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HONEY MAN  作者: 鮎川 了
29/32

二十九、美花、朽ちた木に成った桃を守りとする

◇ 



 臨月を迎えた美花は、その腹の膨らみとは対称的にやつれた顔をしている。

「妊娠初期に、悪阻で痩せてしまうご婦人もいますが、大きくなった赤ちゃんに胃の腑が押し上げられ、食欲が無くなる場合もございます。あまり珍しい事ではありませんし、赤ちゃんも順調に育っているようなので心配なさらぬよう」

 産婆が云う。しかし、痩せただけならまだしも顔色も悪いし元気も無い。

 性格も変わってしまったような気がする。以前はほころび始めた桃の花のように若々しく可愛らしく溌剌としていたのに、今の美花は日陰に人目を忍んで俯いて咲く銀竜草の様だ。

「何か食べないと。そうだ、料理長が新しい甘味を作ってね、それが客に大評判なんだよ。持って来てあげよう」

「いらない……」

 甘いものなら喉を通るかと思い、云ってみたが、こんなにはっきりと断られるとは……溜め息を吐きながらふと、寝台の横の卓を見ると薄紅色の丸いものが置いてあるのに気付いた。

「美花、これは?」

「貴方が持って来てくれた桃よ。赤ちゃんが産まれたら食べるのよ。その時は私、きっと何でも食べられるようになってるわ」

 あの朽ち木に成った桃か。

 すっかり忘れていた。

 あれから何日も経ったから腐っているかと思いきや、何処も傷んではおらず、ついさっきもいで来たかのように瑞々しく見える。

「美花、桃なら買ってあげる。この桃は捨てよう。きっと中身は傷んでいるよ」

 そうだ、どんなに外側が瑞々しくとも、何日も経ったのだ、中身は酷い状態になっているに違いない。

「嫌よ!」それまで気だるく弱々しい声しか出せなかった美花がぴしゃりと張りのある声で云う。

「虞淵が持って来た桃だもの、これを食べれば私、元気になるのよ。あの時もそうだった。だから捨てないで」

 愛おしさに胸が張り裂けそうだ。美花は桃に執着している訳ではなく、私からの贈り物を大切に思ってくれている。

「美花、子供が産まれて君が元気になったら桃の苗を買いに行こう。沢山買って私の畑に植えて桃園を作ろう。夏の休みの日はそこで親子水入らずで過ごすんだ」

 そう、いつか見た夢の情景のように。桃園の真ん中には螺鈿の卓と椅子を置こう。

 美花の蒼白い頬に僅かに赤みがさし、微かに微笑んだ。

 しかしその微笑みはやがて苦痛の表情となる。陣痛が始まったのだ。

「美花、産まれるのかい? 産婆さんはさっき此処を出たばかりだから誰かに連れて来て貰うからね!」

 しかし、男の使用人は皆店に出ていて誰も居ない。それに此処で一番走るのが速いのは私のような気がする。

「姐姐! 姐姐! 美花を看ていてくれ! 私は産婆を連れて来るから!」

 水差しを持ち、しずしずと歩いて来た姐姐にそう言い残し、私は外に飛び出した。

 絹の服が擦れて悲鳴のような音を立て、私は産婆の年老いた背中を探す。

 ……嗚呼、しかし、あの桃園の夢の結末は禍々しいものだった……と思い出しながら。





 



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