三十、顔の見えない子供が不具の蟹を捕まえる
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「その様に急がずとも、初産ですから産まれるのはまだまだ先ですよ、陣痛が始まってから丸一日掛かる時もあるんですから」
そう云う産婆をおぶり、街を駆ける私は傍目から見れば年寄りを拐う暴漢に見えるに違いない。道行く人々が驚いたような怪訝そうな顔で此方を見るが、呼び止められたり捕らえられたりしないのは、絹の一揃えに刺繍の胴着と云った私の身なりの良さと、おぶっているのが街でも割りと名の知れた産婆だからだろう。
「でも!とて……も苦しそうな……んです」
「苦しそうなのは若旦那様の方でございましょう?」
小柄な媼と思い高を括った。
意外と重かったが今更後には引けないし、産婆がどんなになだめようが、美花が心配で堪らないのだ。
店に着き、産婆を降ろした後、まるでふわりと宙にまいあがるような感覚を覚えた。全く、女は歳を取ると体の中に石でも沸き出るのではないか?
妙に体が軽くなった感覚が消えると、腰の痛みと疲れと、そして耐えがたい眠気が襲って来た。
気が付くと薄紅の霞の中に居た。いや、この霞に見えるものは桃の花だ。
一面の桃の林だ。果てが見えない程の。
「虞淵」
美花の声だ。美花が私を呼んでいる。美花の姿を探していると、ふいに下の方から舌足らずな声が聞こえた。
「おとうさま」
子供だ。
「おとうさま、蟹を捕まえました」
小さな手を私に差し出すその子は、今から産まれようとしている私の子供なのだろう。
「蟹? どれ、見せてご覧」
蟹などどうでもいい。
子供の顔を見たいのだ。
なのに
子供の顔がどうしても見えない。
こっちを向いているのに、こんなに近くにいるのに、霞がかかったように、そもそも顔自体が無いように、どうしても見えない。そのくせに
「ほら」子供の小さな手に乗せられた蟹だけがやけにはっきりと見える。しかもその蟹は……
「この蟹可哀想なんです、おとうさま。脚が一本無いんです」
ああ、あの時の蟹だ。こんな所に居たのか。等と思って蟹を見ると甲羅にやたらと皺が寄っている。
じっと見ていると人の顔の様に……
「虞淵!」
美花の声の方を向くその刹那、蟹の甲羅が嗤っていた。
そう、それはあの顔だ。
桃の種に現れた、亡き父のあの顔だ。
「おとうさま。蟹がお礼を云っています。欠けたものを繋いでくれて有り難うって」
不可思議なその言葉の意味を探るように再び振り向くと、顔の見えない子供が笑っていた。
顔が見えないのに何故笑っているのだろう。
欠けたものを繋いだ? あの蟹の脚は欠けたままだ。
蟹の甲羅に現れた亡き父の事か? 欠けたもの? 繋いだ?
何かを思い出したような気がしたが、一陣の風が桃の花弁を全て散らし、殺伐とした灰色の世界が現れ、そして美花の悲鳴が聞こえて目が覚めた。
「大きな桶を二つ持って来てください! ひとつは産湯用に! もうひとつは羊水と後産を受けるので!」
産婆が叫んで、姐姐達がバタバタと走り回っている場面が目に飛び込んで来た。
「虞淵、良かった。やっと起きたか」
義父が私を覗き込んでいる。
私はどのくらい眠っていたのだろう?
いよいよ産まれると云う事は、それほど長い時間寝入っていたのだろうか?
「美花がさっきから君を呼んでいる。手を握ってやりなさい」
産室に男が入るものではない。と、誰かに聞いた事があったので遠慮するつもりだったが、美花が呼んでいるなら話は別だ。
しかし、入った途端後悔した。
美花が、まるで悪鬼のように見えたのだ。
叫び、悶え、花のかんばせは苦痛で歪み、茹でられたかのように赤くなっている。振り乱した髪は汗で顔や首に貼り付き、目などは今から憎い奴を殺そうとしている鬼女のそれだ。
しかし、それなのに、愛おしさが溢れてくるのは何故だろう?
「美花、私は此処にいるよ」
少しばかり微笑んだかと思えば直ぐに悪鬼の顔に戻る。
「もうひと息ですよ!」
産婆が云ったその時。
ひときわ高く叫んだ美花が静かになった。
いや、静かになったのは美花だけではない。
産婆が凍ったように動かなくなった。
産婆の手元を見ていた手伝いの姐姐も。
そして、異変に気付き飛び込んで来た義父も。
それは時間にすれば一瞬の静寂だったのだろうが、私には永遠に近い程長く感じられた。




