五、張が虞淵を晩餐に呼び思いがけない話をする
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どんなに余裕が無くても、新品の服を常に一揃え持っているべきだ。そうすれば要らぬ所で恥をかかずに済む。
これは生前母が云っていた言葉だ。特別なものや上等なもので無くてもいいから、兎に角小綺麗な姿で赴かなくてはいけない時や場所がある。
葬式だったり、結婚式だったり、或いは金持ちの家の晩餐に呼ばれたり。
葬式や結婚式はともかく金持ちが私を家に招く事は一生無いと思っていた。
だが、あったのだ。
母の言い付けを守って、常に新しい衣類を用意しておいて良かった。
――桃のお礼に――
そう云って、美花が招待してくれたのだ。正確に云えば、招待してくれたのは張の旦那様で、美花はそれを伝えただけだが、それを聞いた時、桃の種の事などどこかへ消し飛んだ。そうだ、あれは偶然なのだ。父の顔に見えたのも単なる思い込みだろう。
しかし、本当にこんな事があって良いのだろうか?
どんな料理が出てくるか楽しみなのもあるが、美花と一緒に街一番の大店、張酒家の料理が味わえるなんて。
行ってみたら張の旦那様に“そんな話はしていない”などと云われて放り出されたりしやしないだろうか?
しかし、そんな心配は徒労に終わった。張の旦那様は、金持ちの常連客が来た時のように満面の笑みで私を出迎えてくれた。
「君が虞淵君か、よく来たね。晩餐と云っても賄いのようなものばかりなんで心苦しいが、どうか存分に食べて行ってくれ」
通された部屋には既に料理が並んでいて、そのどれもが見たことの無いような素晴らしいものだった。これが“賄い”だって? とんだ謙遜だ。それとも張酒家の使用人達は毎日こんなに豪華な賄いを食べているんだろうか?
豪華なのは料理ばかりでない。
私が席に座って暫くすると、美花が現れた。
若草色の着物の上に薄紅色の紗のはおり物、きちんと結われた髪を飾っているのは金銀の髪飾りと本物の花だし、耳環は綺麗な涙型の白い石の付いたやつだ。
もう彼女から目が離せない。彼女の周りにだけ春が来て、花が咲いているようだ。否、春の花々だって、彼女の美しさには負けてしまうだろう。
給仕の姐姐が料理を取り分け、「どうぞ」と云うまで私は、桃源郷をさ迷うような心地よい熱に浮かれていた。
「魯から聞いたんだが、君は李さんの息子さんだそうだね」
商売の話や農業のたわいのない話などをしていると、ふいに旦那様がそう訊いてきた。張酒家との取り引きは父が死んでから、私が友人のつてを頼って始めたので、張の旦那様が父を知ってるなんて意外だ。
「はい。父を知ってるんですか?」
「知ってるも何も、李と私は友達だったんだ。まあそれも、子供の頃の話だがな。大人になってからはお互い忙しくて疎遠になってしまって………」
それは初耳だ。
しかし、同じ街に住んでいるのなら別段珍しい事でもない。
「子供の頃の父はどんな感じでしたか?」
「ガキ大将だったよ。苛められっ子の私をいつも助けてくれた。その頃私の家は頃は貧しくて、私は体も小さくてガリガリに痩せていたからね」
恰幅が良い今の彼からは想像もつかない。そうか、そういう苦労があったからこそ、こんな大きな店を一代で築く事が出来たのだな。と感心した。
「父様、一人でばかり虞淵と話してずるいわ」
それまで小鳥が木の実をつつくような可愛らしい所作で料理を食べていた美花が云う。
「おお、美花、すまなかったね。そうだ、ちゃんと桃のお礼は云ったのかい?」
「もう、いつまでも子供扱いして」
頬をぷうっと膨らませて怒った顔も愛らしい。笑っても怒っても綺麗だなんて、美花と結婚したら毎日が楽しいに違いない。
でも、そんなのは夢のまた夢だが。
「ふむ、どうも男手ひとつで育てて来たので我儘になって困る。どうだろう? 虞淵君、こんな我儘な娘でよかったら婿になってやってはくれないか?」
……えっ?
今のは何かの冗談なのか? それとも聞き間違いか?
「美花は死んだ母に似て体が弱くてね。他所に嫁がせるよりも婿をとった方が良いと常々考えていたんだ。李が君の為に遺した農地は人を雇って手入れさせれば良い。そのくらいの金は自由にさせてやるつもりだ」
私が呆然としてると、張の旦那は次から次へと提案して来る。どうやら冗談ではなく本気らしい。
「ちょ、ちょっとまってください。そりゃ街一番の美人である美花さんと結婚出来るなんて願ってもない事ですが、私は貧乏百姓ですし、大体美花さんの気持ちは……」
私が慌ててそう云いながら美花の方を見ると、彼女は着物の袖で口を覆い、頬を赤らめている。
やはり、あの桃は凶事の前触れなんかじゃない。
きっと父と母が私が幸せになるように授けてくれたんだ。