第一話:赤い悪感
つまらないことには、もう関係したくないと思っている。
くだらないことには、もう関与したくないと思っている。
飽きがくることには、もう近接したくないと思っている。
最低最悪なことには、もう接近したくないと思っている。
■ ■ ■
毎日、たわ言のような暴言を吐き、頭の天辺から足の爪先までを倦怠させ、もはや、一ミリたりとも動きたくないような衝動に駆られることがある。稼動停止。もう、全てのスイッチを切って、全てのことから逃げたかった。それは、生きていることが嫌であるということを意味しているわけではなく、生きているけれども、抜け殻同然のようになりたかっただけだ。それが、私にとってどれだけ意義があることか、周りは理解してくれない。別にいいのだ。非常識で不親切で無神経で未解決なこの問題は、私一人だけのことにして欲しいし、誰にも関わって欲しくないし、近寄って欲しいとも思わない。
なんてね――。
そんなことはいってみても、暴言はどれだけでも吐けるよ。誹謗、中傷、挙句の果てには猥褻なことだって平気で言える自信(こんなこと、自慢にはならないが、自信に繋がる)はある。ただ、本当に今は誰にも関わりたくないし、近寄りたくない。人間不信というわけではないが、しばらくの間は一人にして欲しい。
ついさっきまで泣いていた。枕をビショビショに濡らすほど、大声を上げて泣いた。部屋にその嗚咽はこだまし、全ての悲しみをなぎ払おうとしていた。それだけで悲しみが晴れるわけもなく、ただただ、長い時間をかけて泣いていた。久しぶりに泣いた。大声を上げて泣いた。それまで泣いていたといえば、転んだとか、可愛がっていた犬が事故に遭って死んだとか、そういう「不慮の事故」で泣いていた。
部屋に入ってから三時間。電話は来ない。メールも来ない。ドアもノックされないし、部屋の外からの呼びかけも無い。すでに、涙は枯れ果てた。
最後に電話がなったのは今から四時間前のことだった。メールが携帯に届いていた。一週間に四通来るか来ないかのメール。久しぶりのことだったので慌てて携帯を確認した。相手は同じ高校に通っていたクラスメイト――ユウちゃんだった。何年ぶりだろう。
ユウちゃんは可愛くて、真面目で成績優秀。クラス委員にはならなかったものの、文化祭実行委員長として、今までに無いくらい文化祭を盛り上げていた子。吹奏楽部でフルートを担当していた彼女は後輩のみならず、同級生からも慕われていた。そんな子と私は仲良くしていた。あまりに恐れ多くて、周りから嫉妬されるんじゃないかなんて思っていた。それほど、ユウちゃんは皆から好かれていた。信頼されていた。私はそんなユウちゃんが羨ましかった。ユウちゃんのようになりたい。そんな風に思っていた。
そんなユウちゃんからのメール……なんだろう。と思い。早速開けてみる。
――。
青天の霹靂というのはこういうことを言うのだろうか。今まで雲ひとつ無かった青空に突如として暗雲が立ち込め、轟音の雷と滝のような雨が降ったような。そんな雰囲気にさせるような内容を疑った。――内容というよりも、そこにあった一枚の写真を疑った。
むしろ、メールには一文字もなく、そこには一枚の写真しかなかった。
携帯の画面に広がるその写真。怖いけれど、目を背くことが出来なかった。目を背けることを体が拒否した。
心では部屋の白い壁が見たいと思っているのに、体が動かなかった。
動けなかった。
何も出来なかった。
ただ、その写真を食い入るように見るしかなかった。そして、その写真を凝視したことを悔やむしかなかった。その瞬間は泣こうにも泣けなかった。
心が動転してしまって、壁が見たいのと、何だこれはという二つのことが心の中で糸のように縺れ合っていた。
その写真。今にしてみれば、吐きそうなくらいに気持ち悪かった。
そこには、赤い色が中心となっていた。そこに写っているのはユウちゃんであることには間違いない。
ただ、普通ではなかった。異常だった。
ユウちゃんは黒い髪を掴まれて、何者かに持たれていた。赤い。そこではじめて知ったのは、ユウちゃんの顔が大きく写っているが、後ろには体のようなものが見えていた。赤い――ピントが合っていなくて、多少ぼやけてはいたが、それが人間の体であることは分っていた。赤い。白いノースリーブを着た、体。その体がユウちゃんの体であることが分ったのは、肩にあった大きな傷痕が見えたからだ。ぼやけていてもはっきりその傷痕は分かる。
――ユウちゃんは小さい頃、虐待を受けていた。
血の繋がりの無い男に、殴られ、撲られ、蹴られ、踏まれ、切られ、斬られ、弄られ、弄ばれ――保護された。
強い心の傷を負った。
可哀想な子だった。
男は逮捕された。お母さんは逃避した挙句に死んだ。
高校時代はいつも笑顔で、皆から好かれていたし、信頼されていた。だけど、過去は暗く、惨めで、傷だらけの毎日だった。
中学も半分以上欠席したけれど、ユウちゃんは後に優しい親戚に引き取られ、一生懸命勉強をした。
中学入学当初から中学三年の二学期初めまで登校拒否をしていたけど、中学三年になってから半年で中学の二年までの勉強を終えるほど、猛勉強した。
何で、あんな境遇にあったのにそこまで頑張れるのか、理解が出来なかった。体に傷は残っているけど、心の傷はどうなんだろうと、ユウちゃんと仲良くしていていつも思っていた。聞こうにも、そんな野暮なことは聞けない。聞いちゃいけない。禁忌だ。でも、時々、そんな幼いころにつけられた肩の傷痕を見て泣いていることがあった。やっぱり、心の傷は完全には癒えないんだろう。
赤くて紅くて朱くて丹い写真。ユウちゃんが――苦悶の表情のユウちゃんがいる。赤い。体が後ろにあって、写真に大きくユウちゃんの顔。人間の首はそんなに長くない。ユウちゃん。一体、どうしちゃったんだろう。何がどうしてどうなっているか、私は最初、全然分からなかった。
ようやく理解できた頃、私は、枕に顔をうずめて大きな声で泣いた。ユウちゃん……。どうして?
警察に連絡しようと思ったけど、出来なかった。体は大きく震えて、目からは涙が止まらなくて、大声を止められなくて。怖かった。悲しかった。恐かった。哀しかった。
混乱していた。混沌としていた。混雑していた。混迷していた。何もかもが無秩序で無軌道だった。私は私を制御できずにいた。