで動くんだから。
■ ■ ■
美里さんから教えてもらったとおりに道を行く。電車を乗り継いで、駅を出たら大学のほうを目指す。すると、明らかに最近建てられたばかりの綺麗なアパートが見えてくる。
「白波荘」という名の、二階建てで六部屋のアパート。そのアパートの二階、二〇一号室がユウちゃんの部屋だと言う。
アパートの前に、駐輪場がある。そこに「片里」と書かれた自転車が一台置いてあった。ユウちゃんの自転車だ。赤い自転車。ふと、前カゴを見ると、鍵がある。赤い鍵。もしかして、ユウちゃんの部屋の鍵かなあ。
それにしても、無用心な鍵の置き方だった。自由に入って自由に物を盗ってって下さいと言わんばかりの置き方。ユウちゃんがこんな置き方するはずがない。ユウちゃんは几帳面な性格で、整理整頓をしないと気が済まないほどだった。それなのに、カゴに平然と置かれた鍵。犯人が置いていったのだろうか。
その鍵を持って、ユウちゃんの部屋へ向かう。階段下のポストを過ぎ、階段を一段一段上っていく。
プレートには「片里」書いてある。間違いない、この部屋だ。
ドアノブを回してみる。ガチャガチャと言うだけで、開きそうもない。鍵は閉まっているようだ。私は、さっきの鍵を鍵穴にゆっくりと挿した。そして、右に回してみる……あ、逆だ。左に回してみた。
カチャリ。
鍵の外れる音。
私は恐る恐るドアを開ける。一瞬にして、鼻の中を生臭さが襲う。これが、血腥いという意味なのだろうか。とても臭い。鉄のさびたような、それでいてドロッとしたような臭い。
ドアを閉めて、靴を脱いであがってみる。犯罪なのは分かっているけど、そんなことを言っている場合ではない。ユウちゃんがどうなっているのかが、気に掛かる。
心臓はドクドクと早く脈を打ち、息は上がっている。恐い。恐い。恐いけど、ここに来たからには全てを確認しないと。何のためにここに来たの。全てを知るため、ユウちゃんがどうなってしまったのかを知るために来たんじゃないの?
奥の部屋へ行ってみる。六畳ほどの部屋で、テレビとテーブル、座椅子が置いてある。テーブルの上は綺麗で、物が置いてない。部屋全体を見回してみても、綺麗に整理されている。物は散乱していない。ただ、敷いてあるカーペットは少し寄っている所があり、赤いシミが付いていた。
何を思ったのか、私はそのシミを触ってみた。どうやら乾いているようで、カーペットはゴワゴワとしていた。どうやら、血のようだ。
部屋はもう一つある。その部屋の前まで来て、ゆっくりとドアを開ける。私の心臓はキリキリと痛くなるほどまで鼓動していた。額には暑くもないのに汗をかいていた。
ゴツッ
と、何かがあたる音と、急にドアが重くなる感触。少し力を入れてドアを押すと、開いた。中へ入り、ドアを閉める……。そのときに、ふと下を見た。
そこには、横たわる物。いや、者。白のノースリーブに、肩には傷痕、全身は赤黒いものが付着し、スカート、挙句の果てにはショーツまで脱がされていた。そして、その体の傍らには、黒髪の頭……横顔が見える――ユウちゃんだった。
私は、声を上げそうになった。実際には上げているけど、声が出ないという状態。全てが恐かった。恐ろしかった。あの忌々しい写真と同じ状況(と言っても、胴体は上半身しか見えていなかった)。仰向けに倒れるその胴体と、傍らの頭。ユウちゃんの変わり果てた姿だった。
気づくと、後ろに下がっていた。背中はドアを密着していた。足はガクガク震えていた。いや、全身が震えていた。吐きそうになる衝動を抑え、失禁しそうになる衝動を抑えるのに必死だった。駄目だ。自分から現状を見ておいて、そんな事になっては駄目だ。自分に言い聞かせ、制御をする。
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!!!
すると、玄関の方から物音がした。
ガタンと。
ドアに付属されたポストに手紙か何かが入れられたのだろうか。
とにかく、それさえも恐かった。
私は、部屋から出る。玄関の方へ足早に行き、急いで靴を履き、外へ出る。そして、鍵を閉める。ドアに背中を付け、深呼吸をする。まだ体は震えていた。
――っ!
ふと、誰かの声がしたような気がした。
――けてっ!
誰?
――すけてっ!
ユウちゃん?
――たすけてっ! ホノちゃん!
……。
――たすけてっ! お願い……。
知らない間に、震えは止まり、吐きそうになる衝動も、失禁しそうになる衝動もどこかへと消え去った。耳の奥にこだまするユウちゃんの声。気のせいかもしれないけど、確かに聞こえた、訴えかける声。ユウちゃんの声。
助けてあげたい。解放してあげたい。悪いもの全部取り去って、ゆっくりと休ませてあげたい。
震えていた体、動転していた心、拒絶反応が働いていた体、混沌としていた心。全部晴れた。意識は、全てユウちゃんの声に向いていた。そして、バッグの中の――を意識し始める。
そういえば、あの手、どこかで見たような気がする。特に気にしていなかったけど、親指の爪がなかった。あの手。毛深く、大きく……。私の記憶のどこかで引っかかっていた。どこで見たんだろう。どこで知ったんだろう。どこで……。
っ!
思い出した! あいつだ。あの男だ。あの男がユウちゃんを殺したんだ。
私は、再び、ユウちゃんの部屋に入りあの写真を探した。あるわけがないと思って、ダメ元で探してみた。意外に残っていた昔――虐待を受けていた頃の写真をはじめ、中学、高校、大学の写真(やっぱり、昔の写真には笑顔のユウちゃんは写っていなかったけど、中学の写真の何枚かと高校、大学の写真は笑顔で写っていた)。その虐待を受けていた頃の写真に、死んだお母さんとあの男が写っている写真を見つけた。ユウちゃん、何でこんな写真を残しておいたんだろう。一番辛いときの写真じゃないの? 残しておいて何をしようと思ったの? もしかして、ユウちゃん。あの男に復讐しようと思ってたんじゃないの?
ユウちゃん。わかったよ。助けてあげるよ。ユウちゃんの苦しみを解いてあげるからね。だから、安心して……眠ってね。
全ては、ここで終止符を打ってみせる。