三十二、虞淵、本当の恐怖を知る
◇
「そういえば、張酒家の若旦那が産婆さんをおぶって走ってるのを見たけど、お子さんお産まれになったの?」
「それがねえ、可哀想に、死産だったのよ。張のお嬢さんは身体が弱いからねえ、仕方ないわよ」
店の客がひそひそとそんな話をしているのが聞こえて来る。産婆はあれを“死産”としたようだ。説明しようと思っても説明し難い出来事なので彼女自身もそう思い込む事にしたのだろう。
美花は暫く臥せっていたが、徐々に元の美花に戻りつつある……と思う。
あの一件は夢か幻だと、思えるようになったある日の事、不可思議な事件が起こった。
「旦那様、大変です! 道鑑様が……!」魯が血相を変えて道鑑の訃報を報せた。
義父はもうこれで死んだ赤ん坊を買い取らなくて済む。と、胸を撫で下ろしながらも御座なりな悔やみの言葉を考えていたようだ。
しかし、単なる病死や事故死ならそこで終わりなのだが、道鑑の死は何とも不可思議な死に方なのだ。
「寺が何者かに襲われ、殆どの僧侶が無惨な死を遂げ、道鑑様は首と胴を千切られた悲惨な状態だったらしいのです。おお何とおいたわしい」
生き残った僧侶の話に依ると襲ったのは身体の溶けかけたような化け物で、蜜のような甘い臭いがしたと云う。
……父だ……
僧侶が余りの恐怖で寺の布施や仏像を狙って入った物盗りの姿を化け物と見間違えたのだろう。と魯は云ったが、物盗りならいくらなんでもそんな残酷な殺し方はしない。
私には判る。
父の仕業だ。
父が怨みを晴らしたのだ。
それならばもう父は思い遺した事は無い筈だ。大人しく土塊に戻る筈だ。
しかし、それから数日後、私の叔父が死んだ。
やはり首と胴体が千切られた変わり果てた姿で、いつも漁で使う舟の上で発見されたと云う。
道鑑、叔父、それは父が死んだ原因を作った者達ではないのか?
道鑑が居なければ父は蜜人になろうなどと思う事はなかったし、叔父と母が無理矢理連れ帰ろうとして父は死んだ。
そして、その一部始終に関わっていた義父の張。
母はとうに亡くなっている。次に犠牲になるのは……
「虞淵、話が在る物置に来てくれ」私が考えていた事を察したかのように義父が云う。云われるままに従って物置に行った。
とうとう私が蜜人になる時が来たのか。しかし、何故、今なのだろうと云う疑問と共に。
「私はこれから蜜人になる準備をする。その時が来たらこの、蜜を満たした棺に入れてくれ」
一瞬、義父が何を云っているのか解らなかった。
あの蜜の棺は父か私の為に用意したものだと思ったのに。
「李の鬼が怨みを晴らしているのだろう? 次に狙われるのは私だ。私は物置に籠り、身を守りながら蜜人となる事にする。店と美花をよろしく頼むぞ」
相手は化け物だ。いくら物置に鍵を掛けたとしても、そんなものは何の役にも立たない。
「そんな……何故お義父さんまで蜜人になろうとするのです?」
「李が叶えられなかった望みを叶えるのだ。そうすれば私は李に勝つ事になる」
……絶句した。
今まで父と義父を繋いでいたものは友情だと信じて疑わなかったのに。
父は義父に嫉妬し、義父は父に嫉妬していたのか。
「広大な農地を持つ恵まれた農家の子供……李が、貧しい私にこっそり茹でた豆だの玉蜀黍だのを恵んでくれる度に思っていたのだ。施される身分は嫌だ。いつか自分が李に施す立場になろう。と」
今、充分豊かな生活を手に入れたのに?
「立場はすっかり逆転したじゃないですか!」
「いや、まだだ、私が完璧な蜜人になれば李の怨念は悔しさのあまり消えるだろう。自分でも何故そう思うのか解らないが」
もう、どうしたら良いのか解らなかった。
義父は次に自分が殺されるかもしれない恐怖で気がおかしくなったに違いない。
義父を残し、一人で美花の居る寝室に行くと、美花が背を向けてすらりと立ち、何かを齧っていた。
「父様はとうとう蜜人になってしまうのね」
……何もかも知っていたのか。
「美花、私はどうすればいい? このまま君と幸せに暮らせる権利など在るんだろうか?」
床に膝をつき、許しを乞うように、美花が何か云ってくれるのを待った。
「好きに生きればいい、お前は私の欠けたものを繋いでくれたのだから」
心臓が跳ねた。
美花の声ではないのに美花の口から出たそれは父の声だったからだ。
やがてゆっくりと振り向いた美花は手に桃を持ち、その口許も着物の胸元も父の亡骸を糧として育った木の忌まわしい果実の雫で真っ赤に染まっていた。
その姿は悪鬼のように恐ろしく、花の精のように美しかった。
HONEY MAN
〈了〉




