六、魯が虞淵の家を訪れ叔父が不穏な事を云う
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暫くは、あれが夢だったのか現実だったのか区別が付かないような、暖かい霧の中に浮かんでいるようなそんなぼんやりした気分だった。
本当に美花と結婚出来るんだろうか?
婿に入ると云う事は、あの張酒家の次期店主に成れると云う事だ。
毎日泥まみれで働かなくてもいいのだ。
そんな事は人を雇ってやって貰えばいい。
張の旦那様のように、絹地に刺繍がしてある服を着て、店の前できらびやかな金持ちの客を出迎える自分を想像してみたが、貧相な自分に旦那の様な格好は似合わないだろう。全く思い描く事が出来なかった。
「どうした? 灯りもつけないで」
叔父が来たのも、そう声を掛けられてやっと気が付いた。
酒の徳利を掲げ、背中に背負っている篭からは魚の生臭い匂いがする。
私が余程呆けた顔をしていたのだろう。酒と魚の匂いの染み込んだ乾いた手を額に持って来て「熱は無いようだな」等と云う。
「いや、一寸疲れて寝ていたらこんな時間になってたんだ。なんでもないよ」
そう、起きたまま夢を見ていた様なものだ。あながち嘘でもない。
あれは夢だったのだ、あんな幸運が私に舞い込む訳はないじゃないか。
叔父の苦労を重ねた皺くちゃな顔と酒と魚の匂いが現実に引き戻してくれたじゃないか。
私はきっと死ぬまで貧乏百姓なんだ。今迄それが当たり前過ぎる当たり前の事じゃないか。
薪が燃えてはぜるおとがした。家の中が暖まり、いつものように叔父が二客の茶碗に酒を注ぐ。
粗末な腰掛けに腰を下ろし、茶碗を口に近づけたその時、戸を叩く者が在った。
「虞淵さん、魯です。張酒家の。旦那様に頼まれて来ました」
叔父が戸を開けると魯は転がる様に入って来て開口一番
「明日早目に荷下ろしを終えて、旦那様の所へ行って下さい。式の前に店や家の事を教えて置きたいそうなんで」
夢と現実の逆転。それは酷い目眩と混乱を伴った。
叔父はまるで咎めるかのように厳しい顔で私を見る。
「どういう事だ?」
黙っていた事を怒っているのだろうか?
それとも何か人の道を外れる様な事をして幸せをもぎ取ったと思っているのだろうか?
「おお、これは、虞淵さんのご親族の方ですか? 式の日取りはまだ決まって居ないんですが、決まり次第お知らせしますんで是非ご出席ください」
魯が呑気にそう云うと叔父は一気に茶碗を傾け酒をあおる。
「……罪滅ぼしのつもりか?」
小さな声でぼそりと云ったその言葉を、魯は聞こえていないようだった。